偵察

先生のオフィスは横浜駅西口から徒歩1分である。いや、オフィスっていう表現が正しいかは知らない。とかく先生の座すこの空間は繁華街の裏側の古ぼけた路地を突き進むと、ふわりと入れたり入れなかったりするのだ。入室許可は先生の気分次第。事業内容は探偵業、というのは先生のみが自称していること。そもそもこの行為を探偵業と称するのは絶対に正しくないと思う。正確な表現をするならば、なんだろう。掃除屋とか?


「白くんは分からず屋だね。わたしが探偵というならそれは探偵なんだよ。大体掃除屋なんて少しもロマンがない」


 するり、と先生の身体が隣に現れる。場所、繁華街の裏側の寂れた路地裏。時刻、真昼。久しぶりの外は思ったよりも刺激物が多かったのか、先生は顔を顰めると鼻を摘んだ。そんな反応をするならばどうしてこの場所を選んだのだろうか、なんて思わず考えるけど無意味な思考だ。先生の脳内をトレースすることは絶対的に不可能なんだから。

 油の饐えた匂いとうら淋しい埃の漂う空気が先生のお気に召したのかもしれない。もしくは単に家賃が安かったのかも。いや、異空間への入り口に家賃なんて概念があるのかは知らないけど。なんてどうでもいい思考を載せながら、僕は久々に地上の、人間と同じ空気を吸った。苦味、酸味、ほんの少し脳が揺れたのは煙草の残り香。うん、実に人間らしい。というわけで調査開始だ。ぱちぱちと確認するように二度瞬きをすれば、先生は呆れたように隣でため息を吐いた。


「白くん、もう少し人間らしい顔できないの?」

「僕を造形したのは先生です」

「ハードじゃなくてソフトの話をしてる。無表情な人間は警戒されるし、聞き込み調査には不利益を生む」


 無表情。ふむ、と首を傾げる。試しに口角を無言で上げてみれば、同じく無言で隣の先生から拳骨が降ってきた。どうやら失敗。人間とはこうも複雑な機構を常に制御しながら生きているのか。少なくとも一朝一夕で身につくものではなさそうだ。


「大丈夫です、先生。現代では塩顔クール系が流行っていると聞きました」

「なにそれ。どこで見たの?」

「先生が読みかけで放った雑誌を処理するのは僕の仕事なんですからね」

「雑誌の処理のために内容を浚う必要はないだろ」


 むう、と先生の頬が苛立ったように膨らむ。なるほど、これが表情。僕のハードよりも幾分小さく設計されている先生の身体は幼子のようで、そんな少女が頬を膨らませていればまさに年相応だ。流石模倣のプロ。先生がこれだけ表情豊かならば僕が多少無表情で無機質だったとしても問題ないだろう。


「さて、先生。行きますよ。時間は有限なんですから」

「……こんな生意気な子を育てた覚えはないんだけどね」

「奇遇ですね。僕も先生に育てられた記憶はありません」


 探偵たるものまずは現場検証、とは先生の言葉である。煙草の吸い殻を足先で踏み潰しながら僕は見た目だけは完璧に擬態している童女の手を引いた。


 ♢


 「で、彼はこの川沿いで例の女と遭遇したわけだ」

「ええ。……ただし時間が異なります。男が彼女と出会したのは深夜」


 それに対して今は昼真っ盛りだ。いわゆる昼休み、なのか近くのビルからはぞろぞろとくたびれた会社員たちが溢れ始めている。現代社会の闇。これじゃあ蛸の一匹や二匹出現したっておかしくはないと思う。それから見ず知らずの女を川に突き落とそうとするような異常者がいたって不思議じゃない。ぞろぞろとコンビニに吸われて行く彼らを横目で見ながら、塀越しに真下の川を見下ろしてみる。


「……清流とは言い難いですね。神秘のしの字もない」

「本当にそう。幻獣だの妖怪だの、幻想が出現する下地にもなりやしない」

「では先生は彼女はただの妖の類ではないとお考えで?」

「君もそうだろ」


 じゃぷん、と黒ずんだ水が音を立てて揺蕩う。確かにそうだ。少なくとも僕は女性に見せかけて川縁から水に引き摺り込もうとする蛸の妖なんて聞いたことがないし、この環境は妖の類が生きるのにあまりにも適していない。暗闇、恐怖、不安、想像、幻想。それらの闊歩する環境でなければ存在を維持することも難しいだろう。繁華街の隅を流れる濁流はお世辞にもそれらの要素を増幅させるにふさわしいとは言えそうになかった。


