魔法

haru.

1

「ペトリコールって言うんですよ」



 いつもの優しい声。

 先生がそう教えてくれたから、わたしはこの匂いがするとどこにいても先生を思い出すのです。



 古い本、百貨店の包装紙、暗い押し入れの隅っこ、昔からあまり人が好まない匂いが好きだった。

 なかでも、雨の降り始めに土から立ち登る、何ともいえない匂いが好き――





 いつも気晴らしに大学校内で散歩するルートにある図書準備室の窓の外、どこかの学科研究用であろう草ばかり植っている花壇を、ぼんやり眺めていた。

 これから課題の提出締切、間に合わないわ、などと足早に通り過ぎる学生たち。


 空を見上げると、雨催あまもよい。

 じきに、水滴がぽつぽつと地面に水玉模様を描いていく。

 すう、とかがんで深呼吸。

 うん、この匂い。


「あー降ってきちゃった、もういいよ濡れても。すぐ乾くし。この匂い好きだし。何の匂いかわかんないけど!」


 壁沿いのベンチにいると、後ろの図書室の窓から声が降ってきた。


「その匂いはペトリコールって言うんですよ」

「わ、先生! いきなりびっくりした」

「ていうか、雨降ってきてるじゃないですか、こっち入って雨宿りしておいで」


 この人は、生物学助教授の坂口先生。

 本の虫先生なんて呼ばれていて、いつも大学の旧校舎の図書室奥にある、日当たりの良い小さい物置のような準備室にいる。

 本棚以外にあるのは窓際にあるソファと机、ミニ冷蔵庫と電子レンジ。

 もしかしたら、ここに住みついているんじゃないかとすら思っている。

 読書が何より好きで、本に囲まれていた方が落ち着くし、すぐ読めるし調べ物も出来る。人も滅多に訪ねて来ないから気に入っているんだ、なんて先生にあるまじき事を申しており。

 かといってこの歳で助教授なのだから、勉学は優秀なのだろう。


 歳は30代半ば位かしら。大抵いつ見かけても寝癖の髪に黒縁眼鏡、若干シワが付いたままの無頓着な白衣姿。背が高いからか少し猫背ぎみで控え目に歩く。

 ちゃんとしたら絶対かっこいいのに勿体ないよねぇ、と陰で女子学生に言われているのを何度も耳にした事がある。所謂残念イケメンというやつだろうか。

 縛られたくないし面倒くさいから、とスマートフォンは家に置いたまま持ち歩いていないらしい、マイペースな人。


 でも、わたしはそんな先生に恋をしている。

 どこがって言われると、よくわかりません。

 顔? 声? 雰囲気?



 ちゃんと入り口から校舎に入り、図書室を抜け、奥の準備室へ。

 いつものように、少し温めたミルクを入れてくれた。

 ここに来るのは初めてではない。

 他愛もない話をするだけ。

 もう少しこの時が続けばいいのに、といつも思っているけれど、長居をすると色々怪しまれてしまうから、少しだけ居させてもらうのです。

 わたしと先生、二人きりの時間。

 幸せの魔法にかかったみたいで心がフワフワするのに、ほんの少し切ない。

 でもこの魔法は永遠じゃないから、きっとこの日々は、いつか泡沫うたかたのように消えてしまうのでしょう。


 ただ、先生はここに他の人を入れているのを見た事がない。

 わたしの事を、ちょっと特別な存在だって思ってくれていたら、などと淡い期待をしてもいいのかしら。



「先生は好き? 雨が降る前の匂い、自然って感じがして心地良いじゃないですか、落ち着くっていうか、草なのかな、花? 少し甘い、でもノスタルジックな匂いで」

「原因物質は石に含まれている油だね、だからギリシャ語で石を意味するPetraからきているらしいですよ。まぁ、君に言ったってわかんないか」

「…何か分析されると、単語の文学的で不思議な雰囲気が壊れます…」

「理系脳の人間は、何でだろうって事は調べないと気が済まないんですよ」

「…変態だ」

「人に対してもさ、好きになったら、何故好きという感情が生まれて認識するのだろうか、どういう大脳皮質の脳の動きが起きて好きになるんだろうかと相手に問うたら、色々面倒くさいって言われて、過去女性に捨てられた事がある」

