ゆめまぼろし探偵事務所は横浜駅徒歩1分

奈良乃鹿子

蛸の人魚

依頼

古ぼけた廃墟ビルの一角、という表現はおそらく正しくない。廃墟ビルの隙間から侵入できる奇妙な空間。現実世界ではないどこか。そんな場所にこの探偵事務所は存在する。

 コーヒーを依頼主の前に先生がそっと置いた。インスタントなのが気に食わないのか男は目もくれない。妙に充血した目をぎらつかせて先生をじっと睨みつけていた。中年の油ぎった顔が酷く歪んでいる。強い怒り。それ以外は空洞。あまり美味しい感情ではなさそうだ。つまみ食いは先生にも怒られそうだからやめておこう。


 先生は真っ黒なマグカップの中身に口をつけて、それから男に無言で話を促すよう視線を送った。ふわりと長い黒髪が揺らぐ。先生のその動作によって、やっと男はこの空間で口を開くことを許され、途端真一文字に結ばれていた唇は騒音をがなりたてた。


 出来心だったんだよ。誰にだってあるだろう、そんな日は。朝から雨が降っていた。電車がどこの誰だかわからない奴の自己満足のせいで止まった。電車の遅延だっていうのに上司は遅刻だと汚い唾を飛ばしてきて、昨日やったはずの仕事はどういうわけか綺麗さっぱりデータごと飛んでいた。仕方なく遅れを取り戻そうと昼休憩すら返上してディスプレイと向き合っていれば、後ろを自分より何段も早く昇進していく同期が通った。そういう日だったんだ。だから、仕方ないだろう?俺は悪くないんだよ。悪いのは全部この社会で、俺じゃなくて、アイツなんだ。


 ああ、そうですか、と気の抜けた曖昧な相槌。しかし男は相手のそんな態度への苛立ちすら飲み込むように語気を強める。


 蛸がいたんだよ。会社からの帰り道、女が川沿いを歩いてた。一人でだ。一人で、多分酒でも呑んでたのか左右に揺れてた。女と川の間にある柵は腰くらいの高さで、放っておいても河川敷を転げ落ちそうなくらいだった。


 へえ。ほぼ溜息に等しい相槌を彼女は相手の顔すら見ずに返す。黒髪が彼女の横顔を隠した。


 「それで突き落としたんだ。苛立ったきみの前にあくまでも偶然現れただけの彼女を、真冬の川に」

「彼女じゃない」


 男は懸命に自分の潔白を証明するように頭を振った。


「ほんの悪戯心だった。川に落ちたって下は水だ。死にやしない。だから背中をほんの少しだけ、押したんだよ。そうしたら」


 男は死にかけの老人のように息を引き攣らせた。


蛸だったんだ。さっきまで女の右腕だったものは触手になって、俺を掴んでた。馬鹿みたいにデカい身体がこっちを向いて、デカい眼がこっちを見てた。蛸の虹彩が俺を、見てた。ずるずる蛞蝓みたいにアスファルトを這いずって、俺を、まるで呑み込もうとしてるみたいに。


 そこからは啜り泣き。これ以上のまともな話は聞き取れそうもない。彼女は呆れた表情を隠そうともせずにどっかりとソファに背中を預ける。もういいんですか。いいよ、これ以上馬鹿に付き合ってたら脳が溶ける。先生、依頼者の前ですけど。形式でしかない嗜めは空虚すぎて、彼女の耳に入る前に空気中で霧散した。ので、これ以上の追及は止めることとする。再び無言で状況を見守るだけのマネキンに戻った僕は、じっと男の横顔を見つめた。

 血走った瞳は相変わらずだけど、視線はどこかを彷徨っている。夢遊病者のようだった。怪異に遭遇した人間の反応としては奇妙だ。大抵の依頼人は怯えたままにこの空間に迷い込んで、縋り付くように先生を見やる。けれど彼はまるでその正反対のようだ。怒り以外の感情がない。先生もその違和感には気づいているのだろう。こてりと不思議そうに首を傾げた彼女は、ソファに身体を投げ出して天井を見上げたままで口を開いた。


