本編

【歩実ごめん。少しだけ遅れるかも。部長に電車が人身事故に遭ったって伝えてくれる?】

 

 同期の真奈が送ってきたメールから20分後。

 少し息を切らした表情で、彼女がオフィスに姿を見せた。


「部長、すいません。電車で人身事故があって遅れてしまいました」

 

 2人のやりとりを見て、本当だったんだな、と改めて現実に向き合う。


【自殺みたい】


 ほんの少し前、手短に送られてきた2度目のメールがずっと気になっていた。

 だから歩実は、真奈が席に着くなり小声で問い掛けた。


「自殺って、どんな?」


 歩実は自他共に認める好奇心旺盛なタイプの人間だった。

 もっとも、矛先が向かないものについては極端なほど無関心になってしまうのだが、今回は逆。普段から通勤で利用している駅での出来事とあって、興味が沸かない筈がない。

 だから歩実は、真奈から事の顛末を聞き出すと、業務の合間を見計らってはスマホを弄っていた。

 ニュースサイト、SNSの投稿に動画サイト。

 現場が都心に近いこともあってか、時間の経過と共に、いくつかの情報を拾い見ることができた。

 

 そして昼休み。真奈と共に食事を済ませた後、横並びの2人がスマホを操作する。

 そこで歩実は食い入るように、スマホの画面を見つめていた。


 動画サイトだ。


 まさか、と思ったが、そのまさか。

 真奈が遭遇した駅のホームでの映像がアップされていたのだ。

 

 多くの人込みと、困惑の渦。

 おそらくは、真奈同様に出社時刻に縛られる人々の心理と、好奇の足枷。

 動画の撮影者は、電車とホームの隙間を捉えようとしていた。

 乗るに乗れない人だかりと、降りるに降りられない人の群れ。

 映像の中心は、まるで小さなステージのようにそこだけ穴があいたような空間で、混乱を必死に収めようとする駅員の様子を映し出していた。


「こんな動画、よく上げる気になるよね。趣味悪い」

 

 真奈が切り捨てた。目を細め、侮蔑を浮かべた表情でスマホに視線を落としている。

 歩実は二度頷き、「確かに」と同意する。

 再生回数を目論んでのことなのか、ただの思い付きなのかは別として、この動画自体が不謹慎極まりないことだけは間違いない。

 それでも……歩実は見てしまう側の人間である。

 さらには、事故を報じたニュースサイトとSNSの投稿を通じ、自殺者の情報も探し出していた。

 もはやネット上の野次馬でしかないが、歩実の好奇心は止まらなかった。

 その後も業務の合間を縫っては、膝の上に置いたスマホを操作する。


 亡くなったのは、曽根香織。

 年齢は歩実の1つ上で、23歳。少し調べると本人の画像も拾い出すことができた。

 ニュースサイトでは、飛び降り自殺か? といった疑問符が付けられており、他殺の可能性も疑われているようだった。


 もしこれが自殺であったなら、と歩実は背景に思いを巡らせる。

 やはり、何かを悩んでいたのだろうか、と。


 それにしても、写真の印象が邪魔をする。

 画像で見る曽根香織の顔は、歩実の思い描く悲観した自殺者というよりは、単に性格がきつめな、どちらかと言えば性根の悪そうな印象を受ける。

 勿論、それは第一印象でしかない。

 けれども歩実は、自分の直感や第一印象を大切にするし、例えば電車の中で見る不特定多数の乗客の顔を眺めているだけでも、ああ、あの中年男性は家族を大切にしそうとか、あっちの若い男性は遊び人っぽい、なんて想像を巡らせもする。


 曽根香織は、一重瞼におかっぱ頭。クレオパトラでも意識してるのか? と言わんばかりの黒髪と髪型で、陰湿な性格。それでいてプライドが高く、気の強そうな感じを受け取る。

 正直、友達には一生なれそうにないタイプの人間だとも思えた。


 だとしても、だ。

 歩実は彼女が死んで当然とは思わない。それとこれは全く別の話なのだから。


 だからこそ、これが自殺だとすれば、いったいどんな理由があって死んだのか? 

