第57話 トンネルの中

声をかけてきたのは、ほかでもない理子だ。

病院から第一報をくれたのは理子だったし、当然病院にはいるのだろうとは思っていた。

だが直接理子の顔を見たことで、俺は心底安心した。


もし一人でこの場に座っていたら、俺はどうなってしまっていたのか。

考えるだけでも恐ろしい。


「広哉、ずぶ濡れじゃん。雨の中傘も差さないで走ってきたの?」

俺は声を出そうとするも、喉が言うことを聞かなかったので、首肯しゅこうする。

「ちょっと待ってて、タオル借りてくるから」

理子がその場を後にし、タオルを借りられる場所はないか探しに出た。

理子が去った方は照明が暗めにされていて、不気味なトンネルを連想させた。


柔らかさとはほど遠い革製のベンチに腰掛け、理子を待つ。

急に寒気がして、ブルっと身震いした。


俺の真上では、そこそこ年季が入っていそうな空調が、ブオーンと控えめに音を立てながら、せっせと働いている。


その風が直撃するもんだから、濡れた体はどんどん冷えていく。

どうして病院の空調の温度は、やや低めに設定されているのだろう。

ともかく、理子には早くタオルを持ってきてもらいたい。


完全に他力本願な俺だったが、靴の中では足が悲鳴を上げているし、気力もないので、その場を動こうにも動けなかった。


少しして、理子が1枚の大きめのタオルを抱えて戻ってきた。

「ナースステーションから借りてきた。とりあえずこれで体拭いて」

言いながらタオルを差し出してくる理子に、俺は意気消沈状態で反応できずにいると、見かねて俺の頭をわしゃわしゃと拭いてくれる。


「元気だしななんて、軽々しくは言えないけどさ。これから柚希ちゃんも頑張って回復するんだから、広哉が風邪ひいたり、しょげてちゃだめ。だから、今日はもう少ししたら帰りな。明日も学校でしょ?」


母親のような、それでいて、母さんなら言わないような言葉を言ってくれる。

変に飾った言葉でなく、俺の心にすとんと落ちるような言葉で、理子は言ってくれた。


それがどれだけありがたいかということを、俺は嗅ぎなれない柔軟剤のにおいのするタオルの中で痛感していた。


(俺が弱くちゃだめだ。変わらなきゃ。)


どこかで聞いた言葉がある。

「己の弱さを自覚できた者は、すでに強い。」

その言葉は俺の背中を強く押した。


「…ありがとうございます。俺、古賀さんが元気になって帰ってくるって信じてるんで」

「そう言ってくれると思ってた。じゃあさ、広哉は早く帰って、明日に備えな」

「でも!でも…もう少しだけ、ここにいさせてください。俺は医者じゃないし、何か直接できるわけじゃないけど…けど…そばにいたいんです。ここに」

理子の言葉が、俺のこと、そして柚希のことを最大限に尊重してのものであったことは、十分に理解していた。


でも俺は、その言葉に従って帰りたくはなかった。

柚希のそばにいたいという欲求が、体の奥底から猛スピードで這い上がってきた感覚だった。

そしてその欲求は、言葉となり、そして気迫にまで変貌を遂げた。


「わかった。そんな目されたら、今すぐに帰れなんて言えないな。でも、20時には帰ること!あと、美里には連絡入れて。それが守れるなら、一緒にここにいよう」

「っ…ありがとうございますっ!」

「ちょ、声が大きい…」


俺はすっかり夜の雰囲気に包まれた病院内で、つい大きな声を出してしまった。

注意する理子も、言葉とは裏腹にどこか嬉しそうな雰囲気をまとっている。


この長いトンネルを抜けた先にはきっと、絶景が広がっている。

俺は強く、そう感じたのだった。

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