第9話 学園のマドンナは肩を借りて眠る

「すーすーす、う……ん?」


 肩にかかる渡辺さんの重みと温もりが伝わってくる。髪が首筋に触れるのだが柔らかいのでこよばゆくてムズムズしてしまう。


「……まいったな」


 俺は溜息を吐くと、窓に流れる景色を見た。


 午後になり、釣りを切りあげた俺たちは電車に乗って地元へと戻っていた。


 最初は楽しそうに今日の釣りについて語っていた渡辺さんだが、早朝から活動しているということもあってか、次第にうとうとし始め、ついには舟を漕ぎ始めてしまった。


 無理もない。釣りは意外と体力を消耗する。

 竿を常に動かしているわけだし、時にはずっと立ったままだったりするからだ。

 慣れている俺でも疲れているのだから、初心者の彼女ならとっくに体力が尽きていてもおかしくない。


「えへへへ、また釣れましたよ。相川君。キスです」


 問題は耳元で先程から渡辺さんが寝言を囁いている点だ。

 

 可愛い声で「キス」などと耳元で囁かれると、そう言う意味ではないはずなのに別な意味に聞こえてしまう。


 途中、彼女の横顔を見た際、薄桃の形の良い唇が目に入り、それ以来彼女の方を見られなくなってしまった。


「相川君、もっと、もっとキス(釣り)したいです」


 無邪気な声を出す渡辺さん。今まさに俺の精神力は限界以上にガリガリと削られているところだった。






「ごめんなさい、寝てしまって。相川君も疲れていたのに……」


 地元の駅に到着するタイミングで彼女を起こしてやると、申し訳なさそうに謝られた。


「いや、大丈夫だよ。いつも一人で乗る時も降り忘れないように起きてるからさ」


 至近距離から潤んだ瞳を向けられ、先程まで肩が触れ合っていたことを意識してしまい、どうにも対応に困る。

 起こす時は離れていたので、彼女は普通の態度だ。


「その割には、かなり疲れているみたいですよ?」


 意外と鋭い観察力だ。だが原因が自分だということまでは気付いていないようだ。


「それにしても、キス持って帰らなくて本当にいいの?」


「ええ、私の家では持て余してしまいますし……その、家には……」


 彼女は口元に手を当て、申し訳なさそうな声を出すと、シュンと落ち込んだ様子を見せる。

 渡辺さんも、自分で釣った魚を食べてみたいのだろうが、その言葉には持ち帰ってはいけない事情のようなものが含まれていた。


「まあ、気にしないでよ。幸い、どれだけあっても消費するアテはあるからさ」


 イナダ二匹にシロギス二十匹。それなりに多いが、相沢なら喜んで食べるに違いない。


「男の子って一杯食べますよね。先程も、サンドイッチ全部食べてもらえて嬉しかったです」


 渡辺さんは両手を前で合わせると、嬉しそうに、施設での食事の光景を思い返していた。

 どのサンドイッチも、渡辺さんが手間暇をかけて作ってくれたことを考えれば、残すなどという選択肢はありえなかった。

 最後の一つまで美味しくいただいた。


 そんな風に、地元の駅で立ち話をしていると、周囲の視線を感じる。

 駅前で、釣りの装備を持っている俺と、美少女の渡辺さんが会話をしているので目立つのだろう。


 時刻は休日の夕方ということもあってか、多くの人が行き交っている。

 彼女は帽子を被っているので、学園の連中に見られて即結び付けられることはないと思うのだが、時間が経てば学園のマドンナと気付く人間もいるかもしれない。


 そうなると、俺たちが一緒にいることを不審がられる可能性がある。


「それじゃ、今日はここで解散にしようか」


 疲れて電車で寝てしまったくらいだ。渡辺さんも早く家に帰って休みたいだろう。俺は会話を切り上げた。


「ありがとうございました。今日はとっても楽しかったです」


 渡辺さんはそう言うと、丁寧な様子で頭を下げる。


「いや、楽しかったのはこっちもだよ。今まで釣りは一人でやるものだと思ってたけど、誰かと一緒にする釣りというのも楽しいもんなんだな」


 気が付けば、過去にあった嫌な記憶が片隅に追いやられていた。


「じゃあ、また……」


 続きを言葉にすべきか躊躇う。彼女と俺の関係は学校外でのもの。俺自身、釣りに関しては広めたくないし、彼女と交友を持っていると知った人間が興味もないのに釣りについて触れてくるのも嫌だった。


 そのことが顔に出たのか、渡辺さんは柔らかい笑みを浮かべると、


「また、一緒に釣りに行きましょうね!」


 俺の意を汲み、そう返事をするのだった。






「さーて、今日もめしめしっと」


 いつものように、相沢がペットボトルを二本持ち、席まで来て昼食を摂り始める。


「今日は、イナダの炊き込みご飯と竜田揚げだ」


「おおおおっ! 相変わらず美味そうだな」


 俺がメニューを告げ、弁当箱の蓋を開けると、相沢は感動の声を上げた。


「今回は、県をまたいで遠征してきたからな。美味いことは保証するぞ」


 家で味噌汁にいれたり、一通り試したのだが、産地直送で脂が乗っていてとても美味しかった。

 相沢は一心不乱に俺が作ってきた弁当を食べている。


 そんな相沢を見ながら、俺は楽しかった釣りについて考えていると……。


「そう言えば、今回はこれだけ? 相川ならもっと数種類の魚を釣ってるのかと思ったんだけど?」


 普段、長時間釣りをして、時間帯によって仕掛けを変えているので複数の魚種を釣ることが多い。弁当の中身がイナダだけということに、相沢は引っ掛かりを覚えたようだ。


「まあ……釣れたんだけどな」


「えっ? 何が釣れたんだ?」


「シロギスが……二十匹程」


「なんだよ、キスのてんぷらはないのか?」


 俺が白状すると、相沢は「なぜキスがないのか」言及してきた。


「悪い、そっちは週末で消費してしまったんだよ」


 俺は素直に、既に食べてしまったことを告げる。


「ふーん、釣りで食べ飽きている相川が思わず食べきってしまうなんて、余程そのキスが美味かったんだな?」


 残念そうにしながら、それでもイナダの竜田揚げに箸を伸ばす相沢。


「まあ、特別な味がした……かな?」


 渡辺さんが釣ったシロギスを、何故か譲る気にならなかった理由。そのことに首を傾げるのだった。

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