第1話 軍事高等学科
「――つまりはさ、僕はこの食堂では、一番、カレーライスが美味しいと思うんだよね。味付けにしても、盛り方にしても。あのおばちゃんはセンスがある。才能がある。さすがは六十年も生きているだけのことはあるよね」
スキップをしているような足取りで歩く少女が、目をごしごしと擦りながら言う。
寝ぼけているというのに、よくもまあ、そこまで口が回るもんだなと――
「確かに、おばちゃんのカレーが美味しいってのは俺も認めるけどさ。つうか、お前、おばちゃんが何歳か知ってるの? 六十年とか言ってるけど、おばちゃんって六十歳なの?」
「さあ? 知らないよ。だいたいの見た目で六十歳くらいじゃないかなって思っただけ。冷静に、分析してみた結果だね。しわとか、喋り方とか、仕草とか、匂いとか。そういう情報のピースをかき集めて、完成させた絵は――おばちゃんは六十歳だ、という結果だったんだよ」
少女の返答に、ふーん、と相槌を打つ。
傷枷は、隣を歩く少女・
薄い紫色が混ざっている黒髪を、床まで垂らしている少女。
杖をつき、体のバランスを崩さないように歩いている。彼女は、体が弱かった。
怪我と病気に、すぐ襲われてしまうほどだ。
そんな彼女は今、軍服を身に纏っている。それは、ここ、
斜影峰学園。
軍人を育て上げる機関。高等学校という表の顔を持つ、軍隊である。
どうして、体が弱い彼女がこんな物騒な場所に通っているのか。
その理由は単純明快――、本人が望んだからである。
つまり、上京の保護者役でもある傷枷は、必然的に同じ高校――ここ、斜影峰学園に通うことになる。
正直、傷枷としては嫌だった。来たくはなかった――こんな場所。
こんな地獄、こんな死地。
望んで来ている奴は異常者なのではないか、と思ったこともある。
しかし、そう考えるということは、上京も異常者になってしまう。
それに気づいて、傷枷は自分の意見をすぐに折った。
考えを崩したのだが、そうでなくともやはり、上京はおかしいのかもしれない。
そう最近は思い始めてきている。
地面に落ちている屍。それを見て、感じることは誰にだってあるはずだ。
恐怖や悲しみなど……、決して――笑うことはないはずなのだが。
でも……上京は笑った。口元を歪ませて、目を細めて。
楽しそうに、笑っていたのだ。
その様子に恐怖したのかと問われれば、傷枷は言うだろう……した、と。
したのだ。それは嘘ではない。間違いではない。だけど、その様子を見て上京を嫌いになったのかと問われたら、傷枷は答えるだろう。――なっていない、と。
それくらいで崩れるような関係ではない。
何年も隣を歩いてきたのだ。体の弱い上京を支えてきたのだ。
今更だ。上京の新しい一面を見たところで、思うことは変わらない。
今と変わらず、生活していくだけだ。
「ん、ねえねえ、みっちー」
「なんだよみっちーって。俺を下の名前で呼ぶんじゃねえよ」
上京の舌で飴玉を転がすような甘ったるい声を、傷枷は拒絶した。
自分の下の名前、道々。他人からは、別におかしくはないと言われる。
ただ、珍しいとは言われるが。
しかし傷枷は、この名前が嫌いだった。理由は特にないが、なんだか嫌なのだ。こればっかりは好みの問題なのか。どちらでもいいが、とにかく、傷枷はこの名前が嫌いだった。
だから呼ばれることを良しとしない。それは誰でも一緒だ。たとえ小学生時代からの付き合いである上京からでも、名前で呼ばれることは嫌だった。
いや、上京だからこそ、名前で呼ばれるのは嫌なのかもしれない。
呼ばれた時に向ける憎悪が、上京では困るから。
だからこそ、名前なんていらないと傷枷は思う。
改名してしまおうか。それとも、名前を消してしまおうか。上京のように。
名字だけで生きていくというのも、別に困ることでもないだろう。
「じゃあ、傷君って呼んだ方がいいの? でもさあ、ずっと一緒にいるんだからさあ、やっぱり下の名前で呼びたいよ。僕には下の名前がないから、だから羨ましくなっちゃうんだよね」
