第8話 Smoke on the water
我はハイデスアの湖畔
ブラダガム帝国の王都ハイデスア。
皇帝執務室の窓の外では、チャンジャブール市場を市民が行きかう。
その傍らに広大に横たわる湖には渾渾と水が流れ込む。
移り変わろうとする時代の流れのようだ。
「空、一点の曇りなし」
執務室に1人、泰然自若と天空を見つめてモルトはつぶやいた。
「皇帝閣下、失礼致します。
ジュゼ=フ・シードル最高司令官補佐でございます」
男が、2人の付き人とともに部屋に入る。
林檎のような真紅の瞳に、猫のような瞳孔。
前わけの闇夜より漆黒の長髪は、腰のあたりで束ねてある。
その様子は仰々しいマントと併せて吸血鬼のようだ。
「して、首尾は」
モルトは威厳ある大きな背中を見せたまま、振り返ることもない。
「ご多忙たる帝国軍最高司令官に代わり、私よりご報告させていただきます。
帝国東端ですが、エムル様が指揮のもとに国境線を突破。
その後、九重共和国中枢へ向けて戦線を伸ばしております」
シードルが言葉を止めると同時にモルトが振り返る。
「バカ息子め……、だから青いと言うのだ。
戦線を引き返すよう通達しろ。
あまり少数の小隊のみで戦線を拡大したところで、ついてくる兵士の疲弊を招く。
己の功を焦って突出したところで、それはただの猪よ」
「ハッ、即座に通達を出します。
時に、先に報告のあった共和国特殊部隊……『カンナギ隊』への攻撃ですが。
現在、報告をもとに手筈通りでございます」
「このまま海へ、か?」
「はい、既にヴラドミール・ラインハルト中将を配置しております」
淡々とした様子で、モルトの問いにシードルが答える。
「ラインハルトの指揮下で果たしてカンナギ隊とやらを壊滅出来るのかね」
「万全に、とは言い兼ねます」
その言葉にモルトは顔を顰める。
察するところ、確実に勝機があると答えなかったことに不安を感じているのだろう。
敏感に察知した吸血鬼は、真剣な顔から柔らかな笑顔に変わる。
更に両手のひらを前に軽く出して説明を続ける。
「ですが、閣下。
物事に99%はあれど100%は無いゆえ…。
閣下が皇帝に即位するにあたり、張り巡らせた策も綱渡りのものはゼロでしたでしょうか?
いえ、おそらく賭けに近い策もあったでしょう。
その綱渡りを成功させたのは、閣下が他の者より女神に選ばれし有能だったゆえです」
「つまり、万が一のことがあった場合は」
「はい、ラインハルトが選ばれた存在では無かったということでございます。
何故なら彼は元々……」
もうよい、とモルト。
「少なくとも穢れた共和国の精鋭が多く逝くことに変わりはない。
現状のまま作戦を続けろ」
「ハッ、それでは失礼いたします」
「待ちたまえ」
踵を返したシードルの動きが止まる。
「我々に"きっかけ"を与えた、青年将校を撃った亜人の処遇はどのように」
一瞬の沈黙ののち、口元のみを動かして
「表上は死刑に処しております。
当人は、地下に幽閉し高待遇の元ぶくぶくと」
それだけを伝え、扉を閉める。
と、同時に先ほどの柔和な笑みは既に赤より紅い冷たい瞳になっていた。
「カール少将、ラインハルト中将に伝えてください。
『空征くなまくら刀を、伊忌島に必ず沈めよ』と」
「ハッ、早速」
カール・ヴァルドーズ少将が即応する。
「あぁ、この際だ。アプフェル。
敵の量産機より得た『太極図システム』とかいうシステムを適切に扱えた者の血液検査を実施してくれないか?」
「そ、それは何故でしょうか?」
アプフェル・ルージュ少将がキョトンとする。
それを受けてやれやれ、といった顔をしながらシードルは応える。
「あなたねえ……、このシステムをもっと汎用化するためですよ。
市政の人間が扱えれば民も兵士となりますし、小型化・改良次第では小型学習端末にもできます。
そのために、個体ごとのブレが何に起因するのかを、生理学的に比較することが大事でしょう」
最もらしい説明で、アプフェルを納得させようとする。
「な、なんとなく分かりました。
では早速研究所に手配を」
ありがとう、の意を込めた笑顔がアプフェルに向けられた。
「私より、ひとつ疑問点があります」
「不明点を残したままでは、オペレーションミスになりますからね。
カール、なんだい」
カールが唐突に疑問点を述べ始める。
「なぜあの亜人を丁重に?
金をかけずとも、毒殺などで殺せば死刑という嘘や綻びは出ないのではないでしょうか」
一寸、間を置いた後に2人に振り向きおどけたようにシードルは話し出す。
「さぁ?彼にも女神の祝福があったからでは?
私にも分かりかねるな」
カールとアプフェルはその真意を理解しかねる様子であった。
……これは全て賭けですよ、皇帝。
誰の手に女神の祝福が降り注ぐのか。
帝国湖上の蒼穹に、一欠片の白雲がどこからか、煙のように流れてくるのであった。
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