Vitamin,

箱女

第1話

 火曜日の深夜0時。私はビルとアパートの間の細い路地裏を目指す。

 そこは一人で通るためとしか思えない道で、向こうから人が歩いてきたらお互いにイヤな思いをするだろう。断定していないのは私にその体験がないからだ。いつでも私が行くときには私だけしかいなかった。でも考えてみれば当たり前のことだ。誰が真夜中にあんな道を通りたがるだろう。暗くて細いだけなのだ。私以外には。

 路地の中ほどで上を見上げると明かりのついた部屋がある。カーテンも窓も開いていて、落下防止の手すりに寄っかかった女の人がいる。私の目的は、彼女だ。


「やあ少女、今日もいい夜だね。静かな夜だ」


 いつも似たような、とはいっても私がここに来るのは四回目だ、あいさつを気分良さそうにかけてくれる。平均的な女性よりも低めな彼女の声はのびやかで、私にはそれが安心できるものだった。

 見上げるとお姉さんのシルエットだけが浮かび上がる。逆光で顔なんかはすこしも見えない。わかるのは肩とか脇腹にかけてのラインくらいだ。部屋の明かりで肌と着ているものの縁が照らされている。あとは髪がショートなこと。


「この時間に騒がしいこと、あるんですか?」


「知らないだろう。火曜日以外は大変なんだよ? 近所の楽器やってる人が全員ここに集まって練習するんだ。ビッグバンドだのオーケストラだの、そんなちゃちなもんじゃあない。文字通りどんちゃん騒ぎさ」


 お姉さんはよく言葉尻に音にならないような小さい笑いを入れる。くだらないことばっかり言っていて、そのうえでそれが気に入ってるんだと思う。光が当たらないせいで顔は見えないけれど、どんな口のかたちをして笑っているのか想像がつく。きっと左右非対称。どっちかの口の端が引っ張られるみたいに伸びて、くちびるも開いて歯が見える。いたずらっぽい、きっとそんな感じだと思う。笑っている口だけが残るのはチェシャ猫のイメージだ。

 私は何のためのものなのかもわからないビルに背中を預けて、二階に顔を向ける。視界の上のほうには夜空が入らないこともないけれど、そんなものはどうでもいい。大事なのは私とお姉さんだけが許されているこの空間と時間だ。


「いま体育バスケです。よくわかんなくてつまんない」


「あれボール大きいと思わない?」


「大きいです。手すごい痛い……」


 私たちは言葉だけをやり取りしているうちに、それもほんの短いあいだに暗黙のルールを作り上げていた。どうでもいいことだけを話すこと。なぜそんなことになったのかと考えると、不確かなものしか出てこない。とりあえず私はお互いにかなり近い感性を持っているのだと思うことにしている。

 お姉さんは悪い意味で話を聞かせるのが上手かった。嘘を嘘と思わせずに話を進めることができたし、いたずらに話を大きくしては途中でやめたりした。いけないのはそこで単純にもっと聞きたいと思ってしまう私なんだけど。

 でもそれが学校の人にできる? 誰にもできないよ。ただのほら吹きとは違う。



 朝はいつも一方的にやってきて、そのくせ自分の機嫌を気にしない。雲が出ている程度ならまだいいけど、知らん顔をして雨を降らせているのを見ると腹立たしくなってくる。人間はまだ傘や合羽以上の雨具を発明してはいない。

 見上げた空は晴れてはいるけれど、どのみち平日の朝は憂鬱だ。学校というものは思っていた以上にずっと難しい集団生活を強いられる。友達がいないとかいじめがどうとかの話ではなく、女子生徒にはどうやってもある種の政治的関係が生まれるからだ。

 四限目の終わりのチャイムが鳴って、一気に教室が解放感に満ちた声でいっぱいになった。お弁当か学食か購買か。どのみちみんなが食べることに意識を向ける。私はお弁当をカバンから引っ張り出した。


「ビタミンは今日のおかずなにー?」


「名前にかすってないあだ名やめろう。今日はね、お、からあげ」


「いけないね、二個は太るね。私は代わりに受け止める覚悟できてるけど?」


「おかずよこせって言ってるのに人柱ぶるのは面の皮厚すぎない?」


 別に決めていたわけでもないのに同じタイミングで二人で笑う。意識をしていないこういう部分で私たちはウマが合う。ニックネームの理由はいまだに教えてもらっていないけど、この子が名付け親だから許している。呼んでいいのはこの子とあと一人だけ。