「……あー、で、きみはわたしに何をしてほしいんだっけ?」

「あの蛸を殺してくれ」

「凄いね、きみ」


 普通のこの現代日本に生きる人間は殺すだの、死ぬだのの言葉をタブーとして扱うんだけど、どうやらきみは違うらしいね。先生はわざとらしく足を組み替えると、わざとらしく息を吐いた。再び視線が男へと戻る。人間らしくない爬虫類の虹彩が依頼主をじっと見つめていた。今日の彼女は蛇の気分らしい。昨日は頭に一角獣の角が生えていて、おとといは羽が生えていた。依頼主が来る分、比較的マシな姿を演じてくれたのだろうか。いや、蛇の瞳ってマシな方か? しばらくここにいるせいで感覚が狂ってきた気がする。


 閑話休題。問題は目の前のハゲデブ親父である。


先生はうーん、と形式だけ躊躇って口をアヒルのように歪ませた。でもそれはあくまで形式だ。そもそも先生が依頼を受ける気がないなら、ハナからこの男はこの空間に迷い込まない。


 つまり、今までのこの会話はただの予定調和なのだ。もしくは先生の悪趣味な遊び。


 「仕方ないなあ。だってきみはもしわたしがこの依頼を受け入れなかったら、毎日怯えて眠ることすらできないんだろう? いつまたあの蛸が窓の隙間から手足を伸ばして首を抱き締めるかわからないんだから」

「あ、ああ! そうだ! そうだ、だから!」

「蛸の足で窒息プレイも悪くないかもしれないけど、如何せん素人にはね。いいよ、その女とはわたしが遊ぶ。――白くん」


 ああ、やっとお呼びがかかった。僕は3時間ぶりに、固まった身体をぎこちなくロボットのように動かす。乾いた眼球のせいで霞んだ視界に彼女を捉えて、ゆっくりと息をした。

 吸って、吐く。肺に空気を通して気道から喉を震わせ、声を出す。呼吸は2時間と13分ぶり。ひ、と声にならない悲鳴を込み上げた男は無視して、マネキンのように立ちすくんでいた壁から一歩前へと踏み出した。また男が悲鳴をあげる。うるさいなあ。まだ先生以外の生命体の音を聞くことには慣れていないのだ。いや、先生は生命体か?


「生命体だよ。きみと同じようにね。今だってちゃんと呼吸してるだろ」


 すうはあ、と見せつけるように空気を吐き出してみせる、けれど彼女のそれは人間の真似をあくまでしているだけなのではないかと思う。思うというか、確信だ。だって依頼主がいないときの彼女は文字通り人形のようにぴくりとも動かないのだから。


「こら、口答えするなよ」

「……してないですよ。くちは、動いていませんから」


 あなたが勝手に僕の内側を読み取っただけなのです。故に無罪。けれど彼女の御座すこの空間は現代日本とは違い法治国家ではないので、全ては暴君の思い定めるがままなのだ。判決、有罪。


 これ以上の罪状が加算されては堪らないので、慣れない足を引きずって男の前に立つ。腰が抜けたらしい。ソファからずり落ちて小さな子供のように身体を丸めた男は、僕の手が額に触れると、殺されるとでも思ったのかまた啜り泣いて鼻を鳴らした。


 ええと、こういう時はどうしたらいいんだっけ。来客対応用マニュアルの15pを思い浮かべる。来客があまりの恐怖に今にも気を失いそうなとき。

 

「だ、いじょうぶですよ。リラックスしましょう。僕の後に続いて深呼吸をしてください」


 ダメだ。15pは役に立たない。依然として男は声を震わせているし、額に触れている手のひらも男のあまりの恐怖のせいで壁を突破できず情報を掴めない。

 マニュアル、29p。それでもだめなとき。


「ふとんがふっとんだ」


 男の震えが止まった。というより硬直。何にせよ先程と反応が変化したということはいい傾向だと判断していいはずだ。29p、ほかの例に何があったか。


「アルミ缶の上にあるみかん」

「……」

「インドのカレーはかれ〜な」

「………………」

「うつくしいつくし」

「白くん、いつからそんなサイコーのセンスを手に入れたわけ?」

「マニュアルから抜粋しました。ダメでしたか?」

「ダメダメのダメ。これ以上そんなしょうもない言葉でこの部屋を汚染しないで」

 

