寄り道は藍に満ち

リウクス

 カラスが寝床に帰る頃。

 町が藍色に移り変わる時間。

 最終下校時刻を告げる音。


 名残惜しくも読んでいた本を畳んだ私は、図書室を出て、躊躇いながらも昇降口までやってきた。


 ギシギシと軋む簀の上で、上履きを靴に履き替えながら、私は思った。


 今日は寄り道しちゃおうかな。


 お母さんは、今日帰りが遅くなるらしい。

 私は一人っ子で、お父さんがいないから、お母さんがいない家は、寂しくて、落ち着かない。

 だから、お母さんの仕事が長引く日は、帰路に着く足と、ランドセルが重くなる。


 やっぱり、「ただいま」って言ったら「おかえり」って返事が返ってきて欲しいんだ。


 内気な私は、学校に仲の良い子があんまりいない。

 一緒におしゃべりできる子はいるけれど、ふとした時に連絡をくれたり、週末私を遊びに誘ってくれるような子はいない。

 下校のチャイムが鳴ると、私は独りきりになる。


 暗い宇宙に放されたような浮遊感に、不安を覚える。

 家に帰って誰もいないと、なおさら。


 だから、今日はもうお母さんが帰ってくるまで家に帰らないで、遠回りしちゃおうかなって思ってる。


 もちろん、そんなことしたって私が独りであることは変わらない。

 だけど、外には音があるから。知らない誰かが、近くにいるから。少しは気を紛らわせることができる。


 私は昇降口を出ると、運動場の方を見遣った。

 練習を終えたサッカー少年団が先生に促されて、帰宅の準備を進めている。

 わらわらと、バッグに入れたボールを宙で蹴りながら、校門に向かって歩いてきている。


 人がいないと寂しいとは言ったけれど、こういう集団と鉢合わせるのはなんだか苦手だ。

 だから私は、正門ではなく裏門の方に向かうことにした。


 結局、自分から一人になろうとしている。

 もはやそういう運命なのかもしれないな、と思いながら体育館裏に回り、微妙に伸びた雑草の中を歩いていると、少し先で真っ黒な何かが動いているのが見えた。


 私の膝くらいにも満たない漆黒の影が、がさがさと。


 恐る恐る近づいてみると、それは猫だった。


 目が合って、ニャーンと小さく鳴いた。


「……かわいい」


 黒猫って初めて見たけれど、思ったよりも怖くない。むしろ、毛が真っ黒いから、明るいまんまるな目が際立って、すこぶる可愛らしい。


 私は黒猫に向かってそーっと手を差し出した。

 すると、その子は警戒とかそんな素振りは全く見せず、私の手のひらに頭を擦り付けた。


「う、うわ〜」


 愛らしすぎて、思わず声が出た。

 こんなにも人懐っこい猫がいるものなのか。


 私はひたすら黒猫の顎を撫で続けた。


 そうして私が癒されていると——


「あれ、諸星じゃん」


 背後から突然声をかけられた。

 目の前の猫に破顔したまま、振り向くと、そこに立っていたのは、同じクラスの北山くんだった。


 ……私の片思い相手だ。


「え、あ、北山くん?」


「うん」


 どうしよう。すっかり油断していた。変な顔をしていなかっただろうか。


「ど、どうして」


「え? いや、普通にサッカー帰り。諸星は?」


「あ、えっと……寄り道、みたいな」


「ふーん?」


 落ち着け、私。

 いや、ダメだ。


 偶然北山くんに会えた喜びと驚きと緊張で頭がおかしくなっている。

 しかも、こんな人気のない体育館裏に、二人っきり。


「おっ、クロもいるじゃん」


「へ?」


 北山くんは、私がついさっき出会った黒猫をクロと呼ぶと、それをいかにも慣れた手つきで撫で回した。


「よしよし、良い子だなー」


「き、北山くん、知り合い?」


「おう。ちょっと前からな。サッカーの帰りに偶然見かけて、いつに間にか懐いたんだ」


 どうりで人慣れしている猫だと思った。

 北山くんの友達だったらしい。


「あ、わ、私、邪魔かな」


「ん? 別に、邪魔じゃないよ。諸星もコイツと友達になったんだろ」


「え、あ、うん」


「ほら、諸星にも撫でてもらいたいって顔してるぞ」


 しゃがんでいる北山くんが、私を見上げてそう言った。

 目が合って、ドキリとした。


「ほらほら」


「う、うん……」


 私は北山くんの隣にしゃがんで、再びクロに手を伸ばした。

 背中を撫でると、クロは膝を折って、その場に寝転がった。


「ははっ、気持ちよさそうだな」


 北山くんが私に笑顔を向ける。

 私は「へへっ」とぎこちなく笑ったけれど、ドキドキしすぎて目を合わせられなかった。

 どうしよう、気持ち悪がられてないかな。

 ジワリと背中の濡れる感じがした。


 ちょっぴり汗のにおいがする。

 ……私のじゃないといいな。


「ていうか、諸星も笑うんだな」


「え?」


「あ、ごめん。悪気があって言ったわけじゃなくて。なんていうか……笑うと、なんか良いなって思ったから」


 ……んな。


 唐突に笑顔を褒められて、私は狼狽した。

 それから、幸せの粒子が体内を巡って流れているような気がした。