「ひーは?」


「今日は食堂だって。あいかわらず人気物件なことで」


 うむ、と私は深くうなずいた。私たちは一度や二度くらいお昼をいっしょに食べなかったからといって関係が崩れることはない。最高記録はまるまる一週間も離れていたこともある。気楽なのだ。そしてその気楽さを私たちはかけがえのないものとして抱きしめている。

 からあげをひとつ献上しつつ食事が進む。窓際の席の私は空を望むとほとんど邪魔するものがない。窓の外は変わりなく晴れているようだった。私は脳の構造がちょっと変わっているのか、それとも首あたりの血管になにかを抱えているのか、遠くのものを見上げようとすると立ち眩みのような現象に襲われる。その意味でも空は強敵なのだ。


「ビタミン、昨日あれ観た? あの、マンガ特集やってたやつ」


「見てないけど、何時ごろの?」


「11時過ぎ」


「あー、その時間はラジオだわ」


「いまどきラジオて。意外とコアなところあるよねー」


 もちろん嘘。たしか私はそのころ出かける準備をしていたはずだ。いまの流行りやためになるものを教えてくれるテレビよりも、お姉さんとの何にもならない話を私は優先したい。くだらなくて野放図で、本人が楽しそうなのを見て私も楽しむような、そんなものが何より大事なのだ。


「何のラジオ? ビタミン聞いてるならちょっと気になるな」


「内緒」


「ええー、ここで意地悪? からあげ食べたから?」


「私は大事なものを私ひとりのために取っておくことがあるのだ、わはは」


 言っている割にはさして表情も変えずに箸と口を動かしている。この子もやっぱりドライなところがある。本当は存在しない私の好きなラジオ番組を知りたいと思ってくれてはいる。けれどこの子は内緒と言われたら、仕方ないか、で済ませてしまえる器の持ち主だ。大人びている。学校でいちばんいい女かもしれない。

 お弁当を食べ終えるともう何もない。いつもみたいに重要度に波のある話をして、そうしてお昼休みの終わりを知らせるチャイムを待つ。最後の五分くらいはわずかに残った時間を惜しむ。そのためにお昼休みはあるようなものだと思う。


 通学手段が私だけ違うから、いつも一人でバスに乗って帰る。夕焼けが窓から射し込むと、知らないはずのノスタルジーという感情に出会える気がする。昼休みまでは気にならなかった雲が夕焼けの邪魔をしているせいで今日はそんな気分にはなれないけれど。まあ、強いオレンジ色に染まった雲は嫌いじゃないからいいことにする。

 三人で帰るときは駅のほうに寄り道をするときだ。そんなにしょっちゅう行ってはいないのは、私たちがひとつの真理を体得してしまっているからだ。短期間に集中して楽しみを味わうとすぐに飽きが来てしまうということ。なぜかは知らないけれど、私たちは個々の人生でそれを勝手に学んでいた。そういう共通項があるから私たちは仲良くやれているのかもしれない。

 私が火曜日にだけあの路地裏に行くのもそういう理由だ。もしかしたら毎日だって飽きないかもしれないと思うこともあるけれど、きっとそれが願望混じりのものだと知ってしまっているからダメ。あの場を失ってしまうことがいまの私にとってどれだけ大きなダメージになるかが自分でもわからないから。

 だから私は一週間を生きることができる。火曜日のために。



 乳化したような日。せっかくの火曜日なのに、という意味だ。

 帰り道ではぎりぎり耐えていた分厚い雲がついに決壊した。ぱた、ぱた、と小さく窓を叩く音が聞こえたと思ったら、ざあっと急に降り出した。雨脚なんて言葉があるけれど、それにならって言うならものすごい駆け足だった。天気が悪い日に特有の、あの時間と外の暗さの不一致感が漂っていた。自分の部屋の明かりが白いぶん、空の暗さが際立って孤独な感じがあった。

 お姉さんと話をするようになってから、これまで火曜日に雨が降ったことはなかった。もちろん雨が降った場合の話なんてしたことがない。そもそも私が勝手に通っているだけの話なのだ。私が行かなかったところで何があるわけでもない。とはいえ、これはお姉さん視点の事情でしかない。

 私の事情で言うなら雨が降ろうが槍が降ろうがあの路地裏に行きたい、というのが偽らざる本音だ。ひとつ特殊な楽しみがあそこにはあって、それは学校では経験できない種類のものだ。言葉にするのはすごく難しい。心の、日常ではしまっているところ。もしかしたら人によっては人生で一度も使わないかもしれないところへの刺激。具体的には説明できないそれを味わうこと。それが楽しみで私はあの狭い道を求めている。


