分からない
リウクス
分からない
第一志望の、子どもの頃から憧れていた会社に入社して、1ヶ月半の充実した研修を終え、本配属になって1週間。
——私は適応障害になった。
本当に、こんなことになるとは思ってもいなかった。
私はポジティブな人間で、どんなに嫌なことがあっても、それは小説のネタになるし、無意味なことなんてないんだと、ずっとそう考えていたのに、私は壊れた。
これだ、という明確なきっかけはない。
配属先の上司はみんな良い人たちだし、話していると安心感すら覚えた。
配属早々、好きなことにだって関わることができたし、それはとても光栄なことだった。
なのに、私の身体はこれから働くことに拒否反応を覚えていた。
強いて言えば、忙しなく働く上司の姿と、CCで送られてくるメール内容の膨大な情報量に面食らったというのはある。
果たして、自分はこれから上司みたいに業務をこなせるのか、上司の仕事を引き継いであの情報量を捌けるのか、不安だった。
今思えば、業務外においても不安なことは多かったかもしれない。
同期は私以外みんな外国人で、大抵私を置いて中国語で喋っていた。
日本人だったら良かったのかと言えば、そうでもない。研修時は他部署の人も含めてほとんどが日本人だったけど、友達は一人もできなかった。
私は根本的に、心の開き方が分からないのだ。
人間関係だけじゃない。仕事にも違和感を覚えていた。
好きなことには関われるけど、好きなことをやっているわけではなかったからだ。
好きなことを仕事にしたつもりだったのに、そうではなかったのだ。
どれだけ好きなことに関わろうとも、それがやりたいことでなければ何の意味もないのだと知った。
もちろん、理想の仕事をしている人なんてほとんどいないことは分かっている。本当にやりたいことを仕事にしたいなんてことは甘えだって思われるのも分かっている。
だけど、私は嫌なことを熱心に続けられるほど器用じゃないから、理想に甘える他ないのだ。
症状が酷くなるのは、唐突なことだった。
配属2週目の水曜の朝、辛さを感じながらも、私は出社する準備を全て整えていた。
朝ごはんは喉を通らなかったけど、それでも出社するつもりではいた。
しかし、時間になって玄関まで歩こうとしたとき、私の足は頽れた。膝から落ちて、床に倒れた。突然前に進めなくなった。
前日にも「辞めたいなあ」とは感じていたけど、その日の夜には気分が回復していたから、翌日は大丈夫だろうと思っていた。そんなはずなかったのに。
私は嘔吐した。
わけもわからず唸っていた。
数日前までは元気だった芸能人が、突然自殺する理由が分かったような気がした。
流石にこれはマズイと思い、上司に休みの連絡を入れることにした。
いや、休みの連絡という体で、辞めるための布石を打っていた、という方が正しいかもしれない。私は倒れたその瞬間から、もう辞めるという意思を固めていたのかもしれない。
だから、連絡事項を打ち終わって、エンターキーを押す瞬間は怖かった。これを押したらもう引き返せない。これを押したらどこかで大爆発が起こるのではないかと。
私は無意味に部屋の掃除を始めて、30分後にメッセージを送信した。
返信は怖くて、その日の午後まで見られなかった。
その日のうちに精神科を予約して、時間が来るまでの間に、自分が唯一信頼できる友人に電話をすることにした。
今まで人を頼ったことなんてなかったのに。人に話したって何が変わるわけではないと思っていたのに。
友人はすぐ電話に出てくれた。
自分のことを口に出して話すと、なぜだか涙が滲み出て、私は泣いていることを悟られないように細々と喋った。
頼ってくれていいんだと言ってくれる友人が、何よりも愛おしく感じられた。
それと同時に、こんなにも自分は弱い存在なんだと自覚してしまったことが酷く悲しかった。
彼がいなかったら、私は一体どうなっていただろう。
精神科の予約時間が迫り、外に出ると日光を浴びた。気分は良くならなかったけど。
いつの間にかずっと眉間に皺が寄っていたことに気がついた。
目も喉も唇も乾いていて、微熱みたいな感覚がしていた。痛くないけど不快な関節痛が全身を蝕んでいた。
3月末に上京して一人暮らしを始め、精神科はおろか病院にも行っていなかったから、私はグーグルマップを片手に目的地を探し歩いた。
しかし、そこはラブホテルやいかがわしいお店が並んだビルの中で、エレベーターからは筋骨隆々とした外国人が4、5人出てきて、もしかしたらヤバい精神科を予約してしまったのではないかと思った。
結局それは杞憂に終わったけど、受付を済まし、待ち時間にうつ病患者の体験談を記した小冊子などが置かれているのを見ると、「ああ、私はこういう世界に入ってしまったんだ」と落胆した。
待合の椅子に座っている老人に時折医者が耳打ちで話しかけ、症状の確認をしているのを盗み聞きすると、同類になってしまった自分が惨めに感じられた。
