第4話 警戒心消失

 服装も小奇麗になり、髪も整ったイーリスは、顔色の悪さや少しやせ気味なのを除けば、愛らしい少女の姿へと変貌した。元のボサボサの髪やボロボロの服を着ていた時と比べたら見違えている。


「お父さん。これからどこに行くの?」


 アルドの隣を歩ているイーリスは恐る恐る訊いてくる。アルドは晴天の空を見上げた。


「そうだな。そろそろ昼時だし、どこかで食事でもしようか」


 アルドの傍を付いていくイーリス。アルドはイーリスの歩く速度に合わせながら歩幅を調整する。イーリスがはぐれないように手を繋ぎたいが、イーリスはまだ心のどこかでアルドを警戒しているようなので、アルドはそれを諦めた。


 その代わりにしっかりと見張っておくことでイーリスをカフェへと連れて行った。


「イーリス。なんでも好きなものを頼んでもいいよ」


「えっと……えっと……」


 イーリスはメニューを見てきょろきょろとしている。こういうのに不慣れからかかなり迷っている様子だとアルドは推測した。


「まあ、じっくり選んでくれ」


 アルドはイーリスがメニューを決めるまで待つつもりでいた。しかし、イーリスは一向にメニューを決める様子を見せない。メニューの写真を見てきょろきょろとしているだけで、自分で決める勇気を持てないのだ。


「あう……ごめんなさい」


 イーリスはアルドを待たせてしまっていると思って、慌ててしまう。しかし、慌てれば慌てる程に冷静な判断力ができなくなってしまう。


「こ、これを……」


 イーリスが指さしたものは……アルコール飲料だった。


「イーリス。それは子供には飲めないお酒だよ」


「あ、ご、ごめんなさい。お父さん」


「慌てなくても良いからね。イーリスは何を食べたい?」


「えっと、その……何が良いんだろう……」


 今までロクな食べ物を与えられてこなかったイーリスに、カフェで料理のメニューを注文するのは難易度が高いことだった。だが、アルドは苛立たずにそっとイーリスに寄り添った。


「それじゃあ、質問を変えようか。こっちのピザとパスタだったら、どっちを食べたい」


「えっと、ピザの方が美味しそうだと思う」


「それじゃあ、ピザとパンケーキだったら?」


「パンケーキ!」


 イーリスの目が輝いた。その瞬間をアルドは見逃さずに、にやりと口角をあげた。


「よし、それじゃあ。イーリスの分はパンケーキにしようか」


 アルドは店員を呼んで、料理を注文した。自分はパスタとコーヒーを、イーリスにはパンケーキとオレンジジュースを注文した。


 料理が運ばれてきて、イーリスがパンケーキを食べる。ナイフとフォークを使って、パンケーキを切り、それを口に含んで目を閉じて口元を緩ませた。


 その幸せそうな顔を見て、アルドもにっこりと微笑む。娘の幸せそうな笑顔がアルドにも幸せのお裾分けをした。


「どうだ? 美味しいか?」


「うん、パパ。ありがとう」


 それは満面の笑みだった。アルドはそれを見て、ある種の達成感を得た。少しずつ少しずつイーリスの凍てついた心を溶かしていく実感はあったが、この食事で一気に距離感が縮まった気がした。


 もう少し、後一押しで普通の親子のような関係になれる。そう思ったアルドはついにあの告白をすることにした。


「イーリス。昨日からの僕、少し変だと思わないか?」


「え?」


「実はね。僕……頭を殴られてから記憶がないんだ」


「そうなんだ……」


 アルドは自分が記憶喪失であることを告げたら、娘のイーリスが自分を忘れられていたことにショックを覚えると思っていた。しかし、イーリスの反応を見るに、どうもそんな感じではない。イーリスから見てアルドは恐怖の対象でしかなかった。


