前髪が長い彼女は視線が遮られているから気づかれていないと思っているが、俺は常にその視線に気づいている。その視線の意味には気づけない。

風戸輝斗

第1話 その視線はお隣から

「――であるから————で、――――」


 ダ~メだ。


 ぜんっぜん、教師の声が頭に入って来ねぇ……


 なにも、教師が公共の場で口にするのは憚られるような卑猥な単語を羅列しているから自主規制してるってわけじゃない。


 聞こえてるけど、聞こえていない。


 そんな経験、誰しもあるだろ?


「……」


 所謂、話を聞いているフリをしたり、どうでもいい話に耳を傾けてるときに生じるあの現象だ。

 聞こえてはいるけど、理解はできていないと言い換えることもできる。


「……」


 と、ここで話が終われば、俺は一応授業に出席してはいるものの、真面目に授業を受ける気はさらさらないなんちゃってヤンキーという箔をつけられることだろう。


「……」


 だが待って欲しい。


 俺は真面目な生徒だ。


 自称真面目な更生型ヤンキーとかじゃなく、正真正銘、真面目な生徒なんだ。


 ほんとなんだってば。


「……」


 現に、今だって教師の声を聴き取ろうと身体をやや前に倒してるくらいだし、シャーペンの握りすぎで指にタコだってできてる。

 ノートには蛍光ペンのラインが虹みたく踊ってるし、成績だってクラスでは……


「……」


 ……だぁもうッ! 集中できねぇッ!


「どうかしたかな?」


「っ!」


 ちくちくちくちく、真夏の太陽か貴様はァ! と胸の内側では嚇怒、外面は柔和という、恐らく課長あたりなら習得が必至であろうアルカイックスマイルを向ければ、先ほどから三点リーダで紙面を荒らしまくるお隣の視線魔はびくんっと、盛大に肩を跳ね上げた。


 それはもう、気づかれた! と言外に物語るように。


 ……確信犯じゃねぇか。


「……べつに」


 その素っ気なくて、愛想がなくて、お前友だちいないだろ……と言いたくなるような反応は、日比野美織ひびのみおりという視姦魔を端的かつ明瞭に表現するのにこれ以上にないほど適しているように思える。


 ほら、登場一発目から平素のキャラクター造形から大きく外れた言動されたら困るじゃん? 


 だからこれは理想の初登場。さすがだ日比野さん。


 ……あと、視姦って表現は男が女を矯めつ眇めつする際に使う表現ですね。


 ごめんなさい。誤用です。


 ……いや、一概に間違ってるとも言えなくない?


 それはともかく。


 ザ・大和撫子って感じの長く艶やかな黒髪は、うなじはさることながら、額、眉、ひいては瞳、さらには鼻梁まで覆い隠していて、もはやさ〇子の領域である。

 

 深夜に遭遇したら間違いなく逃げ出すね。存在がホラーだよ。


 しかし存在感は薄く。


 というのも、寡黙かつ小柄だからで。


 他に説明することがあるとすれば、春の麗らかな陽気が立ち込める比較的温暖な日であるにも拘わらず、肢体を黒タイツで覆っていることだろう。

 

 ……60デニールかな? 

 ちなみに30デニールあたりからは、ストッキングと判定される。


 男子諸君、タイツはストッキングとは違うのだよッ! ストッキングとはッ!


 ちなみに俺は、断然黒タイツ派です。


 それはともかく。


 重ね重ねになるけど、彼女は日比野美織。


 畏敬か忌避かはわからないけど、みんな日比野さんって呼んでる。


 そんな彼女は、俺の隣の席の住人で。


 そして、授業妨害の常習犯である。


「なに?」


 と、小首を傾げる日比野さん。


 全体的にスケール小だから、こてんとする仕草が小動物染みていて、やたらと可愛く見えるんだ。


「あ、いや、こっちじっと見てたからなにかあるのかなって。……ノート忘れたとか? あ、ノートはあるね。となると……シャー芯なくなって困ってるとか?」


「……」


「えっと?」


 無言で佇まれても困るのですが……


 すると日比野さんは、ツンっと前を向き直して冷淡に言葉を紡いだ。


「自意識過剰が過ぎるんじゃないの? 私、あなたのことを眺めてなんかいないんだけれど?」


「……」


「なに?」


「あ、いや……続きをどうぞ。俺を不満の捌け口だと思って」


「私はそんな畜生じゃないわよ。……纐纈こうけつくんって、私に積極的に話しかけてくるじゃない? あなた、さては私に気でもあるの?」


 なんでそこで顔を向けてくるんですかね?


