第5話

 荷物なんて大して持ってきていない。明日の朝慌てて突っ込んでも間に合うくらいだ。だからエーファはベッドに腰掛けてぼんやりしていた。


 しばらく経ってから家族が帰ってきた。母とエーファは同室だ。


「エーファ、準備をしないと」

「嫌よ」


 母を睨むと、なぜか母が泣きそうになっている。泣きたいのはエーファの方だ。父と兄は上着を置いてからエーファと母のいる部屋にやってきた。


「エーファ。頼む! ドラクロア国に嫁いでくれ!」

「……どうして?」


 二人はそろって頭を下げたまま何も言わない。


「私はスタンリーと婚約しているのに……ねぇ、どうして? なんで今日会ったばかりの、急に腕つかんでくるような訳の分からない獣人のところに嫁がなきゃいけないの?」


 母がさめざめと泣きだしたが、泣きたいのはエーファの方だ。


「金だ。治水工事のための金を王家が出してくれるんだ。エーファがマクミラン様に嫁ぐことによって」


 苦しそうな声で答えたのは兄だった。


「うちがやっとおじい様の代の借金を返し終わったばかりなのは知ってるだろ? 災害でできた借金だ」

「もちろん……知ってる」

「借金返済でカツカツで……治水工事に回すための金はなかった。治水工事さえできれば大雨のたびにまた災害が起きるのかとビクビクしなくて済む。その金を王家が全額援助してくれる」


 シュミット男爵家はエーファの祖父の代に起きた川の氾濫で借金があった。それをようやく返し終えたところだったのだ。


「私とスタンリーでシュミット男爵家を助けていこうって思ってたよ。お城に就職する予定だったし」


 兄が男爵家を継ぐことは決まっていた。

 エーファは隣合った領地のオーバン子爵家の次男スタンリーと結婚して二人で魔法省の職員として来年から勤める予定だった。二人とも魔法の素養があった上に、魔法省の職員の給料は他と比べて格段にいい。だから、ほとんどを家に仕送りするつもりでいたのに。スタンリーだって節約を手伝ってくれると言っていた。


「でもお前とスタンリーじゃこれほどの金は稼げない」

「兄さんだって稼げないのに私に求めるわけ?」


 はっきり口にした兄の頭を父が叩く。


「エーファ……すまない。だが事実なんだ……しかも数か所におよぶ治水工事を王家がやっていいと」

「そう」


 つまり、金のためにエーファはあのおかしな獣人に嫁がされるのだ。


「私はいくらで売られるの?」

「そんな言い方はやめて、エーファ」


 母が泣きながら口を挟んでくるのにムッとする。


「泣きたいのは私よ、お母さん。勝手に一人でメソメソしないでよ。私はお父さんもお兄さんも稼げないほどのお金を家に入れるために、ずっと婚約してたスタンリーじゃなくて、会ったばかりのおかしな獣人に嫁がされそうなんだから。自分の値段がいくらなのか、自分がいくらで売られるのか、価値くらい知っておくのはいいじゃないの」


 八つ当たりだが、仕方がない。家に入る金額は、エーファの初恋の値段とも言える。

 父が答えた金額は確かに簡単には稼げないほどの額だった。税収に換算しても何年分だろうか。

 工事にもっとお金がかかってしまえば、王家はそれも出してくれるそうだ。すべてはエーファがドラクロア国の公爵家に嫁ぐから、である。


「聞くけど、お父さんはそれだけのお金を王家が払ってくれると言ったら、お母さんをドラクロア国に差し出すわけよね? 兄さんももうすぐ式を挙げる婚約者のお姉さまでも差し出すんだよね?」


 エーファは言いながら涙がにじんできた。

 こんなこと言いたくない。でも金のために、男爵家のために嫁げと言われているのだから。


 エーファはスタンリーと子供の頃から婚約している。魔法省で勤め始める前に二人で簡単な式を挙げようと言っていたのに……それが今回こんな形で台無しにされるなんて。早く結婚しておけば良かったんだろうか。


「エーファ。今回の治水工事は隣のオーバン子爵家にも利益があるんだ。あの境に近い川の工事もするからスタンリーくんのところの領民にだって利益が」

「お父さん、今はそんな話はしてないよ。番だと言われたらお母さんを差し出すのかと聞いてるの。治水工事ができるほどのお金を王家からもらえるんなら」


 エーファの睨みとキツイ言葉に父は言葉を失った。母はそんな父を見て落胆しているのが分かる。


「兄さんは? 婚約者であるエミリーお姉さまを差し出すんだよね? いや、言葉が違うか。喜んで婚約解消するってことだよね?」


 兄も頭を下げたまま黙っている。


「じゃなきゃ不公平よ。私だけお金のために嫁がされるなんて。兄さんは好きな人と結婚できる。もっと爵位が上なら私だって家のために嫁ぐ覚悟は持ってたよ。でも、いきなりこれ?」

「うちが好きな人と結婚できるのはしがない田舎の男爵家で、政略的に何の旨味もないからだ」

「分かってる。だから聞いてるの。というかうやむやにしないでよ。お父さんはお母さんにちゃんと言ってよね。お母さんが私の立場でも差し出すって。兄さんもエミリーお姉さまに言ってよね。お姉さまが番だって言われたら喜んで婚約解消して身を引くって言ってよね! じゃなきゃ私は納得できない!」


 部屋にはエーファの声だけが響く。


「エーファ……本当にすまない……でも領民のためなんだ……」

「領民のためならお母さんでも兄さんでもなく、私の幸せは踏みにじっていいってことよね」

「そうじゃない! だが、ドラクロア国の獣人たちは番を最上として大切にしてくれると! それにドラクロア国の公爵家だぞ!? 贅沢もできて愛してもらえるんだ!」

「急に番だとか言われて、愛されるからいいだろなんて受け入れられるわけないじゃない。お父さんの気持ちはよく分かったわよ。相手が金持ちで愛してあげるって言ってるんなら娘を金のために売るわけよね」


 エーファはため息をつく。パーティーに行ったことをこれほど後悔することになるなんて。


「風よ!」


 イライラして枕に風の魔法を放った。力加減を間違えて、枕がズタズタになって中身が出た。


「これも王家に弁償してもらっといて。スタンリーと話してくる」

「エーファ……頼んではいるが、エーファがドラクロア国に嫁ぐことはもう決定なんだ……だから頼む……エーファが断ったらうちは潰されてしまう……」


 父の言葉と母のすすり泣きを背に扉を閉めた。

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