 色の変わらない夕方が過ぎて夜が深まる。まだまだ雨はやみそうになくて、均一に聞こえる音を立てている。夕ご飯もお風呂も済ませると出かけるまでぽっかり時間が空いた。そんな空白をおとなしく宿題をやったり適当に遊んで埋めることにした。いつものことといえばいつものことだ。火曜日以外とも変わらない。

 やがて支度の時間がやってきて、私はクローゼットからラフ寄りの動きやすい服を選んだ。ぶかぶかなパーカーとホットパンツ。あの路地裏に行くのにパチパチに決めていくのは違う。そういう場所じゃない。

 ドアのカギを閉めて傘を開く。生地の部分を雨滴が叩く感覚が手に伝わってきた。


 いつもの火曜日深夜0時と変わりなく、二階のあの部屋には明かりがついていて、その光がいつものように転落防止の手すりにしなだれかかるお姉さんの体のラインを縁取っている。無防備な黒のキャミソールと乳白色の肌がよく見えた。路地の向こうの街の明かりが水たまりに反射して、いつもより視界が騒がしかった。

 どう頑張っても平らになれないいびつなアスファルトのせいで生まれた水たまりを踏んでいく。いっしょに反射する光も踏んでいく。狭い路地だと避けようのないものができてしまうのだ。傘は注文でもつけたみたいに路地の幅にぴったり収まった。

 傘を傾けてお姉さんが見えるように顔をあげた。


「まさかとは思ったけど、今日は雨なのに」


「だってお姉さんと話すの、楽しいですから」


 そんな気がないなら電気を消して寝てしまえばいい。だからお姉さんもある程度の期待を抱えているんだろう。そう思うと自然と口角が上がってしまった。単純だとは思うけど、それでいい状況はたしかにあると私は知っている。

 傘の角度が上を向いてしまったせいで、鼻先と脚に雨粒が落ちるようになった。でも気にするほどじゃない。比べるべくもない楽しみがそこにあるからだ。


「いやまあ私も楽しいけど、もし風邪でもひかせたらそれは寝覚めが悪いというか」


「大丈夫です。これでも皆勤賞とった年もあるんですから」


「んん、それは立派だけど。とりあえず一度は言っておくよ、今日は帰るといい」


 子どもみたいなわがままだと自分でも思う。困らせちゃったかな。でもお姉さんは眉根を寄せてもきっと笑ってると私には信じることができた。


「せっかく来たんですから、お話ししましょうよ」


 私がそう言うとすこし悩むような間を置いてから、まあいいか、とお姉さんは雨を降らせる空を仰いで呟いた。相変わらず顔の造りは見えないけれど、その影の動きで顔の向きは察することができた。ぎい、と手すりが軋んだ音を立てた。

 声はお互いに届くけれど、雨が傘の生地にあたる音がうっとうしかった。


「そうだなあ。これは私がまだとある国で学芸員をしていたころの話なんだけど」


「学芸員、ってなんでしたっけ」


 私たちは実用的な話を求めてはいない。どうでもいい話をして、下らないと言って笑ったり、ただ聞いたりするのだ。そこに生まれるやさしさを私は求めているのかもしれない。


「シンプルに言えば美術館で作品の解説をする人だね」


「なるほど」


「まあそこで国のエージェントに接触することになって――」


 いつもの文字で表すことのできない笑いを挟んで話は進む。ゆっくりと思い出すようにぽつぽつと語るそのやり方は、安心できる声質との相乗効果で説得力をちょっとだけ増していた。そもそもがほとんど説得力ゼロからのスタートなのだからそれでも大したものだと思う。聞きたいと思わせるのは力に類するものだと私は思う。

 やがてその話のダブルスパイが判明したあたりで、ふとお姉さんの話が止まった。これまでの会話のなかでこんなふうに話が止まったことは一度もない。どうしたんだろうと思っていると、上から声が降ってきた。


「そういえば、寒くない?」


「……本音を言えばちょっとだけ」


「だよねえ、ちょっと上がってお茶飲んでいきなよ。あ、二〇三号室ね」


「あ、なんかすいません。雨なのに来たの私なのに」


 いいのいいの、とお姉さんは笑った。路地裏から表に回っておいで、と手で指示があって私はその通りに従った。表から見たお姉さんのアパートは小綺麗で、むしろ裏手にあんなビルとの隙間しかないのが不思議なくらいだった。

 きっと一晩中ついているアパートの明かりをくぐって私は二階に上がった。雨音が外の雑音に変わって、私は二〇三号室のドアをすぐに見つけた。ネームプレートのところには何も書いていなかった。私はできる限りゆっくり深呼吸をして、ピンポンを押した。

 チェーンと鍵を外す音がして、待ちかねたようにドアノブが回った。

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Vitamin, 箱女 @hako_onna

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