「自分にないものは、羨ましく感じるもんだよ。俺だってそうだよ。お前が持っていない名前を、俺は羨ましく思っている」
「珍しいよね。ないものを欲しがるのではなく、あるものを失くしたがるなんて」
ししし、といたずらっ子のように笑いながら、上京が言う。珍しいのだろうか。いや、珍しいのだろう。傷枷のことだから、自分自身のことだから分からないだけで。
やはり、自分が抱いている感情は、珍しいものなのだろう。
そうこうしている間に、いつの間にか食堂に辿り着いていた。
中を見て、人は多くはない、と確認する。今日は休日なので、食堂には来ないで外出している生徒が多いのかもしれない。それについては好都合だ。
いつもならば混んでいて使えない、広々としているテーブルに近づき、椅子に座る。
「カレー!」
上京が座ってすぐにそう言った。
予想をしていた傷枷としては、あまり驚くことはない。
「絶対絶対に、カレーだよ!」
「分かってるって。で、カレーだけでいいの? 他にサイドメニュー的なのはいらないの?」
「じゃあ……」
上京は綺麗な、真っ白な指先を顎に添える。
「カレーうどん!」
「文句はないけど、ないんだけどさ。一応言わせてもらうけど、お前、どんだけカレーが好きなんだよ」
「いや、好きか嫌いかで言うなら――普通?」
「二択という前提ルールを破壊してくるとはさすがに思わなかったよ。まあ、いいや。じゃあカレーライスと、カレーうどんでいいんだよね?」
こくん、と頷いた上京をテーブルに置き去りにして、傷枷は食券売り場に向かう。
口でおばちゃんに伝えればいいのに、と思うが、このシステムについて、生徒が口を出したところでどうにもならないだろう。だから、言わない。黙って従うだけだ。
ここはそういう場所である。従うことが全て。
上下関係というものが、全面に押し出されている空間なのだから。
傷枷は上京の料理、カレーライスとカレーうどんの食券を買う。
意外にも値段が高いので、傷枷は内心驚いた。いつも自分は買わないから知らなかった。もしかしたら、自分がいつも買う料理が安いだけかもしれない。そう思いながら、傷枷はいつも通りにサラダ定食の食券を買う。
サラダが特別に好きなわけではないが、さっぱりと食べられるので傷枷はよく頼むのだ。
食券を持ってカウンターに向かい、おばちゃんに食券を渡す。
確かに、上京の言う通り、おばちゃんは六十歳ほどに見えるが、しかし、この『見える』も上京に言われたからそう思っているだけなのかもしれない。
変に意識してしまっているのだ。不安定、とも言える。
この状況で、まともな判断ができるわけがない。
おばちゃんが六十歳かどうかなど、冷静になれば別に知らなくてもいいような答えだが、だけど、なぜか意地になってしまっている自分がいて。
その自分を自覚しないままに、傷枷は『また次の日に確かめてみよう』と決意を固めた。
「はいよ」
おばちゃんから発せられた声に気が付いて、傷枷が顔を上げる。
目の前には、メモ帳の一ページを適当に千切ったというのがすぐに分かるほどの、ボロボロの紙切れがあった。
それはおばちゃんの手に収まっている。濡れていて、汚くて。だが、この汚れは清潔だ。
職人の手というのがよく分かる。まったくもって不快にならない汚れた紙切れを、傷枷が受け取った。
紙に書いてあった番号は、四。今から四番目に呼ぶよ、というわけではないのだろう。
紙切れを見つめて不思議がっている傷枷の様子に気づいたらしく、おばちゃんが今、おこなっていた作業をやめる。そして、カウンターから身を乗り出してきた。
いきなりの行動に驚いた傷枷は数歩下がり、おばちゃんを見つめて警戒する。
食堂のおばちゃんでも、斜影峰学園の人間だ。
やはり、おばちゃんも根本的なところでなにかのネジがはずれているのかもしれない。そんな推測をした傷枷だったが、しかし予想とは反対に、おばちゃんはまともだった。
学園では貴重である、まともな人間。
