【ep.9】悲しみよ こんにちは

 なあ兄弟、前のところからこれを書き始めるのに俺はどれほどの時間がかかったと思う? 実際、俺はかなり参ったね、うん、まあでもこれは大事なミッション……いやミッションという言い方はよそう、まあつまり試練なんだよ、俺は敬虔なクリスチャンみたく自分に降りかかった不幸とか悲運を試練と思うことにしているんだ、『狭き門』みたく、求めるところには二人分の隙間はないらしい。

 いやこんな被害者ぶった表現はよそう。なあ、兄弟、人間関係ってのはそこに宇宙が広がっているもんなんだ、それはその、複雑という意味で。だからまあ察してくれ、俺は宇宙に触れたんだ、そういう意味では悪くはないことだった、だって人間同士の宇宙を知らないやつが小説なんて書けるわけないしな。……

 とにかく、俺は俺の本分を思い出したよ。俺の本分は小説を書くことだ、それ以外に何もありはしない。俺はひたすら書くだけだ、もう引き返すところがないほどに。

 ごめんよ、兄弟、俺はお前にも不誠実なことをしたのかもしれない。ここまで付き合ってくれたお前にはすべてを話す義務があるというのに。……俺は正直まだ自分のなかで処理しきれないんだ。何が良くて何が悪かったのか、そもそも良し悪しの問題で片付けていいのか、不透明だよ何事も。そしてようやく俺はこの一件との距離を掴めそうだから、お前にも話すよ。

 一件ってのは、まあご察しの通り彼女のことだ。結局俺は、どうしたことか彼女に告ったんだ……うん、でまあ、撃沈。それだけなら良かったんだか、彼女は泣いてしまった、彼女は俺との関係を友人として考えていたわけで、そしてもっと言うのなら俺と親しくしたのは、俺がやたらめったらに欲情する輩とはちがうと信頼してのことだったらしい。まあ、兄弟、彼女を責めたりはしないでくれよ、彼女は色々と男女のトラブルがあって傷心気味だったんだ。……だから俺が何か察すれば良かったのかもしれない、まあ、いまさらどうということも言えないけどさ。

 実際、俺はもっとお前に話すべきところがある。それは俺のなかの衝撃のより核心的なところでもあるんだが、勘弁してくれ、兄弟。別に俺の名誉のためじゃない、彼女の名誉のために。彼女は悪い奴ではないんだよ、きっと。

 ……俺は不意に『悲しみよ こんにちは』を思ったね、俺は彼女という人間を傷つけたあとでようやく知覚したのかもしれない。擦りガラス越しのダイヤを壊して、はじめて人は見ていた結晶の重みを知るものさ。それと自分の手のごつごつしたいかつさも。

 ま、そういうことさ。別にへこたれたりはしてないからさ、俺は俺で頑張るよ、お前もお前なりに頑張りなよ、兄弟。


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