Extra round⑨ 薬師寺さんまであと一歩

5月の最後の日曜日。あと少しで6月を迎え梅雨時がやってくるが、外はカラっと晴れていた。まさに『挨拶日和』だろう。そんなものがあるのかは知らないが。


プロポーズから2週間。ついに遥のご両親に結婚の許可を得る日がやってきた。俺はスーツ類を置いてある実家に行ってから彼女の実家に向かう予定だったのだが、あまりの緊張から、約束の時間である11時の1時間前、10時に彼女の実家前に着いてしまう。


以前高校時代に、会長相手とはいえ結婚の挨拶をやったことがある。顔面凶器相手に声を振り絞ってからもう5年半。あの経験から本番はそこまで緊張しないと思っていたが、いざ本番を迎え、スーツに身を包むと緊張感がグっと増す。


さすがにいくら彼女の家に行き慣れているとはいえ、結婚の挨拶に1時間も前に行くわけにはいかない。仕方ないから俺は、彼女の実家の目の前にある歌舞ジムで時間を潰すことにした。


ジムの扉を開けると、扉は少しぎこちない音を放つ。この建物もだいぶガタが来始めたね。そろそろリフォームなんか考えてくれるといいんだけどなあ。会員も増えたし、経営も安定してるだろうに。


今日の練習開始は昼12時から。ジムに門下生の姿はなく、代わりに会長がパイプ椅子を並べて足を伸ばして座り、新聞を読みながらタバコを吸っていた。あーあ、こんな時間にもういるよ。


「……おい俊、てめぇ今俺がここにいることに対して不満を持ったな?」


会長がこちらに背を向けたまま座り、低く、ドスの利いた声を放つ。だから俺の心の中を読まないでください。


「……会長、おはようございます」

「なーにがおはようございますだバカ野郎。てめぇ今日白鳥さんのところに挨拶だろ。約束の時間のまだ1時間も前に、ここで何油売ってやがる」

「あれ?俺今日が挨拶で時間の話もしましたっけ?」

「バカ野郎が、さっき唯ちゃんが家に遊びに来て嬉しそうに話してくれたんだよ」


ああ、末っ子から聞いたのか。日曜の朝からこんな猛獣の檻に遊びに来るんだから唯ちゃん凄いな。猛獣使いだよ、もう。


「すいません、つい緊張しちゃって、時間より早く来てしまって……」

「ほー、見上げた心がけだな。早く来て時間を有効活用しようってか。よし、その心意気を買う。お前の練習を今からマンツーマンで見てやるよ」


そう言って会長は立ち上がり俺に近づくと、ひとりでにシャドーボクシングを始める。重たい左のストレートが風を切る音がジムの中に響く。


いやだから俺は今スーツ姿なんだよ。挨拶の前にジムでスーツ姿で汗流してる男なんて見たことねぇよ。


「白鳥さんたちに同情するぜ……緊張して1時間も早くやってきちまう野郎に娘さんをもらわれていくんだからよ。俺が白鳥ちゃんの父親だったら絶対てめぇになんか渡さないね」

「あれ?俺、6年ちょっと前に高校の文化祭で会長に結婚の挨拶して、確か満点を頂いたような……」

「チッ!バカみてぇに前の話しやがって。あの時の俺はどうかしてたな。……まあ、プロになって、てめぇの腕だけでこの世界をのし上がって、ボクシングだけで白鳥ちゃんを食わせてるんだから、その点だけは……褒めてやってもいい」

「か、会長……!」

「バカ野郎!調子に乗るんじゃねぇぞ。この世界、一寸先は何があるか分からねぇんだ!てめぇ、幸せだからってヘラヘラしてんじゃねぇ。これはゴールじゃねぇんだ。てめぇは今、スタート地点に立ったばかりなんだからな」


顔面は凶器だし、声も雰囲気も全て怖いが、この人はたぶん人生の先輩として、俺に大事なことを教えてくれようとしているのが分かる。


なんだかんだ俺の親代わりみたいな人だ。内心俺のことを応援もしてくれている。そうであってほしい。


「あ、俊くん!わーいスーツだ!かっこいいー!」


ジムの奥の扉を開けて、中から唯ちゃんが飛び出してきた。右手におやつ、左手にジュース。日曜日を朝から満喫しているらしい。自宅の向かいの家で日曜朝からこれだけくつろげる子も珍しい。