 声色が神妙なのは俺の気のせいですかね?


「いや俺は――」


 君の視線で困ってるんだよォ!


 とは言えないよな。だって……


「……偶然、視線が重なっただけだよ」


「そう? ならいいけど」


 言って、再度つんっと前を向き直す日比野さん。


「……」


 話しても誰も信じてくれないだろうが、真実なので聞いて欲しい。


 日比野さん、あれだけ俺に視線を送っておきながら、気づかれていないと思ってるんだ。本気で思ってるんだ。いやマジで。あぁやっていつも死地から脱するんだ。


 で、なんでもない風を装って前を向くまでがお約束。


「なに?」


「いや……」


 いやバレてるよ?


 ほら、今だって俺がチラ見しただけでバレてるじゃん?


 しかし、彼女がバレていないと錯覚してしまうのも無理はない。


 なにしろ彼女の瞳は前髪にばっちり隠されているのだから。


 故に彼女は慢心する。


 人体におけるどの部位よりも如実に感情を表出させる瞳。


 そこにシャッターを下ろせば、視線はさることながら、感情さえも悟られることはないのだと。


 そう、強く確信しているだろうから。


「……はぁ」


 ため息をひとつ吐き出し、俺は黒板に目をやる。


「……」


 まったく、なんでこの子はこんなに俺に興味津々なんだろうな。


「……」


 ろくずっぽ話したこともない。挨拶だって時折気分で交わす程度。


「……」


 なのにそんな注目されたらさ、気があるんじゃないかって勘違いしちゃうよ?


 とかなんとか、たかが視線程度で好意の発生を意識しちゃうから俺は実年齢=彼女いない歴で、童貞で、告白されたことがなくて、童貞なんだろう。


 おい、誰だ童貞って二回言ったヤツ。いいだろ、健全で立派じゃないか。


「纐纈、手止まってるが、さてはお前、テキスト忘れたか?」


 と、脳内で童貞蔑みの風潮に異議を唱えていると、教壇から名指しで叱責が飛んできた。


「え?」


「え? じゃないだろ。残りの時間は自習に充てろって言ったろ?」


 そういうことになっているらしい。


「あ、はい。今すぐ取り掛かります」


「お前って、優秀な割に抜けてるとこあるよな」


 失笑は湧き上がらない。みんな、俺の失態など知らんぷりだ。薄情なヤツらめ。


 リュックからテキストを取り出し、せっせとペンを走らせる。


 まったく飛んだ災難だ。まぁこれが日常茶飯事になりつつあるのも事実で……


「……」


「……」


「……」


「……あのさ」


「静かに。日比野集中してるだろ」


「……」


 なんなんだこの理不尽な世界は? 


 視線での妨害は許可されて、口頭での注意は許されないんですかね?


「くすっ」


 隣から笑い声が聞こえた気がしたが、たぶん気のせいだろう。


 ……うん、気のせいだ。そう思わせてほしい。


 だって仮にそうなら、日比野さんは俺をからかって楽しんでるってことだろ?


 俺は、日比野さんが誰かと親しげに話している姿を見たことがない。


 笑っている顔も当然、見たことがない。


 だから、勘違いしてしまいそうになる。


「怒られてやんの」


「誰のせいですかね……」


 なぜか俺にだけ、この子は話しかけてくれるから。


 細められた瞳は見えないけれど、頬はいつだって和らいでいるから。


 ……災難続きの毎日だけど、日比野さんが楽しんでるならいいかな。


 青息吐息で切りかえ切りかえ。


 俺はノートにペンを走らせはじめた。


「……」


 といっても、限度があると思うんです。


 


 





 




 


 

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