ゲシュタルト崩壊するまで書いた「好き」
無為憂
映画には魂が宿っている、らしい。世界の魂の量は一定で、面白い映画が新たに生まれないのは、過去の名作・傑作が輪廻転生出来ていないから、と。だから映画は、人々から映画の「記憶」を消す「葬送」を行う。
それと同じことが死んだ人間の文字にも起こった。
北ドイツはオイティン。その町の真ん中にあるマーケットプレイスから歩いて三十分ほど、町を抜けてからは十五分ほどの森に、そのブナの木はある。樹齢五百年を超えるそのブナの木のへりに、故人が生前書いた手紙を入れる。
以前、その木は花婿のブナと呼ばれており、自分のことを書いた手紙を入れると誰かが読み、気になればその誰かが返信を書く。恋のキューピッドの役割を果たしていた。
しかしその風習は風化し、変容した。五十年前にこのブナはポスト化され、今でも地域の郵便局員が管理している。そして私がその仕事を引き継いだのは二年前のことだった。
五百年の生きている大樹とのことで、そのへりに手を伸ばすには、梯子を使う。ブナの木の周りには木の柵が囲っており、さながら神聖な宮殿のようだと思う。
ブナの硬い肌にはいくつもの表情がある。雨の日も晴れている日も、私は死人の書いた手紙を取り、読んでそこに残された感情を解き放っている。
よく晴れた日だった。手紙を回収する為に、木に登った。ブナの肌にはささくれがあり、「昨日の人間がやったのか」と私は思った。よく見れば、梯子がずれた跡がある。
手紙を大事に郵便鞄にしまい、私は町に戻った。これから郵便局(ドイツェポスト)に戻って仕事をする。
葬送には二つの手順がある。一つは死人の書いた文章が他にないか確認すること。これは手紙を投函する第三者、たとえば遺族によって守られるから局員はあまり気にすることはない。捨てられない手紙だけをブナの木に入れてくれればいい。
二つ目は、文字を文字として認識出来なくなるように塗りつぶすこと。これが葬送にあたる。この世に一つしかない故人の直筆の手紙には確実に魂が宿る。紙切れに集約された思いや感情は、それを読み葬送する私の心を削る。
「局長、戻りました」
上司は疲れ切った顔立ちの中に、鋭い光を持っている人だ。それはドイツ人特有の端正な顔立ちだとか、年相応の功だとかとは違う、別の魅力だと思う。
「お帰り」デスクに座った局長はパソコンを眺めながらちら、と私を見て、「今日はあるのかい?」と訊いた。
「あります」私は鞄から一通の手紙を出して言った。「え?」
それを違和感だと思うかは、人によるだろう。しかし、私が出したその手紙は、あまりにも新しく──故人が誰かに宛てたものとしては──切手も貼られず、何もなかったからだ。
つまり、郵便物として一度も出されていないと言うことだ。
「どうしたんだ?」
「これは、葬送の手紙じゃない、です」
局長は不満げな顔を見せた。私がはっきりとした言い方をしなかったからだろう。面倒ごとになる話は、局長は嫌いだ。
「ちょっと調べます」
部署として設けられている部屋に私は入り、そこの机に荷物を置いて、座った。
はあ、とため息をつく。
封筒を開け、手紙を読む。
端的に言って、それは死んだ人間に対して、並々ならぬ愛情を注いだ恋文だった。
ローデリヒ・エゴン。差出人は六十くらいの男性。丁寧に住所まで書いている。
私は居てもたってもいられず、郵便局を飛び出した。
──あなたがどう思うかはわからないが、これからする私の行動は確かに──職務としては──間違いであったと認めざるを得ないだろう。
終業の時間と私がローデリヒの家のインターホンを押した時間は一緒だった。もし聞かれたらあくまで、一個人として会った、という話で局長には通すつもりだった。
「だれかな」
玄関のドアを開けて、彼は応じてくれた。杖をついている。
「エメリヒと申します。あのブナの木の、郵便局員です」
彼は少し驚いた顔をした。白い顎髭を蓄えた、老人だった。彼は何かを察したのか、私を家に招いてくれた。
「それで話っていうのは?」