 何故、あの駅、あの場所を選んだのだろうかと推測する。


 もし、彼氏や浮気相手があのホームを利用するのなら?

 別れた、捨てられたことに対する報復でもあったのだろうか。

 死して尚、印象を濃く刻む。日常的に利用せざるを得ない駅ならば、忘れられるはずもない。

 ある種の呪いにもなる……か。


 歩実はそんな背景を思い浮かべていた。

 しかし歩実の想像は、帰宅時のホームに立った時、全く別の展開を思い描くことになる。

 

 歩実が駅の改札を抜けた時、時刻は夜の7時を回っていた。

 思いがけず舞い込んだイレギュラーのせいで、予期せぬ残業をする羽目になったのだが、結果として帰宅ラッシュの混雑を回避することができたと思えばいい。

 とりわけ今日に限っては――であるが、普段とは違う気の持ちようであることに変わりなかった。


 動画サイトの映像から、歩実は事故現場の位置を特定していた。

 普段、歩実が帰宅時に使う側のホーム。階段を下りた先、自動販売機とその手前にあるベンチの間に作られる列。その列の先頭に立っていたであろう曽根香織は、電車が通り抜ける直前に落ちたのか、さもなくば自らの意思で飛び降りたのか。

 歩実は事故後の映像を確認してみた。幸い、今の段階では削除の対象にはなっていないらしい。画面と現場を交互に見比べてみる。


 と、そこで歩実は眉根を寄せた。

 明らかな違和感だった。昼休みに見た際は気付かなかったが、画面の中で1点だけ、どう見ても不自然な個所を見つけてしまったのだ。


 サラリーマン風の男の姿、である。

 年齢は20代後半から30代前半くらいか。どちらかと言えば、顔立ちは良い方に思えるが、それはあくまでも、思える範疇の話。

 

 ――何故か?

 

 男の顔が、笑っていたからだ。


 画面に映る全ての人間が困惑の表情を浮かべている最中、その男だけは薄い笑みを浮かべていた。

 ともすれば、同じホームに立っていたであろう曽根香織が落ち、跳ねられ、即死した現場を目の当たりにして……数分も経たない男の表情が、笑いとは。

 加えてその笑いは、明確な喜びにも受け取れるものであった。


 歩実の表情が歪む。

 ただ、ひたすらに気味が悪く、不穏な棘が胸に刺さったような疼きを覚えた。


 もしや、と思う。

 歩実の直感はこう道筋を描き出していた。

 この男は、曽根香織を知っている。2人の関係性はさておき、男は、曽根香織が死んだことを喜べる側にいる。


 本当に自殺なのか?


 歩実は暫しの間、その場に立ち尽くしていた。

 視線の先は、今朝、そこであった出来事がまるでなかったかのように静まり返っている。曽根香織が死んだ時刻であれば、多くの人が列の一部となっていたであろう場所に、今は誰もいない。

 

 これは自殺なんかじゃなく、他殺。


 歩実は心臓の高鳴りと共に、短く呼吸を刻んでいた。

 もしかすると、自分は何か重大な局面に遭遇しているのかもしれない。


 電車の到着を知らせるアナウンスが鳴り渡り、思い出したように足を動かす。それと同時に、歩実は新たな可能性に思い当たった。

 

 この動画を上げた当人は、この事実に気付いていた?

 

 通報、のつもりなのだろうか。いずれ警察関係者が気付く。

 そう信じての行動だった?

