第三十一話 守れるくらい、強く

 薄暗い廊下に足音が一つ。一番奥の部屋から、姉のが聞こえてくる。

 目的地へと向かう彼の歩調は些か速まっていた。


 《姉貴が、あの日からおかしいんです》

 《誰もいないところで一人で話してたり》


 随分前から、姉の違和感には気がついていた。


 《お姉さんに直接訊いてみないのですか? 誰と話しているのか、と》

 《怖くて出来ないんだ》


 ずっと逃げ続けてきた。

 けれど、彼はようやく覚悟を決めた。


 (あの時、心に誓ったんだ)


 姉の部屋まで辿り着いた彼は、扉の前で一つスゥ、と深く呼吸をした。


 薄暗い廊下に扉の向こうの光が漏れ出し、隙間から足の指先を照らす。静かに呼吸を繰り返していると、時折姉の賑やかな笑い声が耳を打った。

 震える右手首を左手でおさえる。彼は両目を閉じ、心中で覚悟の言葉を唱えた。


 (姉貴だけは、俺が守ってみせる)


 再び目を開き、ゆっくりとドアノブに手を伸ばす。

 如何なる事実が目の前にあろうとも、彼は姉の真実と向き合うことに決めたのだ。


 たとえ姉が、


――――――――――――――――――

第三十一話 守れるくらい、強く

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 扉を開けると、入り込んだ光に目が眩んだ。両目が次第に順応していき、やがて視界にはどこか苦し紛れの姉の笑顔が映った。

 他に話し相手がいる様子もなければ、電話をしている様子もない。

 つまり、彼女はたった一人でのだ。


 「姉貴、誰と話してるんだよ」

 「た、拓也……? ななな、何言って」

 「本当のことを言ってくれ」


 咄嗟に立ち上がった姉は、くたびれた熊の縫いぐるみを片手に苦笑いを浮かべていた。

 華奢な細い手足。亜麻色の瞳があちらこちらに揺れ動いていた。

 苦し紛れの笑顔の裏には一体どれほどの重荷があるのだろう、と思った。


 握り締めた拳の内側に、僅かに指先の爪が食い込む。


 「病院なら一緒に行く」

 「た……拓也?」

 「だからもう、一人で抱え込まないでくれ」


 その重荷を、どうして自分に分けてくれないのだろうと思った。

 全てを一人で背負い込んだ母の姿が脳裏を過ぎり、拓也は歯を食いしばった。歯の隙間から情けなく声を漏らす。


 「どうして俺に……」


 ――もっと、頼ってくれないんだ。

 口にも出来ない臆病者のくせにそんな我儘なことを考えてしまう自身の情けなさに、彼は心底辟易した。


 「拓也?」


 一方、きょとんとした表情で首を傾げる彼女の表情に暗い影は見えない。暫くの間こちらを見つめていた彼女だったが、やがて堪えきれなくなったのかぷっと吹き出して笑った。

 予想を外れた姉の反応に、一瞬、彼の思考は混乱の渦中に陥る。


 「あっはは、拓也。いきなり入って来たから何言いだすのかと思えば」

 「な……何だよ」

 「大丈夫大丈夫。心配しないで拓也」


 何が可笑しいのか、彼女はお腹を抱えて笑い出した。ひとしきり笑った後、姉は照れくさそうに目を伏せ、頭を掻いた。


 「私、何も抱え込んでなんかないってば」


 拓也は部屋の入口で立ち尽くした。

 目の前には、風呂上りの姉の姿としな垂れた熊の姿のみ。彼女の様子がおかしいのは明白だった。


 「だって姉貴、今一人で話して」

 「ああああそれは、えっとえっと……そう、劇! 劇の練習!」


 姉は両腕に抱え込んだ熊を掲げながら、熊と台詞の練習をしていたのだと主張した。

 彼女の額に浮かぶ汗の量を鑑みれば、それが大方嘘であることは容易に想像がついた。普段より一オクターブ高い裏声がさらに裏付けとなっている。


 拓也は立ち尽くしたまま眉を顰めた。

 実は当の死神すべての元凶はそのすぐ目の前で可笑しそうに二人のやり取りを眺めていたのだが、その姿も声も拓也が認識することはない。


 のべつ幕無しに言葉を並べていく姉。彼女はあらゆる理屈をこねくり回していたが、やがて何かを思いついたかのようにピコン、と頭上に豆電球を灯した。すっくと立ち上がってから、得意げに口角を持ち上げる。


 「拓也。そういえば辛いもの好きだったよね?」

 「それは今関係ないだろ?」

 「あのねあのね、この前友達から聞いたの! 最近都心にオープンした韓国料理のお店、すっごく美味しいって人気なんだって! 今度の日曜日連れてってあげる」

 「話を逸らすなよ! 姉貴はそうやって」

 「辛いもの好きの間で話題なんだよ? 史上最高の辛さを追い求めるファンも沢山いるんだとか」

 「そ……そんなことで俺は誤魔化されないぞ」

 「私が奢ってあげるから、ね?」

 「…………姉貴の奢り」


 一瞬心が揺れ動いてしまったのを何とか律してから、彼は再び話を本題に戻そうと口を開きかけた。

 が、それ以上の言葉が出て来なかった。


 《私、何も抱え込んでなんかないってば》

 《ああああそれは、えっとえっと……そう、劇! 劇の練習!》


 (俺には、どうしても言えないことなのか)