木目調のテーブルに彼は紅茶を出してくれる。彼は言って、紅茶を啜った。
「あの手紙は無効です。今、ブナのポストは葬送のためにあります。だから、あなたが出した求婚の手紙は意味を為さない。言い伝えはもう昔の話なんです」
ローデリヒは不服そうに、「知っている」と言った。口ぶりからして知らなかったと私は思いたいが、そう言い切る気は私にはない。私も冷める前に紅茶を一口飲む。
「それで、私が言いたいのは、ローデリヒさん、手紙を返してください」
彼の想い人であるアルマという女性は既に死んでいる。それは確かだ。
彼は嫌そうに、奥の部屋から手紙を持ってきた。嫌がるが、断りはしない。彼も自分の想いと訣別することを望んでいる。そう思えた。
「これだが」
思っていた通り、その手紙は褪せていた。紙が日焼けしている。
「読ませてもらいます」
手紙の内容は、アルマが想い人に宛てた手紙だった。その想い人というのは、ローデリヒではない。アルマの夫だろう。
──気持ち悪い話だった。あなたがどう思うかわからないが、私は彼に気持ち悪いと言ってやりたかった。
「まだ好きなんですか?」読み終わってから、手紙に目を離して私は言った。「ローデリヒさんは結婚してるんですか?」
とても嫌な聞き方だったと思う。あまりにも失礼だ。
「アルマは私の幼馴染で、人生で最も愛した女性だった。だから結婚などしない」
「疑問なのは、なんでローデリヒさんがこの手紙を持っているかです。ブナの木に投函するタイミングなんて、毎日張っていない限り、わかるはずもない。それも不確定なもののために」
毎日仕事として通っている私でも、そんなことはしたくないと思う。
「それは全くの幸運だ。運命だ。たまたまだ。たまたま、ブナの木に“本来の使い方”で手紙を出した時、発見した」
なるほど、と言って私は頷いた。今の言は信じて良いと思えた。
「もう結ばれないと知っていながら、手紙を書いた」
私がぼそりと言ったのを彼は聞き逃さなかった。
「そうだ」
それの何が悪い、と言っているように私は聞こえた。そうですね、と私は心の中で唱えた。私の心も荒みかけていた。
「わかりました。少し同情する余地があった、というだけの話ですが、ここで葬送をしてもいいですか?」
それは私の、ローデリヒに対しての最大の譲歩だった。
「頼む」
私と彼はそこで紅茶を飲み干した。彼は紅茶を片付けてくれ、私はテーブルの上を整理して、葬送の準備を始めた。
いつも仕事で使っている太字の万年筆を取り出して、彼と隣あって座った。
『拝啓、ヨルダン様へ』
手紙はそう始まる。私は万年筆で、その文字を塗りつぶしていった。
『あなたと出会ってから半年後、私は恋に落ちました。そうです、あなたのことが好きになったのです』
──あなたが夫との思い出を語って数行、その文章に行き当たった。
ローデリヒは唇を真横に結んで、必死に耐えていた。
私はその文章も塗りつぶす。やがて、手紙の最後に行き当たる。
『Alles Liebe(愛を込めて). Alma』
「やめてくれ!」
突然、ローデリヒは叫んだ。やめよう。そう彼は言った。最後の最後で、彼は負けた。葬送に耐えられなかった。
「やめられないです。彼女の魂を輪廻へ送るためにも」
「許してくれ……これだけは」
瞳に涙を溜め始めて、彼は懇願した。
──私は一つ、あなたに対して申し訳ないことをしました。それは……。
「わかりました。一つ、提案があります」
私はアルマの手紙の最後を切り、ローデリヒの手紙の宛名の部分にそれを貼った。
「この宛名はあなたが書いたものです。アルマの直筆の文字はもう存在しない。いいですね?」
彼は神に祈るように手を組み、私にお礼を言った。彼は最期まで、その宛名に向けて手紙を書き続けていくだろう。
翌日、局長には、葬送は完了したと伝えた。彼は一言、お疲れと言うだけだった。
ゲシュタルト崩壊するまで書いた「好き」 無為憂 @Pman
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