おばちゃんは傷枷の持っている紙切れを指差して。
親切にも、教えてくれたのだ。
紙切れの、その意味を。
「それね、ただ私が分かりやすいためだけに書いているものだから。そこに書いてある、四ね。その四はね、別に意味はないよ。四と書いてあるからと言って、四番目に呼ぶわけじゃない。数字なんて目印さ、目印。今はちょうど空いているし、たぶん一番目に呼べるかもね」
おばちゃんは額についていた汗を服の袖で拭った。
「待ってな、すぐ作ってやるからね、ぼうや」
おばちゃんがニッコリと、傷枷に向かって。
笑顔、だった。なんて綺麗な笑顔なんだ、なんて格好いい笑顔なんだ。
まるで戦場で勝利し、生きて帰ってきた戦士のような――。
おばちゃんの笑顔に、傷枷は少しだけ、くらっとした。ふらっとして、足が地面から離れそうになったところで――なんとか踏みとどまる。
おいおい、と自分を落ち着かせる。
おばちゃんに手を出すほど、範囲が広いわけではない。傷枷のストライクゾーンはお姉さんタイプ。確かにおばちゃんはお姉さんだが――だが、歳が離れ過ぎている。
お姉さんじゃない、おばちゃんなのだ。さすがに無理である。
傷枷は、「……待ってますよ」とおばちゃんに言葉を返してから、
向かった先は当然、上京が待つテーブルだ。なのだが、なぜかそこに上京の姿がなかった。
一人で出歩くような癖は上京にはない。それを知っている傷枷は、今の現状を異変と捉える。
もしかしたら、連れ去られたのではないか。そんな不安が膨らんでいく。
そして、その不安は、完全に間違っているというわけでもなかった。
聞こえたのは声。上京の声だった。
上京が決して出すことのないような叫び声――、しかも怒鳴り声だった。
怒り、憎しみ。その二つ、もしくは同類の感情を含んでいる声だ。
声の方向を探る。右、左、後、前。目を瞑って声を聞く。音のする方向を求める。
探って探って、出した答え。その方向に、傷枷は駆け出した。
食堂は広い。どこからでも死角になる場所が必ずあるほどだ。たとえば、柱で断絶されている場所、たとえば、曲がり角で完全に見えなくなっている場所。
混んでいる時は、人の壁による死角も存在する。幸い、今日の場合は人が少ない。ということはだ。人の壁という死角は、今日に限っては存在していない。
なので、傷枷が向かった場所は、曲がり角だった。
そこには、多くはないが、しかし少なくない人混みがあった。
円のように、人が立っている。円の中心を見つめるように。眺めるように。
見物するように。円の中心には二人の少女がいた。
一人は、上京。杖をついて、目の前の少女を睨んでいる。
そして、上京に睨まれている少女の方へ、傷枷が視線を向けた。
そこで驚く。
そこに立っていたのは、先輩だった。
二学年。戦場を駆けるプロと変わらない実力を持つ少女は、この学園で『最強』と呼ばれている。先生からの認識も――強者だ、という噂を、傷枷も聞いたことがある。
彼女は、長い金色の髪をうざったそうに、頭の後ろで結んでいた。
縛って、いた。
ポニーテールと言うには、少し中途半端な気がするような長さの、髪型である。
彼女は、睨むだけで人を殺せるような、冷たく、鋭い視線を、上京に向けていた。
上京はその視線に、まったく引く気配がない。引くどころか、逆に押し返すように睨みつけている。なにをやってんだよ、あいつは……、そう思いながら、傷枷は溜息を吐いた。
どちらが先に喧嘩を売ったのかは分からない。どちらが悪いのかなんて、分からない。だが、ここは上京が引くべきだ。そう思った傷枷が、円を作るように立っている人の壁を、両手でかき分けて、円の中へ侵入する。
傷枷にいち早く気付いたのは、上京だった。
ぱあっ、と笑顔になり、鋭い視線から柔らかい視線に変わる。
いや――戻った、のか。
「傷君! ちょっと聞いてよ聞いてよっ!」
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