番外編
愉悦を覚える時
「エーファ……悪かった」
困り果てたリヒトシュタインの何度目かの声掛けに敢えて返事をしない。ベッドの上で枕に顔を押し付けて声とは反対方向に転がった。そう、わざとリヒトシュタインに背を向けている。
「エーファ、無視するのはやめてくれ。頼むから返事はしてくれ」
情けなくみっともなく彼に懇願されると、自分は簡単にほだされるというのはたった今知ったところだ。
「今日はセレンのところに花を持って行って、それからミレリヤのところに行く予定だったのに」
「悪かった」
「別に。リヒトシュタインに怒ってない」
「顔も見せてくれないのだから怒っているだろう」
「だって、こんなんじゃあ二人のところに行けない」
「悪かった。まさか発情期があんなにコントロールできないものだとは」
「それは言わなくっていいから!」
枕に顔を押し付けたまま恥ずかしさのあまりエーファは叫ぶ。
「すまない」
「別に予定は他の日にすればいいから。発情期なら仕方ないでしょ」
「そうは思っていないだろう」
「疲れてるから寝かせて」
「使いを送っておくか? 約束していたなら相手は待っているだろう」
「じゃあミレリヤとエーギルのとこにお願い。アザールの家とクロックフォードの家」
「なぜあのトカゲの名前が出てくる」
「セレンに花持っていくって事前に知らせといたから。エーギルも行くって言ってた」
面白くなさそうな表情をしているリヒトシュタインを見なくても気配だけで容易に想像できる。しばらくリヒトシュタインは考え込んでいた様子だったが、部屋を出て行った。
扉が完全に閉まって足音が遠ざかるのを確認してから、顔から枕を離す。喉がカラカラなのでベッドサイドの水に手を伸ばした。
だが、自分で思っているよりも体にうまく力が入らなかった。ガクンと力が抜けてバランスを崩し、広いベッドからずり落ちる。
枕を抱いたままゆっくり落ちたのでそれほど痛くはない。
「はぁ、最悪」
自己嫌悪に陥って枕を放り出してベッドによじ登ろうとする。足が震えてうまく力が入らないのはリヒトシュタインのせいだ。
「こんなことだろうと思った」
ベッドサイドの家具を支えにして、震える足で立ち上がろうと集中していたのでリヒトシュタインが戻って来たことに気付かなかった。驚いて床にへたり込む。
リヒトシュタインは大股で近付いてきて、エーファを難なく抱えあげてベッドに寝かせた。その容易さに無性に腹が立ったのでまた枕に顔を押し付ける。
エーファは足腰がやられて立つこともできないのに、なぜリヒトシュタインは平気なのか。
「水を飲むか」
「戻って来るの早くない?」
「廊下にちょうど良く鳥がいたからな」
「じゃあ、水飲む」
「その体勢で飲めるのか」
「くれたら起きるから」
水をグラスに注ぐ音がしたのでモゾモゾと移動し、今度は枕に背を預けて半身を起こす。体を動かすたびにさまざまな箇所につけられた三日間の痕跡が見えて顔に自然と熱が集まった。
「大丈夫か」
「誰のせいよ」
「だから悪かった」
軽く睨むとなぜかリヒトシュタインは水を自分の口に運んだ。嫌がらせなのかと思ったが、すぐに顎を掴まれてキスされた。冷たい水が流れ込んできて思わず飲み込む。
「けほっ。最低」
「俺のせいだから介抱している」
「あんなに何度もしなきゃ良かったでしょ」
「そんな無粋なことを考える余裕がなかった」
口をへの字にしてエーファは再び横になって枕に顔を埋める。こうしないとキスをねだってしまいそうだ。血を吐く姿は見せたが、こんな締まりのない情けない表情を見られたくない。
普段のリヒトシュタインは悔しいほどに余裕があるがこの三日間、彼には余裕というものが跡形もなかった。いつもはエーファが少しでも躊躇い震えたらやめるか聞いてくれるのに。この三日間、リヒトシュタインは強引で自分本位だった。
だが、気付いてしまった。自分を前にして余裕がなくなっているリヒトシュタインを見るのがエーファにとって大変好ましかったことに。力で何でも手に入るはずの、圧倒されるような強さと美しさを持つ竜人がエーファだけを熱に浮かされて求めている様子は、エーファの心に大きな喜びを宿してしまった。
絶対にリヒトシュタインは調子に乗るから口が裂けても言いたくないけれど。
死にかけた時、エーファは意識を途中で失ったからリヒトシュタインの取り乱した姿をそれほど見ていない。血を吐いてそれどころではなかった。
途中で目覚めた時はリヒトシュタインの表情を見ることは叶わず、心臓を半分もらった後は彼の余裕はかなり回復していた。それかエーファを心配させないように気丈に振舞っていたか。
自分のこんな一面なんて知りたくなかった。恥ずかしすぎて死にそうだ。
逃げようとするエーファの名前を呼んで強引に腰を引き寄せて、余裕も何もかもかなぐり捨てて求め続けるリヒトシュタインを見て、愉悦を覚えるなんて知りたくなかった。
彼の金色の目に揺らめくのは普段の焚火のような温かな感情ではなく、エーファの得意な鉄火扇のような高い温度の激しい色だった。見慣れない熱が怖かったのは最初だけだ。
スタンリーの時はこんなこと思いもしなかったのに。死にかけて愛を確かめてしまったから自分の性格は歪んだのだろうか。
「他の男のことを考えていないか?」