 身体がポカポカして、顔が熱い。


「き、気持ち悪くない?」


「は? 気持ち悪いわけないよ。諸星、もっと笑った方がいいって、絶対」


 北山くんがニッと歯を見せて笑った。


「そ、そう?」


「おう」


「へへ」


「はは」


 それから私たちがクロを撫で続けていると、そのうち撫でられるのに飽き始めてどこかに行ってしまった。


 この時間ももう終わりかあ。

 もうちょっと一緒にいたかったなあ。


 クロを見送ると、私たちは立ち上がって、ズボンとスカートについた汚れを払った。


 ……帰りたくないな。


 そう思っていると、北山くんが何かを察したのか、私を見て言った。


「諸星って放課後いつも残ってる?」


「え、あ、ううん」


 改めてクロを介さない会話をすると、緊張して頭が回らなくなった。


「今日はどうして?」


「え、あ、えっと、お母さんの帰りが遅くて、その、帰りたくないなって……」


「……そっか」


 しまった。色々説明不足だったかもしれない。何を言っているんだろうって思われたかも。


 私が恥ずかしくなってうつむくと、北山くんが口を開いた。


「……じゃあ諸星が帰りたくない日は、またクロと一緒に遊ぼうよ」


「へ」


「俺は火曜と木曜は大体この時間まで残ってるからさ、体育館裏で待ち合わせてさ」


「……えっ、えっ」


 ……また、北山くんと、一緒にいられるの?


 願ってもない提案に、私は一気に視界が開けたような心地がした。

 ただただ、嬉しい。


「き、北山くんがよければ」


「おう」


 どうしよう。何だろう。この気持ち。

 好きな人が一緒にいてくれるのって、こんなに幸せなんだ。


「じゃあ、俺は母さんが迎えにきてるから」


「あ、うん。ま、またね」


「おう。またな!」


 北山くんは笑顔で手を振って、肩にかけたボールバッグを揺らしながら、走り去っていった。

 私も小さく手を振っていたけれど、上手く笑えていたかな。笑えていたらいいな。


 そう考えて、自分の表情筋に意識を集中させると、なんだか顔が引き攣っている気がした。

 筋肉痛ってやつなのかな。普段あんまり笑わないから。


 ……そんなにニヤニヤしていたのだろうか。また恥ずかしくなってきた。


 私が赤くなった顔を押さえていると、頭上で灯りが点いて足元が明るくなった。


 もうこんな時間か。

 帰らないと。


 ……けれど、幸せの余韻が中々抜けなくて、私の足は動かなかった。


 ……もうちょっと、もうちょっとだけ、寄り道していこうかな。

 お母さんはまだまだ帰ってこないし……


 私は寄り道をしたらまた何か良いことが起こるかも知れない気がして、いつもとは違う道を歩くことにした。


◇◇◇


 見慣れない道に、見慣れない色。

 日が沈んで藍色になった町は、橙色の街灯に照らされて、夜の顔を覗かせていた。


 お肉屋さんのコロッケの匂いにお腹が空いた。お財布があったらよかったのになあ。今度お母さんに言って買ってもらおう。


 空を見上げると、一番星が真っ直ぐに輝いていて、私を見守ってくれている気がした。


「ただいま」


 口をついてそんな言葉が出てきた。

 「おかえり」は聞こえてこない。だけど、不思議と笑顔が溢れた。


 猫の毛を撫でている時のような、好きな人と目が合った時のような、そんな浮遊感。

 だけどそれは、独りになった時の不安とは違って、宙に放されたのではなく、宙を舞っているような気分。


 街角のコインランドリーからはあったかい匂いがして、安心した。


 家に帰ったら掃除でもして待ってようかなって、そう思えた。


 最初はただ独りが寂しくて、家に帰りたくなかっただけだったのに、寄り道はそんなことすっかり忘れさせてくれた。


 藍色は、この町を、この世界を好きだと思わせてくれた。


 家に帰ったら、静けさにまた寂しくなってしまうかもしれない。だけど、あの一番星にもう「おかえり」を言ってもらえた気がしたから、多分大丈夫。


 今度は私が、お母さんに「おかえり」って言うために、「ただいま」を待つんだ。


 そう考えると、家に向かう足取りは軽くなって、思わずスキップしてしまった。


 目を覚ます星々の光と、連なる街灯の中を駆けていく私は、もう寂しくなんてなかった。


「あ」


 でも、北山くんには会いたいな。


「ふふ」


 寂しくなくても、寄り道しちゃおうかな。


「いぇい」


 私がぴょんと跳ねると、ランドセルが返事をした。



 カラスが寝床に帰った頃。

 町が藍色に移り変わった頃。

 嬉々として扉を開く音。


 私は、靴を脱いで、手洗いうがいを済ませると、部屋の掃除を始めるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

寄り道は藍に満ち リウクス @PoteRiukusu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