第四十一話 それから
季節は九月の終わり頃。空は今日も青く透き通っていた。
通学路の脇には
同じ制服を着た高校生が次々と校門を通り抜けていく。
数名の生徒が小走りで自分を追い越していくので、脳裏に一抹の不安が過ぎった私は腕につけた時計をチラリと見やった。
(まだ大丈夫)
予鈴が鳴るまであと十分ある。
周りの生徒が次々と自分を追い越していく中、校庭に足を踏み入れた私はふと立ち止まり、空を見上げた。
(……大丈夫だよ)
秋晴れの空はいつもより高くて、広いキャンバスの中でゆったりと絹のような雲が繊維を広げている。
透き通った空を見上げながら、
――私はスゥ、と深く息を吸い込んだ。
校庭に咲いた金木犀の甘い香りが、肺いっぱいに広がっていく。
隣に佇む死神が心配そうに私の顔を覗き込むので、私は「涼しいから冬服もちょうど良くなってきたね」と笑ってみせた。
気がつけば周囲には誰一人として生徒の姿はなくなっていた。
最後に校庭に残された私は、死神と二人、教室に足を運んだ。
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第四十一話 それから
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教室の扉を開けると、懐かしい光景が広がっていた。
窓際の席にたむろする友人達は今日も楽しそうに会話を弾ませている。一週間会わなかっただけなのに随分と久し振りな気がするのは何故だろう。
教室の一番前、窓際の席へと向かう。後光の差し込んだ彼女達のシルエットは眩し過ぎて、気がつけば私は目を逸らしていた。
「おはよう、未玖」
親友の柔らかい声に、私はいつものように「おはよう」と返した。
咄嗟に取り繕った笑顔が、一瞬だけぎこちなくなってしまった。
一番前の席に学生鞄を置くと、満咲は「未玖は相変わらずいつも遅刻ギリギリだね」とつけ加えてから悪戯っぽく笑みを浮かべた。
続いて背後から強い衝撃に襲われたかと思えば、当の犯人は実に楽しそうに声を転がせている。
「やっと学校来たな。待ってたぞ~、未玖」
意地悪そうに笑いながら私を羽交い締めする声の主には覚えしかない。
私は脳裏に金髪交じりの眼鏡女子の姿を思い浮かべながら、必死で抵抗の意を示した。因みに満咲はというと、親友の窮地にも拘わらず目の前で実に穏やかな微笑みを湛えている。
「心配したぞこの〜」
「いたたた、痛いよ花。心配してくださるならもっと労わってくれても良いんじゃ……」
あと、満咲は笑ってないで止めに入ろうか。
「まあまあ。君は芸術的に打たれ強いんだからいいじゃないか」
「どういうこと!」
どうやら労りの心が足りないね?
「花ちゃん……いくら未玖でも、それは可哀想だよ……?」
「ありがとう、満さ……」
「やるなら、ほら。ちゃんとくすぐってあげなきゃ。……ね?」
この満面の笑みですよ。
「あはは、花、満咲、くるし……ほら、チャイム鳴ってる! 鳴ってるから!」
なお、この後私には、担任である鼻眼鏡大先生より数学の抜き打ちテストの追試宣告がなされたのだが、その時の顔に若干の薄笑いが含まれていたことも、いつも通りであった。
☆★☆
放課後。
補習室で追試を受け終わった頃には既に日が傾いていて、西陽の差し込む教室には誰の姿もなかった。
玄関口まで降り、下足室のロッカーに手を掛ける。放課後の部活動中だろうか、運動着に着替えた生徒達がぞろぞろと背中を通り過ぎていった。
鉄製の扉を開けると、革靴の上に「屋上にて待つ。」と書かれた紙が添えられていた。
(この達筆は……花だな)
今日は演劇部は休みのはず。とっくに帰ったものだと思ったけれど、わざわざ私のことを待っていてくれたのだろうか。
紙だけを取り出し、私は再びロッカーの扉を閉めた。同時に七限目を知らせるチャイムが鳴り響いた。
すぐさま踵を返し、校舎の奥へと進んでいく。タン、タン、と階段を上る。歩調が少しずつ早まっていく。些か気分が高揚しているのが自分でも分かった。
