第6話 この子のために副業を

 ジュージューと何かが焼ける音でイーリスは目を覚ました。彼女がベッドから起き上がるとアルドが台所に立って料理していた。


「お父さん。おはよー」


「ああ、イーリス。おはよう。今、朝ごはん作ってるからちょっと待っててな」


「はーい」


 父親より早く起きなければならない。遅く起きただけで怯えていた少女の姿はもうない。朝、起きて普通に親子の会話をする。そんな当たり前の日常がこの家庭にはある。


 アルドは目の前の焼いている途中の目玉焼きを見て考え込んでいる。イーリスの好みの焼き加減はどんな感じだったんだろう。


 おぼろげながら覚えている記憶では、娘は半熟が好きだった記憶がある。だから、黄味が半熟のままトーストの上に目玉焼きを乗せた。


「ほら、イーリス」


「わあ、いただきます」


 少し前までの父親は絶対に料理なんて作らなかった。それが、こうして自分のために料理を作ってくれる。イーリスはそれがたまらなく嬉しかった。


 でも、なぜかイーリスは少し不満気な表情をする。


「どうした? イーリス。これ嫌いだったか?」


「あ、ううん。違うの。好きなんだけど……」


 イーリスがなにか言い淀んでいる。そこでアルドは察した。


「あ、すまん。半熟は苦手だったか?」


 イーリスは申し訳なさそうにコクリと頷いた。アルドは自身の右手を額に当てて苦い顔をする。


「あちゃー。すまない。ちゃんと好みを聞けば良かったな」


 記憶喪失の身なのに、不確かな記憶で娘の好みを勝手に決めつけたことを反省したアルドは再び台所に向かおうとする。


「待って、お父さん!」


 イーリスはアルドを制止した。そして、目の前の目玉焼きトーストを両手で持って、パクリとカぶり付いた。


「イーリス!?」


「うん、美味しいよ。お父さんが作ってくれたものだもん!」


 イーリスは歯を見せてニコっと笑った。アルドはそれを見て心が救われた気持ちになった。


 しかし、イーリスは完熟の方が好きだった。でも、どうして、アルドの記憶では娘は半熟が好きというおぼろげな情報があったのか。それは今の彼には理解できないことだ。


「ごめんな、イーリス」


「ううん。いいの。お父さんは料理をしたことなんてなかったのに、それでも私のために作ってくれて嬉しかった」


 その言葉にアルドの目頭が熱くなった。記憶をなくす前のアルドとイーリスの間に何があったのか、それは、今のアルドにはわからない。イーリスに無理に訊こうとすると嫌なことを思い出させてしまうかもしれない。だから訊けない。


 でも、その分アルドは今のイーリスのことを精一杯可愛がろうと決めたのだ。


「そう言えば、イーリスは昼間は何をしているんだ?」


「昼間?」


 イーリスが小首を傾げてきょとんとした顔をする。


「そう、僕が日中、仕事で出かけている間のことだ。1人で退屈じゃないのか?」


「うーん。大丈夫だよ。お父さん。私は本を読んでいるから」


 ニコっと笑うイーリス。アルドは今まで自分がいない間にイーリスが何をしているのか一切興味を示さなかった。だから、自分のことについて尋ねられるのが、興味を持たれているのが、嬉しかった。自分の存在価値を認めてくれていると感じられるのだ。


「本? どんな本なんだ?」


 更にアルドが質問する。イーリスは心を躍らせながら、本棚からボロボロの児童書を持ってきてアルドに見せた。


「これ!」


 イーリスから児童書を受け取ったアルドはその本を観察する。本の角がボロボロと削られていて丸まっている、ところどころ傷が目立ち、本のページも日に焼けているし、保存状態が良いとは言えない。


「この本をずっと読んでいるのか?」


「うん。だって、お父さんが買ってくれた本だもん! へへ、これが1番新しいやつなんだよ。他の本は……もう読めなくなっちゃった」


 その言葉にアルドは切なくなった。この本の状態を見れば、イーリスが本を読み返した回数が数えきれないほどだってことがわかる。そして日の焼け具合。これも1年2年の経過でこうなるものではない。明らかに5年以上は経っている。


