世界一不幸な男
この世の終わりだ……みたいな顔をしている。アルバート様が。
え、なんで? と一瞬思ったけれど、アルバート様の額から流れる血を見てその考えはどこかに吹き飛んだ。慌てて駆け寄り、ハンカチを取り出して額を押える。
頭の中は混乱していた。
ご令嬢がシャンパングラスで殴りつけるという前代未聞の暴挙も、アルバート様が多分私を庇ったのだろう事実も、あり得なさすぎて目眩がするようだった。
「衛兵! 捕らえよ!」
殿下の鋭い声がして、いつの間に現れたのか衛兵がすかさず「そんなつもりでは」「手が滑って」と弁明している令嬢二人を後ろ手に縛った。
「だ、大丈夫ですか旦那様……!」
「問題ない。あなたは……随分と濡れてしまっているが、怪我は」
「わ、私は大丈夫ですけど……怪我をなさってるのは旦那様じゃないですか……!」
「かすり傷だ」
そう言うアルバート様はやっぱり夢も希望もない顔をしていて、全然大丈夫じゃなさそうだった。
しかし確かに傷は深くなさそうだ。出血も思ったほど多くはなく、大怪我にならなくてよかったと心底ホッとする。
「あ、あなた達っ……一体何をしているの!」
青ざめたルラヴィ様が、拘束されている令嬢二人に激しい剣幕を見せる。
「ルラヴィ様! 私たちは、ルラヴィ様を思って……これは違うんです! そのっ……アルバート様を傷つけようとしたわけじゃなく」
「私たちはただ、アルバート様に相応しいのはルラヴィ様だと田舎娘に教えようと……!」
「……っ、なんてことを……!」
「……信じられないな。貴族の模範となるべき侯爵家の令嬢が次期公爵夫人を侮辱し、害そうとした挙句次期公爵を傷つけるとは」
殿下の怒気を孕んだ冷たい声に、令嬢たちがヒッと言葉を失う。
「連れていけ。何の弁明も聞く気はない」
◇
結局私たちは舞踏会どころではなく、王城を後にすることにした。といっても侯爵令嬢が公爵家の嫡男を害するという前代未聞の事件が起こったので、舞踏会自体中止になってしまったのだけど。
「本当に、帰る前に医務室に寄らなくていいんですか?」
「ああ」
私はすぐにでも王城の医務室で手当してもらいたかったけれど、断固拒否のアルバート様の意思は固く仕方なく屋敷に帰って手当をすることにした。
馬車に乗り込むと、見送る殿下が物憂げな表情を見せた。
「王城でこんなことが起きるとは……悪かった。お前の怪我やヴィオラ嬢の……名誉も含めて、悪い噂にはならないように善処しよう」
「……感謝します。色々と」
「とりあえず屋敷に戻ったらすぐに手当をするように。ヴィオラ嬢……君もゆっくり休んでくれ。アルバートを頼んだ」
「はい。……ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
申し訳なくなって頭を下げると、殿下が微かに微笑んで「君が謝ることではない」と首を振った。
「今回の沙汰については決まり次第報告をする。……では、また」
殿下がそう言うと、馬車が走り出す。
けして穏やかではないガタゴトという振動が傷に響くのではとアルバート様を見ると、彼は物憂げに窓の外を眺めていた。
「あの……旦那様」
「なんだ」
アルバート様が、窓から視線を剥がし私を見つめ、青い瞳が月明かりにきらめいた。
綺麗な人だなあ。あらためてそう思いながら、私は口を開いた。
「庇ってくださって、ありがとうございました」
本当は謝りたかった。
悪いのは彼女たちだし、私は間違ったことは言ってないし、むしろまだ言い足りない。だけど人の目につかないところで感情のままに言い返すのは悪手だったのだろう。
私が冷静に対応していたら、きっと彼女が手を振り上げることはなく、アルバート様が怪我をすることもなかったはずだ。
ただ私が謝ったら、アルバート様への暴言も話さざるを得ないだろう。
もしかしたら耳に入ってしまったかもしれないけれど、できることならあんな馬鹿馬鹿しいセリフは誰の耳にも入れたくなかった。