屋上の扉を開けると、涼しい外の空気が吹き込んだ。橙色の空の下に満咲と花の姿があった。
フェンスの内側、コンクリートの上に並んで座る二人。満咲はぼんやりと頭上を見上げ、隣の花はティーカップを片手に優雅なお茶会を開催していた。
二人は程なく私の姿に気がついたのか、顔を見合わせてから揃った動きで手招きをした。
「あの、これは果たし状か何か……」
「屋上にて待つ。」と書かれた紙を目の前で広げ尋ねると、花は「まあまあ、遠慮せんでええやで」と笑いながら、ポットを横にずらし二人の真ん中にスペースを開けた。
しかし、このティーセットは一体どこから持ってきたのだろう。演劇部部長の権限に底の見えない果てしなさを感じつつも言われるがままに座ると、唐突に目の前が真っ暗になった。瞼の上に温かい掌の感触があった。どうせ花の目隠しだろう。
今日は一体どんな悪戯で遊ばれるのだろうか。小さく「仕方ないなあ」と呟くと、膝の上に何かを乗せられた感触があった。
「目、開けていいよ」
覆いが外されると同時に、二人の笑い声が耳に届く。何を企んでいるのか――懐疑に満ちた心で両目を開くと、膝の上に乗っていたのは、悪巧みなどとは程遠い、可愛らしいうさぎのぬいぐるみだった。
「誕生日おめでとう、未玖」
未玖が休んでる間にちょっと過ぎちゃったけどさ、と照れくさそうにつけ加える花。
誕生日の事などすっかり失念していた。
「ありがとう。凄く……嬉しいな」
「おうよ。これをあたしらだと思ってさ」
ぬいぐるみの虚ろな瞳と目が合った。
「あ、はは。実はちょうど、今持ってる縫いぐるみ捨てろって言われてたんだよね」
ぬいぐるみの虚ろな瞳と目が合った。
部屋の中にあるくたびれたクマのぬいぐるみの姿が脳裏を過ぎった。
――
幼い弟の声が聞こえた気がした。
「……大丈夫だよ?」
――寂しいよ。
幼い弟が泣いている気がした。
「大丈夫」「捨てたりしないから」
「忘れたりしないから。ね?」
「未玖……?」
遠くの方で友達の声がした。
遠くの方で死神の声がした。
生温い空気が纏わりつく。酷い耳鳴りの中で、小さな弟の声だけがハッキリと聞こえた。
視界が歪む。コンクリートの灰色とうさぎと自分の両足の境界が曖昧になっていく。笑うはずのないぬいぐるみが自分を嘲笑っているような気がして思わず息を呑んだ。
雑音。雑音。雑音。両耳を塞いだら、自分の荒い呼吸が加速していくのが分かった。
「私が、私が。救ってあげるから」
――ヒトゴロシ。
「違う。違う違うちがう」
――どうしてあんな事をしておいて、お前だけが幸せな日常を過ごしている?
「人の命を何とも思っていない」「あの男は、死んで当然だったの」
「そ、そうだよな。錯乱状態じゃ自殺したって」
遠くの方で花の声が聞こえた。
すぐ近くで「ねえちゃん」と呼ぶ声が聞こえた。
幼い弟がすぐ目の前で泣いていた。
「大丈夫。大丈夫。忘れないから。大丈夫。大丈夫」
息が詰まって。
「ごめんね。もう、一人にしないから」
息が苦しくて。
「もう、ちぎったりしないから」
涙が止まらなかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。分かってる、私が全部悪かったの」「ずっと傍にいてあげるから」
壊れたオルゴールのように、何度も繰り返す。
「ごめんなさい。ごめんなさい。守ってあげられなくてごめんなさい」
「私だけ生き残ってごめんなさい」
柵の向こうで、弟が呼んでいる気がした。
私はふらふらと立ち上がり、柵に手を掛けた。
「大丈夫。今、私もそっちに――」
「未玖の馬鹿ああっ!」
劈くような叫び声が屋上に響いた。
すぐ傍に満咲の姿があった。私の腕を掴む掌から小刻みに震えが伝わってきた。
「満、咲?」
口元から情けない声が零れた。
真っ直ぐにこちらを見つめるつぶらな瞳は僅かに透明な水を湛えていた。
穏やかな風が制服の袖を揺らす。
太陽が地平線に沈んでいく。眩しいほどの金色が屋上を染め上げていく。