 その間、アルドは1度もイーリスに本を買い与えていないということだ。これより古く買い与えた本が読めなくなるくらい、ボロボロになる程にイーリスは本を読み返している。


「イーリス……本は好きか?」


「うん!」


「そっか。それじゃあ、本を買いにいこうか」


「良いの?」


 イーリスが目を輝かせる。もうアルドからは本を買い与えられないと思っていただけに、この提案はイーリスにとってとても魅力的なものだった。


「ああ。この本はシリーズものだろ? 続きが気になるんじゃないのか」


「うん!」


 アルドはイーリスに本を買い与えることを決心した。新刊が延々と読めなかったイーリスとまともな親子関係が築けなかったアルド。本を買い与えることで、その2つの止まった時を動かそうと言うのだ。



 本屋に向かうアルドとイーリス。イーリスはアルドに買ってもらった服を着てアルドと手を繋いでいる。その時、アルドはイーリスの歩みに違和感を覚えた。すぐにその違和感の正体に気づいた。


「イーリス。靴もボロボロだな」


「うん。あんまり外に出ないけど、それでもボロボロになっちゃうよね」


「なんか窮屈そうだな」


「うん。ちょっと足が痛い」


 イーリスはまだ子供である。成長と共に足が大きくなり、今の靴とサイズが合わなくなるのは当たり前のことである。


「本を買う前に靴も買うか?」


「うん!」


 靴屋に向かい、イーリスは新しい靴を買った。イーリスのサイズにピッタリとあう黒いフォーマルシューズだ。


「どう? お父さん。可愛い?」


「ああ。可愛いよ」


 アルドはイーリスに笑顔を向けた。しかし、彼女が見てないところ、その裏ではある物を見てちょっと渋い顔をする。


「それじゃあ、本屋に行こうか」


 アルドの声は少し震えている。そんなちょっとした変化にも気づかないくらいに浮かれているイーリス。アルドと手を繋いで上機嫌に鼻歌を歌いながら、新品の靴に相応しい軽やかな足取りで本屋へと向かった。


「えっと、このシリーズは……うげ」


 アルドは本棚を見て口をぽかーんと開けた。だが、それに対してイーリスは嬉しそうに笑っている。


「わあ、続きがこんなに出ている!」


 アルドが想定していた以上にイーリスが持っている巻より多くの新刊が出ていた。これだけの本が読めると思っているイーリスは、天にも昇るような気持ちだった。


「イーリス。その、1度に全部買わなくても良いんじゃないのか?」


「え?」


 露骨に眉を下げて悲しそうな顔をするイーリス。その瞳が潤んでいて、アルドはその視線を向けられると一気に罪悪感を覚えた。


「全部欲しいのか?」


「うん!」


 アルドは財布の中身を確認した。先ほど、確認した時も渋い顔をせざるを得なかった金額しか入ってない。一応は、児童書の新刊を買える分はある。しかし、これからの生活が厳しくなる。少なくとも、仕事帰りに1杯という概念がなくなるほどである。


 しかし、娘の悲しい顔は見たくない。今まで、苦労してきたであろうイーリスのことを想うと、仕事帰りの1杯なんて軽いものである。


「ああ。わかったよ。その代わり、ちゃんと大切に読んでくれよ」


「わーい、お父さん大好きー」


 イーリスのその言葉がアルドの胸に突き刺さった。計算だとかそういうものが一切感じられない純粋な好意。それが自分に向けられてアルドは幸せホルモンがドバドバと出た。


 それはもう仕方のないことである。可愛い娘にこんなこと言われてクールを気取れる父親なんていないのだ。これはもう全巻買わざるを得なかった。


 本屋の帰り。アルドはやせ細った財布を見ながら、今後の生活を考えた。イーリスのためのお金は削ることはできない。今後、女の子はもっとお金がかかることが想定される。今のままの給料だとイーリスに満足な生活をさせられないかもしれない。


「よし、副業しよう」

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