1 出会いの季節♡
俺、
ジャケットに腕を通しながら、食パンを生のまま口に突っ込む。
開いたままのカーテンからは、新しい季節にふさわしい柔らかな朝日が降り注いでいる。しかし今の俺には、そんな繊細な季節の移ろいを美しいと感じる余裕など1ミリもなかった。
俺は枕元の目覚まし時計をキッと睨んだ。
あの目覚まし時計のせいだ。もう何年使っているかわからないが、よりにもよって今日壊れやがった。昨日までは何の異常もなかったはずなのに。それなのに突然……。
俺は謎の寒気に、一瞬ブルっと身を震わせた。
霊感だの第六感だのそういうスピリチュアルめいた感覚は、俺は持ち合わせていない。しかしなんだか今日だけは、どーしても嫌な予感がしてならないのだ。
……なーんて。世の中の心配事の9割は杞憂だとかいうし、多分気のせいなんだろうけどな。
とか言ってる場合ではない。俺は今遅刻寸前なんだ。
「くそ、あちぃ……」
俺はぼやきながら、手にした食パンで脂汗を拭った。
なんか今日のハンカチはパサパサしてるな――などと一瞬考えるも、腕時計が示す時間を見てすぐにそんな思考は消え失せる。そのままひったくるようにバッグを持ち、勢いよく部屋を出た。
「閉、め、た……っと」
どんなに急いでいても鍵の指差し確認だけは怠らない。俺はさあいざ走らんと構え、廊下を塞ぐ巨大な荷物に阻まれて勢いを削がれた。
大きくあしらわれた、某引っ越し業者のマーク。かなり大きな荷物だ……クローゼットか何かだろうか。
隣は、というかこのアパートの他の部屋は、俺が住んでからほぼずっと空き部屋だったのだが、ついに誰か越してきたのだろうか……いや、それにしてもタイミングが悪い!
「あの、通してもらっても……」
「あ、すみません!」
声をかけると、狭い隙間から眩しいくらい爽やかな青年が顔を出した。彼が少し荷物をずらすと、人一人が横になってギリギリ通れるほどの隙間が空いた。
「うう……」
えっちらおっちらとカニ歩きをしながら、じわじわと確実に時間が経つのを感じる。
いい歳になってやるカニ歩きは思ったより恥ずかしい。どでかく描かれたクマのキャラクターも、俺のこんな情けない姿を嘲笑っているようにしか思えない。ああ、笑いたきゃ笑えよ。
「う……ふっ!」
やっと狭い通路を通り抜けたとき、荷物を挟んだ向こう側から、さっきの爽やか青年がレモンのようにフレッシュな笑顔で話しかけてきた。
「あ、あの! 隣の人どこにいるかわかりますか? 結構時間過ぎてるのに、まだ来てないみたいで……」
「すみません知りません! 急ぐのでこれで!」
レモンの眩しさを振り切り、俺は華麗なクラウチングスタートをきった。
許してくれレモン君、命がかかっているんだ。
「はあ~……」
ため息をつきながら全力疾走する。
今日は新年度初日。
朝一で始業式がある。
始めは会社なのに始業式があるのかと思ったが、節目を大事にしよう、という社長の方針で毎年行われているらしい。
ここで何が問題なのかというと、元々厳しい社長が、この日は特に厳しいことである。
もちろん、遅刻欠席なんてもってのほかだ。俺は今まで無遅刻無欠席を貫いてきた。しかしこれを犯した人間たちの末路といったら……いかん、想像するだけで震えてきやがった。
俺は震える足をパシンと叩いた。気合を入れなおして前を向くと、
「あっ!」
――あれは、駅前の公園だ!
咄嗟に時計を確認する。
目指す電車の発車時刻まで……あと2分か。あと2分、駅はもうすぐそこ……いける!
俺はさらにスピードを上げてコンクリートを蹴った。
安堵からかふっと少し頬が緩むのがわかる。いやいや、まだ安心はできない。足は緩めるな、そう腕を振って……あ、そういえば食パン持ったままだった。くわえとこう。
パンをくわえ、なおも俺はひたすら足を動かす。よし、どんどん公園に近づいてきたぞ。いける、このままなら間に合う、あの桜が生い茂る公園の角を曲がれば、駅はもうすぐそこだ……!
――どんっ♡
刹那。
世界は急激に速度を落とした。
雲一つない青空を、まるでキャンバスに見立てるかのように、桜の花びらが刻一刻と姿を変えながら美しい模様を描いている。
その真ん中をひらりひらりと舞う一枚の食パンはもはや神々しく、まるで絵画のようだった。俺は大空を仰ぐようにして真後ろに倒れこみながら、
ただ一言、
「綺麗だ……」
と呟いた。
次の瞬間、ドッ、という鈍い音とともに世界のスピードが元に戻る。
「痛ってえ……」
と背中をさすりながら上体を起こした俺は、またもや衝撃を受けた。
正面に同じように倒れこむ一人の少女。
一瞬痛みを忘れるほどの美少女だった。
上部がホワイトグレー、下部がブルーのグラデーションカラーという、派手なヘアスタイルにも負けない整った顔立ち。黒いマスクで口元を覆っているが、その内側の美しさは想像に難くない。大きな猫目を歪ませて、痛そうに後頭部をさすっている。
そして、さらに視線をずらした俺は衝撃を受けた。
パ、パンティが見えてる!!!!
ダボっとしたパーカーにミニスカート。
その短い丈のスカートから、白いレースのパンティが覗いている。
もう俺は少女に釘付けだった。目が逸らせないでいると、彼女はさらに眉間にしわを寄せ、何かを確認するようにマスクに手をかけた。
うおおおおおお!!!!
少女がマスクをずらし、その素顔がゆっくりと露になる。
おおおおっ! イメージ通りの透き通るような肌、美しい鼻!
……から伝う赤い鼻血。その一筋に、俺は冷静さを取り戻した。
俺は咄嗟に、入れっぱなしになっていた胸ポケットのハンカチの存在を思い出して彼女に差し出した。
「あの、これ、使ってください!」
少女は顔を上げる。すると一瞬、大きな瞳をさらに大きく見開き、何か言いたげにぱくぱくと口を動かした。
「あの、何か――」
ヴーッ、ヴーッ。
予定の電車の発車時刻を知らせる、スマートフォンのアラーム。
「アアーッ!!」
少女の表情を不思議に思って問いかけようとた俺は、ポケットからのその振動に一瞬で血の気を失い、叫び声を上げた。
その声に驚いた様子で、ビクッと身体を揺らす少女。
「すみません、行かなきゃなんでこれで!」
俺は驚いて固まっている少女に無理矢理ハンカチを渡し、煙が出るほどの勢いで本日二度目のクラウチングスタートをきった。
「き、気のせいか……」
少女がそう小さく呟いたような気がしたが、俺はもう振り返ることはしなかった。
♡
遅刻だ。
120%遅刻だ。
俺は覚悟を決めた。
これからの勝負は遅刻するかしないかではない。可能な限り急ぐ姿勢、誠意ある謝罪……どれだけ傷を浅く済ませられるか、だ。
そうして俺は駅までの道を全力で駆け抜けながら、さっき拾っておいた食パンをまたくわえなおして、ふと思った。
そういえば、桜、満開だったな。
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