 先生の冷たい視線と冷たい息が背後から突き刺さる。データベース更新。p29の3行目から8行目まで、失敗。どうやら役に立たない対処法だったらしいので脳内からその分の情報を消去しておく。先生とは違って僕は整理整頓はきちんとしておきたいタイプなのだ。ゴミはゴミ箱へ。一通りの処理をシナプスの間で錯綜させてから、さあ、再び相変わらず目の焦点が合っていない目の前の男へと意識を戻そう。先程のサイコーのギャグの効果かは分からないが、先程よりも更に正気度を失ったらしい男の脳みそへアクセスするのはそう難しくない。


ぐちり、と男の脳へーー記憶へ指先を伸ばす。記憶、夢、幻想、感性。物理的に触れることの出来るはずもない抽象概念を掴み取る。プライバシーの侵害、なんて言葉は知らない。非常事態なんだから多少の権利を侵害くらい見逃されて然るべきだし、そもそも僕たちを法律の言葉で縛ろうとする方がどうかしている。だってほら、法律よりも僕たちのほうがずっと長生きなわけだしさ。


 ぐるん、と男の瞳がひっくり返って白目を剥く。つまり成功。 

聞きたいことはたくさんある。事件解決の糸口に必要なのは明確な事実確認だ。故に、僕は男の脳内に雑多に整頓もされずに格納されていた情報の中に問いかける。


――時間、昨日の深夜23:12。

――場所、横浜駅西口より徒歩3分

――感情、恐怖

――深度、不明

――夢想、否定


ーーならば幻想?

――それすらも不明瞭


 ふむ、と口元を歪める。指先をやっと男の額から話せば、死にかけの海老のようにぴくぴくと身体が震わされる。が、どうでもいい。もういい、白くん?先生、口があるなら横着せずにちゃんと発声したらどうです?まだ耳朶に慣れていないいきみへの配慮だよ。

 嘆息。それからこてりと肯定の意を込めて頷けば、パチリと先生の指が鳴らされた。瞬間死にかけの男の身体はふわりと薄れ、空間から消え去っていく。事情聴取、終了。

 ぬるく怠惰の欠伸を吐いた先生は、無駄に長い足をひけらかすように組み替えた。


「で、所感はどうだい?白くん」

「僕の耳に配慮したって言ってませんでした?」

「耳もそうだが、きみは当然口を動かすことにも慣れなきゃいけないだろ。ほら、今からきみも外に行くんだし」

「……本当に行かないとダメですか?」

「なんのためにきみにその身体をあげたと思ってるんだ。探偵は座して待つ。情報は優秀な助手が持ってくる。現代の推理小説の流行りだよ」


 人間離れした白い指先がテーブルの上に雑然と重ねられたハードカバーをなぞる。先生は模倣が好きだ。そしてここ最近の模倣対象は、そのシリーズの中のとあるベーカー街の探偵らしい。ただし先生は探偵じゃないし僕は軍医ではないからあくまでもごっこ遊びの域を出ないのはご愛嬌だけど。

 が、しかし、もし彼女が某有名探偵の模倣を行いたいなら1点間違いを指摘しなければいけない。


「ねえ先生、シャーロック・ホームズは安楽椅子探偵じゃないんですよ」

「……きみも読んだの?」

「暇だったので。生憎記憶容量には空きがあるんです」


 事件は現場で起きているのである。先生が探偵を名乗りたいならば現場検証は必須のはず。というか今の僕に先生なしで外に出て行くなんて不可能だろう。まだこの身体の操縦にも全く慣れていないのだし。


「先生には監督責任があると思うんですよ。ほら、僕が外で何かとんでもないことをやらかしたら困るのは先生でしょ?」

「従順な部下だったきみはどこに行ったんだい」

「ワトソンはホームズの従順な下僕じゃないでしょう。先生のロールプレイに付き合ってあげてるんです。むしろ感謝されるべきでは?」

「はいはいきみの勝ち。……出発は2時間後。それまでに情報は纏めておいて」


 それから。と先生はふと思い出したように僕を見遣ると、瞼をとんとんと2回指先で弾いた。


「瞬き。ずっと忘れてる」


 ああ。だからあの男はああも恐怖に錯乱していたのか。これだから人間の身体は難しい。

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