 頭の中では様々な可能性が沸き上がってくるものの、目の間の扉が開くと、歩実は後ろ髪惹かれる思いで電車に乗り込んだ。

 と、次の瞬間――。

 

 車内に踏み入れた足と逆側の足が、何かに引っかかった。

 いや違う。躓くでもなく、足裏がぴったりとホームに固定されてしまったかのような感覚に、歩実は目を向ける。

 そこで、歩実は自身の足首を掴んでいる腕を見た。


「きゃあっ!!」


 悲鳴を上げ、歩実は車内に膝をついた。

 視線が流れ、周囲の目が自分に向けられていることを確認した。

 けれども歩実は、そんなことを気にする余裕がなかった。

 転んでみっともない、なんて体裁はどうでもいい。

 歩実はドアが閉まる直前まで、床に座ったまま、その場所から視線を逸らすことができなかったのだ。


 息を呑むと、幕が閉じられるように視界が遮られる。


 視線の先、ホームには……何もなかった。


 それでも歩実の足首には、確かな感触が刻まれていた。 

 白く、限りなく透明な、それでいて明確な輪郭に縁取られていた腕が電車とホームの隙間からせり上がるように伸び、その先に生えている五本の指が、歩実の足首を抑えつけていた。


「――大丈夫ですか?」


 背後から声を掛けられ、はっとする。


「すいません、大丈夫です。ありがとうございます」


 自力で腰を上げると、乗客の合間を縫うように隣の車両まで移動した。

 少しでも同じ場所に留まることを、本能が拒否していたのだ。

 扉の脇にスペースを見つけると、そこで歩実は思い出したように息を漏らした。


 実に生々しい記憶と感触。


 振り返った途端、歩実は急な息苦しさを覚えた。


 決して錯覚なんかじゃない。

 あれは……、あの手は……。


 

 どうにか家まで辿り着いた歩実は、改めて自分の足首を眺めてみた。

 手を伸ばすことを躊躇う。足首に触れることを、拒む自分がいた。


 あの瞬間、歩実の足に触れた感触は、今も記憶の浅い場所に留まっている。

 冷たく、皮膚に張り付くような、感覚。

 心霊やオカルトまがいの話に興味のない真奈にでも言えば、『そんなの見間違いに決まってるじゃん』なんて一蹴されるだろう。

 ただ自分が躓いただけでしょ、と。


 だけど歩実は、どうしたってこの事実をなかったことにはできない。

 更には、一過性の心霊体験なんて生易しい表現で片すわけにはいかなかった。


 歩実は繋がってしまった。

 間違いなく、繋がってしまったと自覚している。

 誰に否定されても、馬鹿にされても構わない。それでも思う。

 それまでは赤の他人の死でしかなかった出来事に、歩実自身が巻き込まれてしまった。

 言うなれば、傍観者同然に観客席から眺めていたら、いつの間にか自分が舞台に上がってしまっている状況と酷似している。


 過去を振り返れば、それっぽいと思えるような経験はある。

 とはいえ、興味本位同然で不可視化なものの代名詞だった霊感が……私にも。


 馬鹿馬鹿しい。考え過ぎでしょ?

 だって、足首に痕も残ってないじゃない。

 あえて言い聞かせてみるものの、さりとて歩実に笑い飛ばす余裕なんてなかった。

 思考が渦を巻くように混濁し、心の余白を塗りつぶしてしまっている。


 これはもう、恐ろしいとか、禍々しいとか、そんなことではない。

 この感覚を誰に説明すればいい?

 誰が理解してくれるというの?

 細かいことなんてどうだっていい。

 歩実はかぶりを振った。これ以上余計なことを考えると、自分がどんどん深みに陥っていくのがわかる。でも――。


 この先、私はどうなるの?


