003 最期
現代
日本国のとある場所
クライアントの依頼を受けて、PCを使って最適な結果を求めて、ひたすらに計算と検討を繰り返すような仕事をしている。
その日も仕事を切りの良いところで上げて、いつもは自炊をするところを近くのコンビニで買った弁当をつまみながら、ネット小説を読んでいた。
独立して一人で仕事をこなすようになってから、10年近くになる。資料の大半は電子メールで送られてくる。人と話さない生活も慣れたものだ。
酒は好きだ。が、量よりも質で、会社に勤めていた時はBAR巡りなどもしたものだが、自宅で仕事をするようになってからは、スペイサイドから輸入したスコッチをG.W.Jrを聴きながら寝しなに少し嗜む日があるくらいだ。煙草は人生でくわえたこともない。通勤がなくなったことで減った運動量をウォーキングで補おうとはしているが、それでも運動不足は否めない。体重の増加は夏場のジョギングで一気に解消している。それも年中行事となった。
個人の資質にもよるだろうが、以前よりも規則正しくなった今の生活は心地よい。
性に合っているのだろう。持病だった群発性頭痛の頻度がだいぶ減っているのがその証左ではないか。
代わり映えのしない、いつもの日常だった。
唐突に頭部に衝撃を感じた。
良座郎の他に誰もいない部屋だ。ドアも
後で振り返れば、特に激しい痛みなどもなかったように思える。雲の中の出来事というか、物事をゆっくりと感じていたような気はする。
ただ、口の中の物が飲み込めなくなった。
どうやっても飲み込めない。まるで、そのやり方を身体が忘れたかのようだ。
だが、何故か必死にそれを飲み込もうとした。
涙ぐみながらだ。
ありふれた普通のコンビニ弁当の揚げ物を、だ。
恐らくは、無意識にそれが最期の一口になるとその時は思っていたのだろう。
結果、無理だった。
諦めて、それをごみ箱に吐き出す。
ゆるりと立った。
身体は軽く、ふらつき、床に足がついていないようで、まとわりつく空気が重い。
食べ掛けの弁当に蓋をして台所に置いて、自身は寝所に横たわった。
回復の見込みなんてあるのだろうか。
間を置くことが問題だろうとは分かっていた。
ただ、このまま静かに死ぬのであればそれも悪くないと考えていたのは確かだ。
少し経って、眠気が襲ってくるでもなく、身体がしびれてくるでもなく、状況は変わらない。
良座郎には人生に対して一つの思いがあった。
この世で“それは完全に己の意志だった”と言えることがあるだろうか。
生まれに始まり、生物学的な遺伝による能力や容姿、家庭環境に制限される成長の
しかし、唯一、完全なる自分の意志と言える行為とそれに基づく結果が得られる選択がある。
それは“死”、厳密には“自死”だ。※1
自死については長い時間を考えてきた。それに怖さや怖れを感じることがないほどには……。
今の状況はその思いの外になるかも知れない。障害が残り、その意志を選択することさえ許されない状態になる。それは避けたい。
ならば、今、選択するか。
だが、それは自分の意志が今を選んだと言えるのか。
偶然の事象に合わせたことにはならないか。
安易な条件を選んだ。回復した後に、時を選べば良い。
先延ばしだ。1年だけ費やそう。
左、左に寄れつつも、救命安心センターに電話する。携帯で#7119には通じなかったので、ネットで調べて固定番号に連絡を入れる。
呂律が回っていなかったようだ。すぐに救命に回された。
右椎骨動脈解離に因る延髄外側における脳梗塞だった。
顔面の感覚障害、左半身の温痛覚障害、身体のバランス障害、嚥下障害、排尿障害が残った。
点滴治療が終了した2週間で自主的に退院した。病院での治療とリハビリ・ケア施設で半年の入院継続が必要との診断だったが、個人事業者にその日程は受け入れられない。
見掛けは変わらない。休んだのも2週間だ。
但し、疾病のことは取引先にも話した。後で発覚したほうが与える印象が悪いだろう。
一年が経過した。
3年前に、消費税が上がり、クライアントたちは新規の仕事を見合わせるようになっていた。
2年前に、コロナ禍で現場が動かなくなった。
1年前に、脳梗塞を発症し、それが知られると、身体を休めたほうがよいと仕事が取り下げられるようになった。ミスが許されない仕事で、会話や表情に問題が見られなくとも、取引先にはそれがリスクになる。
そして、インボイス制度で個人に頼む利点もなくなり、取引そのものがなくなった。
「ふぅ、……俺の意志だ」
深夜、川岸で独りたたずむ。
堤防が街の騒音と灯りをある程度は遮ってくれる。
水の匂いと草の香りが混ざり合う。
川の流れる音が心地いい。
高架を最終電車が駆けていく。
差し込む明かりが水面を映し出す。
首に刃を押し当てた。
流れ出して出来た血が土を濡らす。
橋脚を通じた振動は血溜りに同心円の波を立て、次いで精緻で美しい幾何学模様が描き加えられた。
そして、瞬間に、まるでぶわっと音が鳴ったかのように、その血の陣から赤黒い霧が噴き出した。
それは見る間に多鎖の身体を包み込む。
薄れゆく意識の中で見たと思えるのは、目も鼻も無いが口内の紅と喉奥の暗い闇だ。
[死を越える!素晴らしい意志だ。そんな君こそ、我が殺戮の
そんな言葉も聞いたような気がする。
世界は、その誕生から死に至るまで、何一つとして個人に完全なる自由意志を与えない。
***
知あるモノは、その身体の中に扉を持っている。
そして、その扉はとある場所に繋がっている。
そこは世界の始まりよりも前から存在している巨大で空虚な裂け目である。
そこからすべてが創造され、そこにすべてが還っていく。
そこには誰もが往くことができ、誰も辿り着くことはできない。
扉から情報の基を授けられて
それが世界の理であり、生命の循環とも言えるものなのだろう。
***
高架下には幸せそうな顔の遺体が残った。
表情筋は弛緩すると微笑を示す。
人の表情の
しかし、この世で生きていくのに、そのままに生きることは難しい。
だが、その経験が人を成長させ、その生を豊かにしてくれることも確かなことだ。
それも世界の理が意図で、仕組まれたものだとすれば、個人の自由意志などどこにあるのだろうか。
筆者注)筆者は自死を推奨するものではありません。
スペイサイド…英国スコットランド北東部スペイ川流域の地区。モルトウイスキーの名産地。
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