第3話

 翌日からリヒトシュタインは普段通りだった。エーファとの距離が近づくことも遠くなることもない。


 エーファが泣いたことをそれ以上からかうわけでもなく、のうのうと額にキスしたことを蒸し返すわけでもなく。それより、今は膨大な墓の中からセドリックのものを探し出すのに忙しい。


 エーファは頭を軽く振って、墓の名前を注視しながら歩いた。


「セドリック、セドリック……これか?」


 離れたところで探していたリヒトシュタインが声を上げた。近付いて亡くなった年を確認する。


「これだと思う。良かった、あって」


 マルティネス侯爵がセレンを連れ出そうとした彼の墓を作らせていない可能性もあったが、セドリックの墓は存在した。

 セレンの髪飾りと髪の毛を墓に入れ終わって顔を上げると、リヒトシュタインは不思議そうな表情をしていた。


「何?」

「なぜ恋人の墓にそんなものを入れるのか理解できない」

「死んだ後であの世で一緒になれるように、ってことだと思うけど」

「死んだらそれで終わりなのにそんなことをするのか」

「そっちの方がロマンがあるし、都合がいいんじゃない? リヒトシュタインだってエリス様の骨を母国の海に撒いたでしょ」

「あれは母の希望を叶えただけだ」

「死んだ後でも故郷に帰りたいってことでしょ」

「そういう意味か」

「セレンもそうみたい。生まれ変わっても一緒になろう、みたいな」

「生まれ変わりなぞない」

「個人の死生観よ。人生が悪夢みたいだったら来世や死後の世界くらい希望を持ちたいのよ」


 リヒトシュタインが軽く頷いている向こうで、誰かの墓参りに来たらしい夫婦が見えた。手をつないで歩いている四十代くらいの夫婦を思わず眺めてしまう。親の墓参りだろうか。


 エーファが望んでいた人生のようだ。ドラクロアから逃げてきたら、どこか平和で穏やかな場所でスタンリーと暮らして年をああいう風に取っていく。勤め先をどうするとか、どこに住むかとか具体的なことは全部無視してそんな夢を思い描いていた。


 コーヒーを朝淹れてあげるとか、夕食は早く帰ってきた方が作るとか、家はこんなのがいいとか、そんな変なことは夢見た。


 でも、状況は変わった。突然に。エーファの夢はきれいさっぱり失われてしまった。

 スタンリーは変わっていて、エーファだけが変わっていなかった。


 なぜ私は今墓場に突っ立っていて、隣には竜人のリヒトシュタインがいるのだろうか。セレンとの約束を果たしたからか、そんなことを考えてしまう。


 エーファの夢が失われても、愛が分からなくても世界は変わらず時を刻む。そんな世界で馬鹿みたいに立ち尽くす。今まで考えたこともなかったが、墓場にいるからだろうか。死に向かってただ生きているように感じた。


「じゃあ、メルヴィン王国に行くか」

「その前に、うちの男爵領を見てみたい」

「時間はいくらでもある。それにしてもなぜだ?」

「私がドラクロアに行って、入ったお金でどのくらい工事が進んだか見たいのよ」

「燃やすか?」

「燃やさないわよ。みんなに迷惑でしょ。ただ、私がドラクロアに行った価値を目で確かめたいだけ。私には少なくとも領民の生活を助ける価値はあったんだって目にしたい」


 スタンリーは私に待ち続けるほどの価値を見出してなかったみたいだから。という言葉は飲み込んだ。別に言う必要もない。いや、口に出してしまうともう立ち上がれなくなく気がするから。


「母はエーファと違ってよく泣いていた」


 そうだろうか。

 エーファを抱き上げてからリヒトシュタインは脈絡のないことを口にする。風魔法で飛べるのだが、リヒトシュタインにとってはエーファの魔法では遅すぎると文句を言われた。


 ドラクロアに行くと決まってから、エーファは死と絶望に立ち会うたびによく泣いた気がする。ドラクロアに連れて行かれる前のスタンリーとの別れ、ミレリヤの妊娠を聞いた時、セレンティアが死んだ後、公爵夫人を殺した時。そしてリヒトシュタインが再度現れた時とスタンリーを拒絶した今。


「平気で命を懸けるくせに無駄にプライドがあって面倒な奴だ」

「矛盾こそが人間でしょ。だってこんなに弱いんだから」

「エーファが弱いと言うと別の言語に聞こえるな」



 シュミット男爵領の様子は空から見るだけにとどめた。せっかくエーギルや局長が隠ぺいしてくれたのに、ここで見つかったら面倒だ。

 リヒトシュタインの様子がおかしくなったのはメルヴィン王国の海辺に下り立ってしばらくしてからだった。


 最も美しい海というだけあって透明度が高い。日光が反射してキラキラ光る穏やかな光景はエーファの心の中とは真逆だ。

 その海辺を歩いていて、リヒトシュタインがある一点をじっと眺め始めた。

 竜人の言動は理解できないことが多いのでエーファはしばらく何も言わなかった。ただ、リヒトシュタインの手から血が流れているのを見つけて驚きの声をあげた。


「ちょっと! 何してるの」


 爪が手に食い込んで出血している。リヒトシュタインはやっと立ち止まってエーファを見た。彼の顔をそれまで見ていなかったが、汗が浮かんでいる。いつでもどこでも飄々として汗などかいていなかったのに。


「体調でも悪いの?」

「エーファ、頼みがある。今すぐ、俺を殺してくれ」


 この少しの間に何が起きたのだろう。余裕のないリヒトシュタインの表情を見ながらエーファは何も言えなかった。

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