「しかし彼の夢想ーー単なるゆめまぼろしでもなさそうだ」

「ええ。もし夢なら僕が気づかないはずがない。彼が遭遇した現象はただの白昼夢でもなんでもなく、現実に起きた事件です」

「そうなると難しいね。現実において女が気がつけば蛸になったなんてことは起きうるはずがないんだから。……不思議な妖怪の悪戯でもない怪奇現象。うん、興味深い。これは探偵が解き明かすにふさわしい事件だ」

「どうだか。少なくとも正統派ミステリでないことは断言できますけど」


 そもそも幻想だの夢だのというワードが出る時点でミステリとしては邪道も邪道。現実の物理法則に従わない現象が出現する時点でそれはファンタジーなのである。が、そんな小説界における瑣末な分類は先生には全く関係のないことだ。あくまでもシャーロック・ホームズのロールプレイを止める気はないらしい彼女は、懐から徐に分厚いグラスを取り出した。そう、虫眼鏡。彼女はどこまでも形から入るタイプの人なのだ。いや、人じゃないけど。


「さて、ワトソンくん。事件は現場で起きている。刑事は足で稼ぐもの。つまり現場検証は事件解決のために最も重要視される項目な訳だ」

「先生は探偵なのか刑事なのかはっきりさせたほうがいいのでは?」

「細かいことは言いっこなしだよ。……とにかく、今きみがすべきことは、その両眼をかっ開いて僅かな痕跡でもないか探すこと」


 ぱちり、とブラックホールみたいな虹彩がこちらを覗いた。先生の瞳は何色でもなく、故に何色にも見える。その不気味さはひとまず置いておいて、意識を目の前の濁流へと戻した。なんの変哲もないただの川だ。当然水底に沈む不思議な影も見えなければ、重要なアイテムがきらりと光り輝いたりもしない。


「……先生は本当にここから何かの情報が得られるとお考えで?」

「まさか。何も得られないよ。けれどそれこそが証拠だ」


 ちょうど胸元にあたるくらいの柵から身を乗り出して、先生はうっとりと微笑んだ。


「事件が起きたのは昨日の夜だ。もし彼が見た女性が現実の何かで、蛸への変身が何らかの視覚的トリックを用いたものならば多少の痕跡が残っていてもおかしくないだろう」

「そうでしょうか。男が遭遇してから12時間は経過しています。片付けには十分な時間だと思いますけど」

「その通り。……つまり次に私たちがしなければいけないことは既に定まった」


 くるり、と先生の首が回ってこちらを向く。確実に180度以上。散々現実世界への適応の必要性を訴えながら本人はこうなんだから始末に負えない。幸運なことに周囲の人々は自分のことで手一杯のようだから、川沿いで話し込んでいる二人組には視線も向けていない。先生の不自然に回転した首を無言で時計回りにきっかり90度戻すと、僕は人間として適切な角度で首を横に捻った。先生の意図することは何一つわかりません、なんて意味合いのジェスチャーだ。


「生憎先生の脳味噌にはついていけなそうなんです」

「答えから欲しがるなんて探偵の相棒失格じゃないか。だが今日は第一話だ。大目に見てやろう」


 足先をバレエのように華麗にターンさせて、先生はすぐそばに聳え立つオフィスビルの入口を指差した。


「そこに監視カメラがある。もしこの事件が現実の問題であればこの場になんの痕跡も残されていない以上、カメラに何かが映っていなければおかしい。12時間以内にトリックに用いた全てを回収しているなら状況との辻褄が合う。けれど、もし」


もしカメラに何一つ映っていなかったならば、それはこちらの領域の話だ。すなわち、夢であり、幻であり、異であるものの仕業ということになる。


「さて、行こうか白くん。全ての不可能を除外して最後に残ったものが如何に奇妙なことであってもそれが真実となる。――たとえそれが魔法のような奇妙さを孕んでいたとしてもね」


 魔法のような奇妙さ、現実にはあり得ない理不尽な事象。それが僕たちの掃除対象。

 スキップでもしそうなくらいに浮き足立った先生を追いかけて、僕はその濁流に背を向けた。

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