 ずっと逃げ続けてきた。

 姉の真実と向き合うことが怖くて、彼女が夜中に一人で泣いているのも見て見ぬふりをし続けてきた。


 《また悩んだら連絡してくださいね》


 占い師の少女に背中を押してもらい、ようやく覚悟を決めることが出来た。

 しかし、勇気を振り絞って本心を伝えてみても、結局姉には届かない。


 目の前で困ったように笑う姉の姿は今までと変わらぬものだった。

 あの日、あの事件を経ても尚それは変わらないのだと――瞬間、彼は気がついた。


 「姉貴……本当に変わらないよな」


 気がつけば溜息が零れていた。

 姉は鼻を鳴らし背筋をピン、と伸ばした。


 「弟に韓国料理の一つや二つ奢ってあげるくらい、当然なの」

 「いや、そっちじゃ」

 「フッ……これが姉の心遣いというものよ。感謝など要らないわ、弟よ」


 すぐに調子に乗る癖は母親譲りなのだろう。

 今までと変わらない元気そうな姉の姿を前に、彼の心は諦めと安堵の感情とでないまぜになっていた。


 「……本当に、しょうがないな」


 例え姉が何を隠していようと、姉の真実と向き合うと決めていた。

 姉の重荷を少しでも減らしてやりたかった。


 それでも、姉が踏み込んで欲しくないと願うならそこに踏み込む資格はないのかもしれない。

 ふと、そんな思いが彼の頭を過ぎった。


 《姉貴だけは、俺が守ってみせる》


 それは小さい頃、彼が心に決めた誓いだった。


 《おまえ、すぐ泣くよな》

 《いつもねえちゃん、ねえちゃんって》

 《きもちわるいんだよ!》


 弱虫で何も言い返せなかった弟を周囲の声から守っていたのは、いつも姉だった。

 小さな両手を広げて、見え見えの虚勢を張って。

 小柄な姉の背中は、彼の目にいつも大きく映った。


 姉に守られる自分が情けなかった。

 同時に、今度は自分が姉を守るのだと幼心に誓った。


 それなのに、いつからか気恥ずかしくなって、守ると決めた筈の姉を遠ざけるようになってしまった。


 一人で頑張り過ぎてしまう癖のある姉は、いつだって決して他人に頼ろうとしなかった。

 一人で抱え込んでしまう癖のある姉は、いつだって一人で部屋に閉じ籠って泣いていた。


 小さな動物が見栄を張っているのは見るに堪えなかった。

 心の優しい姉を傷つける相手が、許せないと思った。


 それ以上に、何もしてやれない自分が情けなかった。


 手を伸ばせば何だか壊してしまいそうで、いつまで経っても核心に踏み込めない。小さなプライドが邪魔をして、思ってもない事ばかり言ってしまう。

 本当は姉のことを一番大事に思っているのに。


 あの日、姉は雨の中ずぶ濡れで帰って来た。

 しがみついて泣きじゃくる彼女は、初めて自分の前で弱さを見せた。


 《なんなんだよ……》


 初めて見た姉の姿に、彼は驚いた。

 初めて見た姉の姿に、彼は安堵した。


 《しょうがないな》


 ようやく、自分に頼ってくれたような気がしたから。



 「勝負よ、拓也。どちらが辛いものに耐えられるか」

 「俺が負けるわけないだろ……」


 (姉貴、辛いもの好きじゃないし)


 拓也は侮蔑の視線を向けながら、やたらとテンションの高い姉に対し心中で突っ込みを入れた。諦めと安堵から無意識のうちに頬が緩んでいることに、彼自身気がついてはいない。


 「拓也はまだ知らないのね? 私がここ数年でどれだけ修行を積んできたのか」

 「修行って何だよ」

 「いい、これは戦よ。姉弟のなの!」

 「はあ……」


 姉は再びベッドに腰を下ろしてから、子供のように足をぶらぶらとさせた。

 細い腕の中でしな垂れた熊が虚ろな目をしていた。


 「クスクス。昔はお姉ちゃんとお出かけ、って嬉しそうにはしゃいでたのに。拓也ももう中学三年生だもんね」

 「な……! は、恥ずかしいこと蒸し返すんじゃねーよ」


 気恥ずかしさを誤魔化すようにわざとらしく舌打ちを一つ。

 一方姉は、愉しそうに高い声を転がせていた。


 (しょうがないな)


 姉が何を隠していようが、姉が元気であればそれでいい。

 たとえ触れられなくても、伸ばした手が届かなくても、全ての物事を共有できなくとも。


 ただ自分が傍にいるだけで、彼女が救われるなら――


 (だから、姉貴を守れるくらい、強く)


 目の前で楽しそうに笑う姉を眺めながら、彼は再び拳を強く握りしめた。

 廊下の奥から冷たい隙間風が入り込む。入口付近に立つ彼の踵は侵食され、少しずつ少しずつ、温度を失っていく。

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