 その恐怖を取り除くためには、その恐怖の存在がもういないことを伝えるしかない。


「大丈夫。お父さんは変じゃないよ! 優しいよ!」


 イーリスが精いっぱいの答えをする。彼女からしたら、前までの父親よりも今の父親の方がずっとずっと好きなのである。その好きな父親を受け入れない理由などなかった。


「本当かい? でも、僕がもし少しでも変なことをしたら言って欲しいんだ。僕はキミの父親になりたい。形だけじゃなくて、本当に理想的で良い父親に」


 アルドの真っすぐな目。それは嘘を言っているようには聞こえなかった。この父親なら信じられる。イーリスは心の底からそう思った。


「うん……私、今のお父さん好き」


 "今の”。その言葉にアルドはやはり引っ掛かりを覚えた。推測でしかなかったアルドがイーリスを虐待していたという仮説。それが真実味を帯びてきた。


「ごめん。イーリス。昔の僕はダメなお父さんみたいだったんだね」


「そんなこと……」


 イーリスは否定しかけたけれど、否定できなかった。イーリスにとって、アルドは本当にダメな父親だった。それでも、父親は優しい時期があったし、親としてのじょうもあった。イーリスはいつかは自分が父親に認められるんじゃないかと、悪いのは自分ではないかと自責の念を持って、父親に接していた。


 ある意味では、父親という存在に対する依存。それがあったが故にイーリスはアルドから逃げ出せなかった。


 それがこうして、今のアルドは自分の存在を認めてくれている。イーリスにとってはそれが最高の喜びだった。


「イーリス。過去は辛いことがいっぱいあって振り返りたくないよな。だったら、今は楽しい話をしよう。未来の話をしよう。イーリスは将来、どんな大人になりたい?」


「えっと……魔法使いになりたい!」


「あはは。魔法使いか。なれるといいな」


 アルドは娘の夢を微笑ましく思った。アルドの常識では魔法というものは存在しない。だが、違う。この世界には魔法があるのだ。だから、イーリスの夢は決して叶わないものではない。


「ねえ。お父さん。私が魔法使いになれたら、お願いを1つ聞いてくれる?」


「ん? ああ。いいよ。なんでも聞いてあげるよ」


「やったー」


 イーリスは目を細めて座ったまま上半身を揺らした。喜びの舞の表現をして、アルドはそれを見て微笑ましく笑う。


「それで、どんなお願いなんだ?」


「んー。魔法使いになるまで内緒!」


 イーリスは無邪気に笑った。



 カフェで食事を終えたアルドたちは、会計を済ませて帰路へとついた。


 アルドの隣を歩くイーリス。彼女は少しもじもじとして照れている。なにかを訴えかけたいようだが、子供故にその気持ちが上手く伝えられない。


 イーリスがアルドに向かって手を差し出そうとしては引っ込める。それを数回繰り返した。アルドはそれでようやく、イーリスの意図に気づいた。


 アルドがイーリスに向かって手を差し出す。イーリスはそれを見て、目を見開いて輝かせた。そのままアルドの手をとり、彼の手をぎゅっと握った。


「えへへー」


 イーリスはそれ以上何も言わなかった。手をぶん、ぶんと大きく振りながら、アルドと手を繋げた喜びを体で表現した。


 アルドは確信した。もうイーリスは大丈夫だと。まだ完全に虐待の傷跡が癒えたわけではない。それどころか、1度負った心の傷は一生残ることだってありえる。


 それでも、こうして、イーリスは今の自分に心を開いてくれた。信頼してくれた。その信頼を絶対に裏切らないように、アルドは良い父親であろうと心の中で強く硬く決心するのであった。


「さあ、家に着いたぞ。イーリス」


「うん! ただいまー!」


 誰もいない自宅に向かって「ただいま」と言うイーリス。アルドも続いて「ただいま」と言い、2人は真に心が安らげる住処へと帰宅したのだった。


 こうして、この2人の新たなる生活が始まった。今まで辛い思いをしてきたイーリス。それがこれから幸せに向かって歩き出す。そんな物語がこれから紡がれるのだ。


—―――――


作者です。

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