「俊くんこれからパパに『ご挨拶』をするんでしょ?をもらったら、俊くんが唯の『お兄ちゃん』になるんだって、かえちゃんに教えてもらった!……ニヒヒ、もう呼んじゃお、お兄ちゃん!」


遥と恐ろしく似ている少女に面と向かって『お兄ちゃん』と呼ばれるのは不思議な気分だ。


三女の楓ちゃんからもお兄ちゃんと呼ばれているが、楓ちゃんは父似で遥とはそこまで似ていない。まるで遥に『お兄ちゃん』と呼ばれている気がして、なんだかこれは悪くない。


「見てらんねぇな、鼻の下伸ばしやがって。もう結婚の許しを得た顔をしてやがる。おい俊、やっぱりてめぇリングの上に上がれ。俺が気合入れ直してやる」


だからこれから結婚の挨拶する人間をリングに入れないでくれません?鼻血流しながら挨拶行ったら、さすがに俺も誠さんからお許し貰えませんよ?


「いいなあはるちゃん。花嫁さん姿、かわいいんだろうなあ。唯も早く結婚したくなっちゃったなあ」

「ダメだ、唯ちゃんの結婚は俺が認めん。彼氏を連れてきても俺が殺す」


顔面凶器が顔を真っ赤にして怒り出した。いや、あなたの娘でもないし、その彼氏殺しちゃダメでしょうよ。


「百歩譲って白鳥ちゃんの結婚は認めても、都ちゃんと楓ちゃん、唯ちゃんの結婚は絶対認めん」

「え、でも会長、楓ちゃんもしかしたら裕二と付き合ってますよ?裕二が挨拶に来たら……」

「あん?裕二の野郎が楓ちゃんと付き合ってる?それはいいことを聞いたな。変な虫が付いてるみたいだな。今日の午後にでも駆除しておかなきゃいけねぇな」


挨拶すら認めてもらえず早々と駆除されることが決まった裕二に、俺は内心同情した。こんないい陽気の昼下がりに墓の中に放り込まれるなんてかわいそうに。


「もう、パパったら朝からうるさいわねぇ……」


ふと奥の扉の声がするほうに目をやると、ピンクのパジャマ姿のカブがあくびをしながら立っていた。


「カブ、お前こんな時間に起きたのか?もう10時半だぞ」

「あら俊おはよ。フフ、ちょっと昨夜シベリア準特急の再放送を見ちゃってね。エピソード72、終盤の中でも特に傑作回だったから眠れなくなっちゃったのよ」


エピソード72なんて俺は見たこともないが、どうせ主人公のセルゲイがなんかまたやらかしたのは分かる。


「あーもう、バカ息子は昼近くまで寝てる、俊の野郎はチキンで挨拶の1時間前にはやってくる……ウチの世界王者はどうしてこんなバカ野郎しかいねぇんだ……」


会長はそう言うと深く溜め息をつきながら、再度タバコに火をつけて、ジムの天井に向かって煙を吐き出していく。


「……いよいよ挨拶ねぇ。6年半前、パパに文化祭で挨拶して以来かしら?着実にアナタたちが結婚に向かっていると思うと微笑ましいわ」

「懐かしいな。一度やった分緊張しないかと思ったけどさ、実際本番になると緊張するよ。世界戦の前くらい足が震えてる」

「フフ、白鳥ちゃんもそうみたいよ。昨日ウチのリビングで仕事してたけど、帰り際ずっと足が震えていたわ。薬師寺遥になるまであと一歩ですからねぇ」

「……いつまで経っても慣れないなあ、その名前」


名字が変わることで、これから遥は『薬師寺さん』と呼ばれることになる。これまで付き合いも長いから、たぶん慣れるまで時間が掛かるだろう。


「いいわねぇ、『薬師寺さん』。アタシもこの際だから薬師寺になろうかしら」

「カブ……お前まさか姉貴と……」

「バッカじゃないの?ミエちゃんを恋愛対象として見たことなんて一度もないわよ。アタシは最近バーナード・リッチーに夢中なんだから、もう!」

「バカはお前だよバカ息子!まだ眠たいみてぇだな!目を覚まさせてやるからリングに上がれ!」


ジムの中に会長の怒声が響き、唯ちゃんがケラケラ笑っていた。

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