「分かってたよ……? 未玖が無理してることくらい」
「…………」
「大事な家族がいなくなったのに、大丈夫なはずがない。私もそうだったから」
《あの日、本当はね。いなくなっちゃってもいいかなって思ってたんだ》
《空に行けば会えるかなって、思ったりもしたんだけど》
呼吸が少しずつ元のペースを取り戻していく。
「あの時、未玖は必死に助けてくれたのに」
「満咲……」
「どうして……未玖がそんなことするの……」
《あの時の未玖、ボロボロになってまで私の心配してた。本当に……馬鹿だよ》
《私を助けに来てくれて、ありがとう》
「未玖がいなくなったら、私は誰を信じればいいの」
「な、んで……」
「私が信じられるのは、未玖だけなのに」
花が「おい、あたしは?」と尋ねると、満咲は「半分くらい……?」と首を傾げた。花は「貴様は本当に正直だな」と肩を落とした。
「もっと私達を信頼してよ。辛い事、一人で抱え込まないで」
《病院なら一緒に行く》
《だからもう、一人で抱え込まないでくれ》
最期まで私の事を想ってくれた弟の台詞が頭を過ぎった。
「ど、うして……」
放課後の校庭からサッカー部の掛け声が響いた。
力なく柵の前に座り込むと、突然、口に塩っぱい何かをぶち込まれた。
「ふぁ、ふぁな」
「仕方あるまい。君にも特別に分けてあげよう」
ふふんと鼻を鳴らしてから、花はしたり顔でグッと親指を立てた。
「そのクッキー、芸術的に美味しいと思わないかい?」
「ひ、ひょっぱ……」
口の中がクッキーでいっぱいになって言葉が出てこなかった。
「あっはは。実は一つだけ砂糖の代わりに塩を入れて作ってみたんだが」
「…………?!」
「サプライズは成功したようだねぇ」
「サプ……?」
ロシアンルーレットの間違いだよ!
もはや嫌がらせだよ!
しょうがないなあ、と思いながら。
いつも通りの他愛ない会話が何だか無性に嬉しくて、思わず頬が緩んでしまった。
「あっはは。やっと
心に出来た壁が崩されていく。
「あたしらは、未玖。
夕陽がやけに眩しくて、
「辛くなったら頼ればいい。言いたくなければそれでいい」
あまりの眩しさに目が眩んで、自分には勿体無いと思った。
「だから、誕生日で一つ歳をとっても、君はいつまでも愛くるしいペットでいてくれ」
「花……」
そこには、両手を広げても抱えきれないほど程広い、広い空が広がっていた。
くだらなくて。
あまりにもくだらな過ぎて、思わず上を向いた私は「あはは」と情けなく笑い声を漏らした。
「でも、ペットは嫌だなあ」
上を向いたまま笑うと、代わりに涙が溢れて止まらなくなった。
「じゃあ……実験動物で良いの……?」
「どうして選択肢に人間が無いの。満咲さん」
困ったように笑いながら。
満咲も隣で同じように笑っていた。
《誰かを傷つけずに生きていける奴なんて、どこにもいない》
《いつだって、俺達は選ばなくちゃいけないんだ》
大切な人を守れなかった。
私の選んだ選択肢は正しかったのか、間違いだったのか分からない。
それでも、こんな私を支えてくれる人間がいるのだろうか。
遠くのビルの向こうに太陽が沈んでいく。びゅう、と屋上を吹き抜けた風が制服のスカートをはためかせる。
同時に、校庭の方からサッカー部の掛け声が上がった。どうやらシュートが決まったらしい。
見下ろすと、手に届きそうなほど近くに七色の虹が架かっていた。
「ありがとう。二人とも」
いつか死んでしまうとしたら、私の側には誰がいるだろうか。
そのとき私は何を思い、何を考えるのだろうか。
そんな日がいつ来るかなんて分からないけれど、
そのとき私は満ち足りた表情で笑えるだろうか。
《でも、顔は笑っててもね。心は泣いている時だってあるでしょう?》
「あれ。そういえば、永美は?」
☆★☆
――数日前。
未玖の入浴中、部屋に残された死神ミタがお笑い番組を見ようとテレビをつけると、テレビ画面にとあるニュースが映し出された。
『十四日昼頃、○○区のファミリーレストランで銃が乱射される事件が発生しました』
