唄う夜鷹の幸福論

彷徨(さまよ)

第1話


 生涯で一番の幸せって、何だろう。


 毎日お腹いっぱいで、ふかふかのベッドで好きなだけ眠れれば、おれは今のところ何でもいいけれど。


 住処を出る時、出会ってそのまま別れていった、数々の名前も知らないひとたちにたくさん願われてしまったおれは、それから数ヶ月経つ現在も、時々ふと考える。

 ……幸せって、何だ?




 ぐるる、とお腹が唸る。何日も食べていない。そろそろ大きめの獲物を捕らえたいな。やっぱり、おれは目先のことでいっぱいいっぱいだ。あああ。


 力が抜けて、その場に蹲った。

 ちょうど茂みになっているとはいえ、ここは森の中。気を抜けば自分が他の生き物の餌食になるだろう。でも──


「……?」


 ふと、耳が何かを感知してぴくりと動く。


 

──る、──るる、るる──



 声、だろうか。歌っている。口遊むように、囀るように、響き渡る美しい歌声だ。

 聴いていると不思議とまた立ち上がる気力が湧いた。


 引っ張られるようにして、おれは歌の音源を探した。


 茂みから一歩、前足を踏み出す。先程まで踏ん張る力も出なかった足がしっかりと地面を踏みしめた。もう少し、進める。

 一歩、一歩、前足に付随して後ろ足もそろりと動かす。できるだけ身を低くして、滑るように進んだ。


 鼻ですんと空気を取り込むと、湿った木や土のにおいに混じって、生き物のにおいもかすかにする。


 カササ、と草を踏む音と共に遠ざかったのは、野うさぎだろうか。あれはだめだ。すばしっこくて、森の中で捕まえるには骨が折れる上に、おれのお腹を満たせるだけの大きさがない。


 選んでいる場合でないのは、もう暫くずっと俺のお腹が訴えているけれど。どうしてかおれは、ゆっくりと近づく歌声に、その声音に引き寄せられてどうしようもなかったんだ。



 それから少しすると、陽光をも遮って薄暗かった森の中、木々の向こうに僅かに光が差してきた。


 開けたところに周囲のものよりも太くて立派な木。目いっぱい枝を伸ばすから、他の木々は遠巻きになってその場所を譲っているようだった。




『──る、るるる

あおいひ、ともしび、いのちのほのお

のぼって、はじけて、そらにさく

ほしはひとつ

きらきらひかる

かがやきはなつ、されどひとつきり』




 ──片翼の、後ろ姿が見えた。

 鳥にも人にも見えるから、ハーピーかと思ったけれど、記憶にある姿のどれとも似ているようで、似ていない。初めて見る生き物だ。

 大きな木の、地上から4、5メートルくらいの高さから伸びた枝の上に留まって……というか、座って腰を落ち着けて涼やかに歌声を発している。


 こんな状況でなければいつまでも聴いていたいけれど、あいにくおれの空腹はもう限界だ。


 背中の翼は片方だけ。腰にも小ぶりな翼が一対あるけど、飛ぶのは無理そうだ。

 背中の右翼はゆったりと動いている。左側には失った左翼の痕跡。大きな傷は痛々しいのに、剥き出しの背中の引き締まった筋肉がおれの食欲をそそる。

 手負いなら、それほど労力を掛けずに仕留められるだろう。


 暢気に歌っている場合ではないのだよ?



「さん」



 においでばれてしまわないよう、風下へ。そして獲物の死角になる位置から、飛び掛かる場所を選ぶ。地上からでも余裕で届く高さだけれど、少しでも近いところから狙った方が初手の成功率が上がる。



「にい」



 周囲の木の中で1番獲物に近付ける木に、音を立てずに登った。

 ゆっくり、ゆっくりと枝を伝って距離を詰める。



「いち」



 ところでこれはおれの悪い癖なんだけど、襲い掛かる前のカウントダウンはせっかく作った有利な状況を台無しにしてしまう可能性しかないよね!



 ぜろ、と心のなかで発するのと同時に獲物に向かって飛び掛かるけれど、目の前の光景におれはすでに半分がっかりな気持ちだった。


 いち、の段階で獲物は俺の方に顔を向け、飛び掛かる瞬間にはもう逃げ道──更に高い木の上を見上げて枝に足を掛けていた。


 案の定、爪を立てたおれの前足は先程まで獲物が座っていた木の枝を虚しく掴む。



「……ふふ。


『おいでおいで』黒い猫ちゃん」



 かちん。これはまことにかちんである。

 おれの間抜けぶりを笑うその顔は、羽やら毛やらで目も鼻も隠れていたけれど、口元だけは邪悪に弧を描いているのが見えて、空っぽのお腹もムカムカしてきた。


「グルルルルル」


 これはお腹じゃない。ちょっと怒ったおれの唸り声だ。体力の限界なんて忘れて、おれはもう一度上方の獲物に飛び掛かった。



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