第1話 胸糞父親の意識は死にました

 カビのにおい、アル中の男たちの奇声、目を閉じていてもここが地獄だとわかる街。日雇い労働者向けの宿泊施設が大量にある街で中流家庭もそこそこある。だが、近くにスラム街があり、治安の悪さもあり世間から実質的にスラム街と扱われているようなところ。そこに1人の少女がいた。


 少女の名はイーリス。年齢は9歳。伸びきってボサボサになった汚らしい金髪。ガリガリにやせ細った体に雑巾のようなボロの布切れを身に纏っていて、とてもキレイな少女とは言えない。彼女の唯一の綺麗なところと言えば、吸い込まれそうなエメラルド色の目。


 その少女は、父親に髪を掴まれていた。


「てめえ! どういうことだ!」


 酒瓶を片手に父親は少女の髪を振り回す。元々、目つきが悪い目を更に睨みつけて少女を威嚇する。


「や、やめて。お父さん」


「父さんなんて呼ぶんじゃねえ! 俺はお前と血が繋がってねえんだよ!」


 イーリスは父親と血が繋がっていないのは真実ではない。彼女はイーリスの父親とその妻の間に生まれた子供だ。それは間違いない。しかし、妻が妊娠する前にとある男性と関係を持っていた。そのせいで、父親はイーリスが実の娘ではないと思い込んでいる。


 イーリスの母親は、イーリスを置いて間男の元に逃げた。残されたイーリスに怒りの全てをぶつける父親。少女であるイーリスが成人男性に力で敵うはずがなく、今日も理不尽に乱暴をされてしまう。


 イーリスの父親はとても狡猾で、彼女に殴る蹴る等、体に傷が残る攻撃を一切しなかった。体に傷が残らない程度に痛めつけているので、イーリスが虐待されている事実が中々に表に出ない。


「うぅ……お母さん」


 イーリスは泣きながら母親を想った。父親はそれに腹を立てて、手にしていた酒瓶を壁へと投げつけた。パリーンと景気よく割れるガラス。その音でイーリスはビクっと震えてしまう。


「てめえの母親は! 男と一緒に逃げた最低のアバズレなんだよ! いいか? お前は母親に捨てられたんだ。お前の母親はクズだ。クズから生まれたお前もクズだ。誰もてめーのことなんか愛しちゃくれねえんだよ!」


「うわぁあああ! お母さああぁああん!」


 イーリスは泣き続ける。しかし、泣く度に父親がイーリスに乱暴をする。結果、イーリスの涙が枯れるまでに彼女は物理的に振り回されるのであった。



「よお、アルド。イーリスちゃんは元気しているか?」


 酒場にて話しかけて来るのは、そこの常連客。イーリスの父親アルドとも顔見知りの酒臭い男性である。


「元気っていうか、まあ、あいつは病弱だからな。ははは。その分、俺が稼いでやらないとなあ」


「なに言ってんだ。お前、酒飲んでいる金があったらイーリスちゃんに服の1つでもプレゼントしてやりゃいいだろ?」


「ははは。酒場で酒飲むなって話をすんじゃねえ。それは野暮ってもんだ」


 気の置けない仲間と楽しそうに笑うアルド。イーリスに見せる態度とは180度違う。


 椅子にふんぞり返るアルド。その動作で丁度、真後ろにいた目が虚ろな浮浪者風の男性にぶつかってしまった。


「おっと悪い」


 アルドはすぐにぶつかった男性に謝った。しかし、男性は虚ろな目でぶつぶつと呪詛のようなものをつぶやいている。


「あ、な、なんだ? こいつ。気味悪いな」


 アルドが思わず口にしてしまう。


「ぶつぶつぶつぶつ……お前が……お前が全ての元凶……お前が……お前がああ!」


 浮浪者風の男性はテーブルの上にあった酒瓶を手にしてアルドの頭に思いきり叩きつけた。


「がは……」


 アルドの視界がブラックアウトする。数秒間、意識が飛んだ後に辛うじて意識を取り戻した……が、その意識すらもうろうとしている。


「わ、わあ! だ、誰か! マスター! 喧嘩だ! アルドがやられちまった」


「あ……あ……」


 アルドはなんとか意識を保とうと指先を動かそうとする。しかし、その指も上手く動かせずに目の前のものすらつかめない。段々と薄れゆく意識の中でアルドが思うことはなんだったのか。それはもうこの世の誰にもわからない。なぜならば、アルドの意識はここで終わったから。2度と戻らない意識の持ち主が最後に思うことは誰にもわかるはずがないのだ。