なぜ、リヒトシュタインはこういう時だけ鋭いのか。枕を取り上げられそうになるので暴れて抵抗する。
「考えてない」
「考えてる。そんなに暴れることができるならエーファはタフだな」
「ミレリヤの子供、どんな感じかなって。まさか、鳥のヒナじゃないわよね」
「あぁ、エーファの友人は男の子を出産したんだったな」
適当にミレリヤの子供の件を持ち出して枕をかろうじて死守できた。今、リヒトシュタインの姿をこれ以上見てしまったら何を口走るかエーファも分からない。
今朝とつい先ほど見たリヒトシュタインは発情期が終わったせいか気怠そうに壮絶な色気を放っていた。絶対にエーファよりも色気がある。種族が違うのに、その色香に引き寄せられそうになる。
「そういえば、オレンジ髪の竜人の体調がまだ回復していないから兄の機嫌が悪いそうだ。動けるようになっても兄には当分近づかない方がいい」
他国からの侵攻は今のところないが、まだ解毒剤が完成しないので魔力の低いオルタンシアが連日のように獣人たちに治癒魔法をかけている。
「陛下がいない時にオルタンシア様のお見舞いに行こうか」
「その状態で行くのか」
「こんな状態にしたのは一体誰よ。今日は無理だから明日以降の話」
「それがいい」
油断していたら枕を取り上げられたので、起きて抗議の声を上げる。
「返して」
「顔も見せてもらえないのは精神的にキツイからやめてくれ」
「疲れてるんだから眠らせてよ」
「熱でもあるのか」
「ないと思うけど」
「心臓は?」
「異常ないと思う」
「本当なのか」
「心配しすぎ」
取り上げられた枕を目の前に差し出されたので、受け取ろうと腕を伸ばすとぐいっと腕を引っ張られて抱きしめられる。掴み損ねた枕は二人の間に落ちた。
「何がしたいの」
リヒトシュタインは答えずにエーファの胸まで頭を下ろす。しばらくして彼は息を吐いた。心音を確認したらしい。
「次から発情期を抑え込む薬を飲む」
体を離しながらリヒトシュタインが気怠そうに髪をかき上げて口にした。彼の首筋や鎖骨が露わになるのでエーファは見ていられず、枕を拾うと体の前でぎゅっと抱える。
「そんな薬なんてあるの?」
「ある。オウカ・セイラーンがゾウの獣人相手に使っていたものだ」
「それって危ないんじゃない?」
「副作用はあるだろうが……あんなものに振り回されてエーファに負担をかけるなら発情期などない方がいい」
「番紛いも飲んだんだから……これ以上は飲まない方が……発情期は竜人にとって自然なんだし」
「発情期が毎月あるかもしれないのにそう言えるか? 個体差があるが」
あんなことが毎月三日間……いや今回が三日間で済んだだけだ。また顔に熱が集まるのを感じて枕をさらにぎゅっと抱えた。
「飲まなくていいから」
「だが、エーファは嫌だっただろう」
「別に……大丈夫」
「俺の心臓を入れたのだから安静にしていなくてはいけない時だ。魔力もまだ安定していないだろう。エーファの状態にかかわらず発情期であんなことになるのは良くない」
思わずリヒトシュタインを枕で叩いた。彼は心底、エーファの行動の訳が分からないという顔だ。
「どうした? 何が不満だ?」
唇を噛む。素直になれるのは死にかけた時だけなのだろうか。
「泣くほど嫌か?」
リヒトシュタインの長い指がエーファの目尻を捉える。
「私のこと、愛してるんでしょ? 心臓半分差し出して一緒に死のうと思うくらい」
声が若干震えてしまった。否定されることなんてないと心で分かっていても、言葉にするのは怖い。こんな試すような質問をしたいわけじゃない。単なる事実確認だ。
「もちろんだ」
「それなら、発情期があっても問題ないでしょ」
「だが……」
「嫌じゃなかったから」
枕を抱え込んで素早く彼に背を向けて寝っ転がる。
エーファは唐突に気が付いた。愛をどうやって表現すればいいか分からなくて迷っているだけだ。自分に愛がないわけじゃない。
「エーファ?」
「別に発情期くらいで嫌いになったりしない。その……余裕のないリヒトシュタインは……知らない一面を知ったみたいで……その、良かった」
肩を掴まれて無理矢理リヒトシュタインの方を向かされる。恥ずかしいが、枕をずらして目だけ出した。はしたなく上がる口角や赤くなっているだろう頬を見せるわけにはいかない。
それにしても、これまで全くなかったのに発情期というのは突然やって来るものだ。
まさか、エーファが自分のことをリヒトシュタインのニセモノの番だと思わなくなったから発情期が来たなんてことは……ないはずだ。
「それが本当なら枕ではなくて俺を抱きしめるべきじゃないか? 行動が言葉を裏切ってないか?」
床に膝をついてベッドに腕と顔を乗せて、やや喜色を浮かべたリヒトシュタインがのぞきこんでくる。
「私はとっても疲れてるから、枕をあなたの代わりに抱きしめて今日はリヒトシュタインを枕にする」
「その割に随分と余裕があるな。じゃあ今度から発情期の際は」
「言わなくっていいってば!」
「俺のセミは威勢がいい」
結局また枕で彼を叩く羽目になった。
死にかけて愛を知っても、こういう関係が私たちにはよく似合っていた。
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