「君は……」
「はい」
「いや……何でもない」
アルバート様が首を振り、何かに気づいたように私の顔をじっと見た。
「……少し顔色が悪くないか? どこか怪我を?」
「あー……お酒の匂いと、馬車の揺れで乗り物酔いしたようで……大したことはないです」
馬車酔いするのも無理はないと思う。
なんせ私もアルバート様も、今ぷんぷんと全身が酒臭い。先ほどシャンパンを頭からかぶったせいだ。
色んなところがベタベタするし、シャンパンがかかったのが頭ということもありダイレクトに鼻にくる。というかこのお酒、香りからして割と強いんじゃないだろうか……。
しかし私の代わりに流血したアルバート様の前で具合が悪いです! とは言い辛かったので黙っていた。
「……一度馬車を止めて外に出ようか。それとも早く屋敷に帰り湯浴みをしたほうが良いのか……?」
「いえ、全然お気になさらず! 旦那様のお怪我に比べたらどうってことは……。あ、でも、もしも旦那様も臭いが気になるようでしたら止めましょう! でも傷の痛みの方がお辛いのならば、急いで帰りましょう!」
どちらにせよ、王城から公爵家まではそんなに遠くない。あと二十分もあればついてしまう距離なのだから、頑張って気を紛らわせていれば少なくとも吐くことはないと思う。
「私はどちらも平気だ」
そういつもの無表情で言い放つ彼は、確かに平気そうな顔をしている。
絶対痛いに決まってる。それに絶対臭いと思う。
「お酒の臭いは鼻が慣れてしまったのだとしても、怪我をなさって痛くないわけないじゃないですか」
私がそう言うと、彼は気まずそうに「……本当に、気にしなくていい」と言った。
「そんなわけには……。旦那様が痛みを感じないとか、匂いを感じないのでしたら別ですが」
「……!」
私が何の気なしに言った冗談に、アルバート様は大きな瞳を見開き、激しく動揺した。
その反応に驚いてどうしたのかと問おうとした時、何となく今まで過ごしてきた中でのアルバート様の様子を思いだして、まさかと思う。
「……旦那様、まさか本当に、痛みや匂いを感じないのですか……?」
「…………」
「もしかして味覚も……」
私の問いに、旦那様は躊躇いながら頷いた。
◇
「今、自分から酒の匂いがするのはわかる。怪我をした部分が熱く、痛みを訴えているということもわかる。感覚が損なわれたわけではなく……快・不快の判断がつかない、といった方が良いかもしれない」
そう話すアルバート様は、淡々と自身が感じないものを教えてくれた。
味覚・痛覚・嗅覚・聴覚、その他諸々、目に映るものから得られる情報。
五感は感じるけれども、それを喜びや悲しみや感動として受け取る情緒が機能していないようだった。
「それは、なぜですか? いつ頃から……」
「……あまり、覚えてはいないな。ただ私はこれはこれで便利だと思っている。特段あなたが気にするべきことではない」
アルバート様はこれ以上この話題に触れてほしくなさそうで、「ひとまず馬車を止めさせて休憩しようか」と話を逸らした。
しかし私の馬車酔いなど、この衝撃の事実の前には吹っ飛んでしまった。
「……旦那様。感覚は、絶対に取り戻すべきものです」
私の言葉に、アルバート様が眉根を寄せる。
「私は困ってはないし、君が気にすることではーー」
「朝早くから夜遅くまで仕事を頑張っているのに、何の楽しみもない人生なんて生き地獄ではないですか……!」
考えただけで泣けてくる。
そりゃあ拗らせる。拗らせるに決まってる。私なんてこの一ヵ月半、食べ物が制限されただけで世界が灰色になったような心地だったのに。
私はこの気の毒な旦那様の手を強く握り、やや引き気味の彼にずいっと迫って口を開いた。
「私が、感覚を取り戻すお手伝いを致します!」
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