「っ……」


 とある男性は目を覚ました。ズキズキと痛む頭を抑える。目を覚ますと白いベッド、白いカーテン、目の前には白い衣服の男性。


「目が覚めたかね?」


「あ、あの……」


 男性は周囲を見回した。今は何時? ここはどこ? あなたは誰? 色々な疑問が頭の中を駆け巡るも、まず思い浮かんだ疑問が1つ。


「僕は一体誰なんでしょう」


「ふむ。可哀想に……記憶がないんだな」


「記憶……? うっ」


 男性の頭が再びズキリと痛む。男性は手で頭を抑えて目を閉じる。


「無理もない。あれだけ頭を強打したんだ。記憶の1つや2つ飛んでもおかしくない」


「あ、ぼ、僕は……どうして生きているんだ」


 男性は両手で頭を抱えてうなだれた。そのまま、ぶつぶつと何かを話しているものの、その内容は男性自身認識していない。


「私は医者だ。あんたは酒場で頭を殴られて気を失った」


「そ、そうなんですか?」


「ああ。あんたの名はアルド。なにかピンとくるものがあるか?」


「いえ……全く……でも、僕の名前はアルドではない。それだけはわかっています」


 男性はそう発言した後に首を捻った。自分の名前すら思い出せないのに、名前がアルドではないと不思議と断言してしまった。


「記憶が混乱しているようだね。あんたには娘がいる。それは覚えているか?」


「娘……いえ。僕の娘は妻と共に死にました。そして、僕も後を追って死んだはずです」


 男性はベッドのシーツをぎゅっと掴んだ。そして、唇も同様に噛みしめる。その様子を見て言者はため息をついた。


「ダメだな。これは相当、重症のようだ。まあ、しばらく経過を見て大丈夫そうなら家に帰りなさい。家に帰れば思い出すものもあるでしょう」


「あのう……僕の家ってどこなんでしょう?」


「はあ……ツレに連絡してあげるから、彼に案内してもらいなさい」


 男性はしばらく病院にて休息を取った。段々と自分の名前がアルドであることを受け入れて、自我を取り戻していく。やがて、医者も記憶に一部の混乱があると診断するものの、肉体的には問題がないからと退院することとなった。


 酒場で会った顔見知りの男性がアルドを迎えに来た。


「いやあ、アルド。驚いたよ。まさか、お前が記憶を失うなんてな」


「あ、あの……僕の知り合いですか?」


「ははは。俺の顔も忘れちまったのかよ。まあいいや。帰るぞ。イーリスちゃんも心配しているだろうよ」


「はい……」


 顔見知りの男性はアルドの背中をバシっと叩いた。


「いた」


「おいおい、そんな気持ち悪い敬語使うなよ。俺とお前の中じゃねえか」


「ん。うん。これでいいかな?」


「うーん、ちょっと違和感あるけど記憶なくしているならしょうがないか。まあ、とにかくイーリスちゃんのところに帰るぞ」


 アルドは顔見知りの男性に連れられてスラム街を歩いていく。ひどいにおいに顔をしかめながら、ゴロツキ共の喧嘩にびくつきながらも、なんとか自宅についた。


「ここがお前の家だ。じゃあな。イーリスちゃんによろしくな」


「う、うん。ありがとう」


 顔見知りの男性は「帰って飲み直そう」って言いながら去って行った。


 ここがアルドの自宅。アルドはその記憶がない。ごくりと生唾を飲んで、アルドは自宅のドアを開けた。


 ギイイと木造のドアが開く音がする。その音にビクっと反応した少女が家の奥にいた。


「あっ……あっ……」


 イーリスはアルドが帰宅した音に怯えてぶるぶると震えている。数日間いなくて、平和な日常を過ごしていただけに、その平穏が終わりを告げる。そう思っていた。


 アルドはそんなイーリスの姿を見てにっこりと笑いかけた。


「ただいま」

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