「捨てるって、そんな猫みたいな…」


 先生も、人と付き合った事があるんだ。

 まぁ当然なんでしょうけどさ、ちぇっ。


「…っと余計な事を。君にはつい話してしまいますね、変なの」

「いいですよ、何でも話してください。先生のポンコツなエピソード面白いもの」


 物知りな先生は、雨上がりの葉っぱに付いているキラキラ光る雨粒の中に、ひっくり返った世界が広がっている事を知っているかしら。

 わたしもたくさん話したい事があるのです。





 今日は先生の講義を聞いてみたいと思って、こっそり講義室に忍び込む。


「えー、ですから生態と環境の関係は…」


 周りを見回すと、皆そこそこ真面目に聞いているようだ。

 いつも見る先生と違うのね、そりゃそうだ。


 講義が終わって生徒があらかた出て行くと、後方の隅に座っているのに気がついた先生は、わたしを外に連れ出した。


「こらこら、講義の予定のない部外者は勝手に入っちゃ駄目ですよ」

「いつも図書館の準備室でしか見かけないから、本当に講義してんのかなって思ったんです。ちゃんと先生してた」


 そうこうしていると、遠雷が聞こえ始めた。

 わたしは雷が苦手だ。

 湿気に凄く反応して、毛がもしゃもしゃになって不愉快。

 先生は、廊下の窓から遠くの空を見た。


「あー、雨雲こっちに来そうだな、夕立ち。ん、雷苦手? 落雷に当たる確率は100万分の1だっていうから心配ないでしょ」

「そんな確率論全くアテにならないですから。怖いものは怖いんです、間近の木に落ちたの見た事あるもの、ドーンってなってバキって凄い音が鳴って地面がぶるぶるするんです!」

「まぁ、今日は早く帰りなさい、雨に降られる前にね。この季節の天気は気まぐれだから。俺ももう今日は午後から講義が無いし、用事済ませて早く帰ろうかな」





「やばいなぁ、先生が言っていた通り予想より酷い雨だわ…」


 何やかやで、帰るのが遅れてしまった。

 未だ14時位だというのに、みるみるうちに空一面真っ黒い雲が覆ったかと思えば、バケツをひっくり返したような鬼雨。

 図書室近くの渡り廊下を急いで走って通り抜ける。

 屋根があるのに、大きい水溜りにはまったみたいにびしょびしょになってしまった。


 メキメキッ、ドドン!


「ひゃっ!」


 近くで光と同時に雷鳴が鳴り響く。

 その場で身を縮める。

 爪の先がぎゅんぎゅんするし、身の毛もよだつ。

 ぐっと目を瞑ったまま、固まって動けない。

 絶対近くに落ちたんだ!!

 怖い、死んじゃう!!!


 目の前に誰かが来た気配。

 恐る恐る、薄目を開ける。


「やっぱまだ外ほっつき歩いてる。早く帰った方がいいよって言ったのに」

「うゎーん、先生! まだいた、良かった…」

「仕事が終わんなくてね。君が廊下で蹲っているのが見えたから。雷苦手なんだろう? こっち入って雨宿りしておいで」


 先生は、いつもと変わらないテンションで小部屋に入れてくれた。

 タオルをもらって、ソファに座り、濡れた足先を拭く。

 自分ではない家の洗濯物の匂いに包まれて、ドキドキする。

 校舎が停電してしまっているらしい。薄暗いからと、アルコールランプに火を灯した。


「1/fゆらぎの炎を見ると、気持ちが落ち着く効果があるのだよ」

「先生は、雷が怖くないの?」

「雷雨って、世の中の汚いものを全て洗い流してくれる感じがして、気持ち良くない? あれ、俺だけか」


 不思議、先生といると雷も怖くない。

 これも魔法かしら。

 ほんの少しだけ、いつもより近くに座る。


「いやぁ、レポートの採点作業しようと思っていたのに、ちょっと気になっていた本を気晴らしに読み始めちゃったら止まらないよね、いつもの事だけど」


 先生は、また本を読み出す。

 あれ? 仕事はまた後回しですか?

 安心したわたしは、そのまま時折うとうとする先生を眺めている――

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