 いや、先のことなんて考えたくもない。

 歩実はもう、ただただ不安で仕方がなかったのだ。


 翌日から、歩実は反対側の階段を使い、曽根香織が死んだ場所を避けるようになった。

 1日が終わり、2日が経ち、1週間が経過し……結果として何事もない日々を繰り返し過ごしていく内に、歩実は自分が抱いていた不安を薄める程度には、日常を取り戻していた。

 そして――。


 定時で仕事を切り上げた歩実は、帰宅ラッシュの流れに飲み込まれるかたちで構内を歩いていた。

 不意に、急ぎ足で動く人の流れが、前方で不自然に枝分かれする。

 歩みの遅いサラリーマンがいる。下を向き、スマホを操作しているのだろう。障害物同然の扱いも、本人は理解していないようだ。

 歩実は男の右側を追い越すように進路をとった。

 

 すれ違いざま横目で覗き込み、あれ? と思う。

 どこかで見た顔だな、と。

 誰だろうか。名前はわからない。だけど、私はあの男を……。

 

 そこで歩実は振り返る。

 男が下を向いたまま、歩実の脇を通り抜ける。

 再度男の顔を確認すると、ポケットに手を伸ばし、急いでスマホを操作する。

 あの動画は今も残っているだろうか。

 

 歩実は男の後姿を追った。階段を降り、ホームの奥へと進んでいく。

 男の足が止まった。タイミング良く最前列のポジションをキープしている。歩実も同様に、隣の扉が開く位置で同じポジションを取った。

 幸い、次の電車までは猶予がある。

 男の様子を窺う。顔を、あの男の顔を確認しなくては。

 見つけた動画を再生する。

 それとなく男が立つ方向に目を向け、手元の映像と見比べる。

 一時停止をした。

 間違いなく、男の顔に一致する。

 ――が。

 そこで歩実は、視界の端から信じられないものを見た。

 

 男が立っている場所の少し先。

 その下から2本の腕が伸び、ホームを鷲掴みにした。

 頭部が浮かび上がり、上半身から下半身とその姿が露になる。

 何事もなかったかのように立ち上がり、歩き出す。

 男の目の前で止まった。

 

 歩実は呼吸をすることさえ忘れ、首筋にまとわりつく恐怖に身を竦ませていた。


 ――曽根香織だった。

 

 どうして気が付かないの?

 互いの吐く息が交わるほどに近い距離。目の前に立つ曽根香織の姿が、見えてない?


 いや、既に歩実や男の後ろには電車の到着を待つ列ができてしまっている。

 その大半が下を向き、それぞれの時間を過ごしているとはいえ、この異様な光景を誰も気付かないなんてことがあるのだろうか。

 逃げ出したい。歩実はそう思ったが、そもそもの足が動かなかった。


 曽根香織は立っている。

 

 表情も変えず、男の前で立ち尽くすように……。


 1秒、10秒、1分が経過しても、状況は変わらなかった。

 歩実の心臓が経験したことのない早鐘を叩き、詰まらせた喉に表情を歪ませる。

 額を濡らす汗。いや、全身の毛穴から汗が滲み出ていた。  

 呼吸が乱れ、一瞬でも気を抜けば、その場に倒れ込んでしまいそうだった。


 と、そこで電車の到着を知らせるアナウンスが鳴り響いた。

 すると曽根香織の右腕がゆっくりと動き、スマホを握る男の手首を、掴んだ。


 男の表情が切り替わる。

 握られた手首に視線を向け、明らかな動揺を見せた。

 それでも男は、前に立つ曽根香織の姿に気付いてはいない。


 ホームの奥に列車の先頭が見えた。

 曽根香織が自分の背後に向けてゴミを投げ捨てるかのように、腕を振る。

 男の身体がつんのめり、勢いのまま、ホームから落ちた――。


 歩実は茫然と一部始終を眺めていた。

 

 ホームに落ちた男の姿、直後に通り抜ける車両。喚声も、悲鳴も、金切り声のような電車の急ブレーキでさえも、全てが現実のものとは思えなかった。 


 ただ、身体中が急速に冷えていく。

 人々が混乱の渦を作り出している最中。歩実はその場所から動くことができなかった。


 なぜなら……。


 曽根香織が、歩実のすぐ脇に立っているのだから。



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