ただ、そうやってネガティブな思考に陥っていくにつれて、ある種の安心感みたいなものがあった。なぜなら、これだけ傷ついていれば仕事を辞める口実にもなるだろうと思えたからだ。
でも、そうやって口実を探そうとするくらいなら、本当は仕事を辞めるほどでもないのではないかと自問自答して、それがまた苦しいとも感じていた。
名前を呼ばれ、診察室に入ると、比較的若い女医の方と一対一の対面形式で話すことになった。文字にしてみると、やはりいかがわしいお店なのではないかと思われるかもしれないが、そうではない。
診察の内容は特段珍しいものではなかった。問診からの診断結果を伝えられ、症状や経緯を話し、それに対して医師が優しい相槌を打ち、肯定して、雑談をして終了。
とても義務的だ。
なのに、診察中、私は何度も涙が溢れてしまい、言葉に詰まり、励まされた。
特別なことなんて何もないのに、友人に電話したときのように、ただ話すだけで感情が揺れるのだ。
私は上司に休みの連絡を入れてから、なぜだか気持ちが不快なまま平坦な状態になっていたから、そうやって情動を感じられることは、少し嬉しかった。
「そうかそうか」「他にもそういう人はいるから大丈夫」としか言わず、ひたすら私の会話内容をタイピングするロボットみたいな相手に、私は心を開き始めていた。心の開き方なんて分からなかったはずなのに。
もしかしたら、体裁など考慮せず、自分の弱さを認めて、それを話せる状態が、心を開くということだったのかもしれない。
診察を終えると、私は涙でくしゃくしゃになったティッシュをまとめて捨てて、部屋を出た。
それから処方してもらった薬を薬局で受け取り、家に帰ると、寂しさに襲われてやる気が出なくなった。
今までは独りでいることが好きで、平気だったのに、そうではなくなってしまっていた。私は凡人になってしまっていた。
上司にはビデオ通話で、1ヶ月の休養が必要であることを伝えた。不服そうな顔をしていたのが印象に残っている。「医師の方はそう言うよね」と言っていたけど、その真意は分からない。私が勝手に卑屈な受け取り方をしていただけかもしれない。
通話を終えると、私は職場の状況を想像した。なぜだか「そんなにプレッシャーかけてないと思うけどなあ」と顎を撫でながら言う上司の様子が思い浮かんだ。そんなこと言っていないのに。
どうしたって私に非があるようにしか想像できなかった。実際そうだけど。
多分彼らは、自分たちが感じている緊張と、私の緊張を区別できないのだろう。彼らの緊張は、どこか体が研ぎ澄まされるような緊張だけど、私のは思考回路に泥を詰められて濁るような緊張なのだ。
夜になると、また不安になった。
薬を飲むと落ち着いて、薬って本当に効果があるものなのだと、少し意外に思ったことを覚えている。
それからしばらくすると、テレビをつけていないと落ち着かないことを学んだ。
自分以外の音、取り留めもない雑音が周囲にないと、窮屈に感じられるのだ。
翌日起きると、いつもより4時間も起床時間が遅れていた。医師には寝るのが一番効果的だと言われていたけど、起床後は無気力で、立ちくらみがし、蜂蜜をかけた食パンが甘くなかった。
これから自分はどうなってしまうんだろうと、漠然とした恐怖に包まれて視界が暗くなったような気がした。
机の上の埃を拭いてくしゃくしゃになったティッシュを見ると、昨日の精神科で流した涙を思い出す。
これから1ヶ月、一体何が起きるのか。
配属部署を変えられるのか。
配属先はそのままで、業務内容を見直されるのか。
転職するのか。
それとも完全に退職することになるのか。
私は正直、退職して、就職前に持っていた夢を追ってみたいと思っていた。
夢のことを考えるときだけは、前向きになれるような気がするから。
だけど、退職すると、今度はお金の問題に苛まれることになる。今住んでいる部屋から退去して実家に帰らないといけないかもしれないし、そうなると今までかけた費用が全部無駄になってしまい、親には迷惑をかける。諸々の契約云々も面倒だ。
夢を叶えるにしても、専門の学校に通ったり、お金はかかる。
どんな選択を取っても苦しみを伴うのは明白で、私はまた考えがまとまらなくなる。
どうしたらいいのかなんて、今でも分からない。
この話にどんなオチをつけたらいいのかだって分からない。
ただ、希望に満ち溢れてポジティブだった人間でも、たった数日で、それも仰々しい出来事もなく、壊れてしまうんだということは伝えたかったかもしれない。
前向きな感情の出し方だって忘れてしまい、前向きになることも許されていないような、そんな気がするのだ。
分からない リウクス @PoteRiukusu
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