『この事件で、店内に居た四人が死亡、二人が重傷、一人が軽いけがをしました。死亡した四人のうち一人は犯行グループの一員だとされています』
『容疑者は店内で銃を乱射した後、精神異常をきたして自殺』
『警察の調べによると、以前から周囲の人間に対して……』
『…………』
『××さん、この事件に関してはどう思われますか?』『そうですね。容疑者が死亡してしまった以上真意は分かりませんが、おそらく彼は……』『……警察は……』『被害者の方々のご冥福を……』
☆★☆
リビングのソファの上に参考書の詰まった重たいカバンを下ろし、彼女は凝り固まった肩をコキコキと鳴らした。
深呼吸を一つしてから白いソファにもたれて座る。体重を掛けると革の軋む音がした。
ちょうど同じくして、玄関から父親の声がした。相変わらず遅い帰宅だ、と心の中で呟いてから彼女は気怠げに立ち上がった。
廊下を歩く父は「今日も疲れたなぁ」と呟きながら、大きく伸びを一つ。
娘はリビングの扉の前で父親を出迎えた。「おう、ただいま」疲れた顔で笑う父の目元には今日も濃い隈が浮かんでいる。少し休んだらどうか――言い掛けた台詞は上手く言葉にできなかった。
父親が頑固なのは十分承知している。スーツから少し煙草の匂いがして、彼女は代わりに別の心配を投げ掛けることにした。
「また煙草吸ってるの? 禁煙したんじゃなかったっけ」
「はは、そのつもりだったんだけどさ。まあいろいろ苦労があんだよ、俺にもな」
「へぇ。でもお母さんタバコの匂い嫌いだから、怒られないといいね」
「わっ、分かってるよ。だからこうして家の外でしか吸ってないだろ?」
父親はハア、とため息をつきながらソファに腰掛けた。
スーツに臭いついてるから同じじゃないの――娘は心の中でそう思ったが、口には出さないことにした。
「その……。大変なの? 捜査」
彼女は父親の隣に座り尋ねた。
金魚の水槽のモーター音だけが静かに響く。暫くの間無言の沈黙がリビングに流れた。父親は逡巡した後、重々しく口を開く。
「手がかりは掴めたが、そこから先に進めない感じだ」
「……やっぱり、
《お前の同級生に夏目満咲と蒲田未玖って生徒がいるだろ? お前、二人のこと何か知らないか》
《し……知らない。話したことないわ》
父親は驚き、左隣に座る娘を見やった。
彼女は瞳に不安の色を混ぜながら、真っ直ぐに床を見つめていた。
湿気の満ちた部屋がやけに蒸し暑く感じた。
「もうお前には関係ねぇよ」
使い古したジャケットを脱ぎ、リモコンの冷房ボタンを押す。ガガガ、という音と共に湿った埃の臭いがした。やがて冷たい風が流れ込み、澄みきった心地よい空気が部屋を満たしていく。
暫くの沈黙の後、娘は立ち上がり、参考書の詰まった紺色の学生鞄を肩に掛けた。
「頑張りすぎて身体壊さないでよね、
「……娘に改まってそう言われると何だか照れるな」
「お父さんズボラなんだから、会議とか遅刻しちゃダメだよ?」
「はいはい、分かってますよ」
脱いだスーツをだらしなくソファに放り出した白髪混じりの父親は、娘の小言をいつも通り軽く受け流した。
テレビの電源をつけると、深夜のバラエティ番組が軽快なトークを繰り広げた。
父親は冷蔵庫から仕事帰りの冷えたビールを取り出し、娘は荷物を持って自分の部屋へと向かう。
「未玖じゃないに決まってるじゃない。大丈夫。大丈夫。だってあの子は……」
「
彼女は自分自身に言い聞かせるように呟きながら。
「あの野郎、人の命を何とも思っていない」
「証拠不十分で捜査中止だなんて、ふざけてやがる。どいつもこいつも、クソみてぇな調書こさえやがって」
「人が死んでるんだ。必ず法の下に引き摺り出して裁いてやる」
父親は自分自身を鼓舞するように呟きながら。
歯車は少しずつ狂い出す。
これは、呪われた運命に抗う者達の物語。
第三章 カゾク 完
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