Extra round③ 世界一への挑戦

リングで相対したマヌエル・ゴンザレスは決して筋骨隆々というわけではないが、シャープな体の要所要所にいい筋肉がついている。映像で何度も研究したが、映像で見るより少し大きいかもしれない。


リーチも思ったより長い。俺と大差ないが、メキシカンはジャブなどのパンチがリーチ以上に伸びてくるのが特徴だから、その影響もあって長く感じるのかもしれないな。


序盤はお互い探り合いだった。向こうも俺のことを研究しているのだろう、簡単には隙を見せず、俺の繰り出すコンビネーションにしっかり対応していた。防衛回数5回を数える王者に研究されたと思うと光栄だね。


年齢は俺より4つ上。ボクサーとしては少し遅咲きだったようだが、その分テクニックはある。中盤以降俺が少し変化をつけてリズムを変えていこうとするが、そのたびに上手いことクリンチに持ち込まれたり、ブロックされたりと少し攻め手に欠いた。


まあ、これは試合前から想定していたことだ。スパーリングでメキシコ人を呼んでやってみたが、最初は打ち辛さもあったし、たぶん慣れる時間も必要だったから、それこそ開始早々のKO勝ちなんてないと思ってたし、最初から後半勝負に持ち込むため、俺もスタミナを温存できるところは温存していた。


と、そんなところに相手の強烈な左フックが飛んでくる。かろうじてガードしたが、肝が冷えた。さすが世界王者、少ない予備動作でいいパンチ繰り出してくるなあ。


しかし俺は世界王者と戦うのはこれが初めてではない。世界戦自体は初めてだが、ウチのジムには歌舞武史という歴史を塗り替えた世界王者がいる。


こっちはもう10年以上、あの世界一のゴリラとスパーリングしてるんだ。今更そんな左フックで俺をしっかりとらえられるわけがない。


今解説席で色々言ってるあのゴリラと付き合いが始まってもう17年。頭痛がする思い出がほとんどだが、唯一良かった点があるとすると、後の世界王者と20年近く拳を合わせられた経験を得たことだろう。


しかも階級はアイツのほうが圧倒的に上だ。パンチの重さも比較にならない。マヌエル・ゴンザレスの右ストレートも重いには重いが、あのゴリラのパンチに比べたら可愛いもの。


両親からはいい目をもらった。残念ながらスポーツドクターである母の優秀な脳みそを受け継ぐことはできなかったが、ありがたいことに目がいい。動体視力の検査でも毎度破格の数字が出る。パンチをある程度とらえられるのは、俺の大きな武器の一つだった。


そう言えばウチの親父が、ウチの母親にドクターストップをかけられ引退する原因となったのは目のケガだった。親父に引導を渡した目が、今の俺の最大の武器になっていると思うと、なんだか感慨深いものがあったりする。


世界戦は1ラウンド3分で計12ラウンド。つまり最大36分続く。36分も殴り合うんだから大変な競技だと思う。集中力を36分持たせて、なおかつ体の疲労と戦っていかないといけないのだから、改めて過酷なスポーツだな、ボクシングって。


今回は遥の減量メニュー、父親の練習メニューのおかげで体のキレがいい。全体の3分の2、8Rが終わってコーナーに戻ってきても、まだ体は動ける状態だった。集中力もキープしていた。


マヌエル・ゴンザレスのほうがたぶん減量は厳しかっただろう。もちろん食事に関してある程度厳しくやっているとは思うが、こっちには遥がいる。


遥のおかげで減量が苦にならない。その分無理はしていないし、試合でも体調がおかしくなったりすることがない。食って本当に大事だと実感するな。


ゴンザレスはだいぶ汗をかいているし、さっきのラウンドでボディにいいのが入っているから足も少し震えているように見えた。


「へへ、ヤッコさん、だいぶ疲れの色が見えるな。俊、計画通り後半勝負だ。あのメキシカンに左ストレートっていう日本お土産を渡して、丁重に母国に帰ってもらえ」


コーナーで俺にアドバイスを送る会長も勝ち筋が見えたらしい。誰もが今、ここが勝負どころだと分かっている。俺はギアを入れ直して、再度立ち上がった。


ふとリングサイドの関係者席のほうに視線を送ると、遥が手を前に組んで、祈るような姿勢で俺を見つめていた。たぶん試合前からずっとその体勢なのだろう。両手はもう汗でグッショリのはずだ。


俺はそんな彼女を『世界チャンピオンの妻』にするために今日まで頑張ってきた。会長の組んだ地獄の練習メニューは、たぶん実際地獄に行けばそこが楽に感じられるのではないかと思えるほどハードなものだ。


厳しい練習を乗り越えられたのは、彼女の支えがあったから。高校を卒業してすぐに同棲。本当ならもっと同棲生活を楽しみたかっただろう。しかし俺には減量と練習がある。彼女には何度も寂しい思いをさせてしまった。


しかし白鳥遥は弱音を吐いたりすることもなく、献身的に俺のことを支えてくれた。俺は彼女なしにこのリングに立ってはいない。


なあ、マヌエル。お前にも支えてくれる人がいるだろうし、勝たないといけない理由があるだろう。でもな、俺のほうが勝ちたい。間違いなくこの試合、俺のほうが勝ちたい。


6年前、遥を助けるために不良たちに繰り出した右のストレート。そしてサウスポーなのに会長の命令で右主体の試合をやらされ、今では俺の武器になったスイッチスタイル。俺が積み重ねてきた歴史を、メキシコが誇る世界王者にぶつけていく。


さすが世界王者、簡単には倒れないな。でももう汗もだいぶ額に浮かんで、足が止まってきてるぞ。ガードする両腕も少しずつ下がってきた。


左、右、そして左、と見せかけて右……。王者を少しずつコーナーに追い込んだ俺は、勝負どころと見てラッシュをかけた。その内の1本、左のフックがカウンター気味にマヌエル・ゴンザレスの右頬を貫いた。


時間が一瞬止まる。スローモーションかと思うほどゆっくり、俺の左フックは弧を描いてメキシカンの右頬に当たると、マヌエル・ゴンザレスはそのまま膝が折れて、リングに沈んでいく。


その流れで右を打とうとした時、間に水色のシャツを着たレフリーが割って入った。手を上にあげて、何度も交差させる。テクニカル・ノックアウト。勝利の合図だ。


なんてことは分かってるんだけれど、俺の頭がレフリーの動きについていかない。俺は無意識に真逆のコーナーのロープに足をかけて上り、右こぶしで何度も胸を叩いて吠えた。


ようやく現実を飲み込んだのは、その後リングに雪崩れ込み涙を流す会長に抱きしめられたところでだった。会長、痛いです、背骨が折れます。


父親とも抱擁を交わした。父親も泣いていた。大好きなボクシングをケガで諦めた父親の代わりに、俺は今、世界を獲った。


その後リングの上で業界のお偉いさんに賞状をもらい、若い女性アナウンサーにマイクを向けられる。興奮しているのが質問の口調を通して伝わってくる。なんかカブとの関係まで聞かれたけれど、そもそも俺たち付き合ったりなんかしてないですよ。あのゴリラは単なる腐れ縁です。


「では最後に、この勝利を、誰に伝えたいですか?」


試合後、定番と言っていいクエスチョンに対して、俺は女性アナウンサーにお願いし、マイクを貸してもらう。今日、俺は世界のベルトを獲得できたら、一番大切な存在である女性にメッセージを残すことを心に決めていた。

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