なにも聞こえない。

 なにも聞こえない。なにも見えない。溶けた闇が淀んで沼となっている。その水底に沈んでいた意識が、ふいに力ずくで引っぱりあげられた。

 ぱっと目を開けて数舜ののち、ノアは貪るように空気を吸った。胸の鼓動が早鐘のように打っている。顔中に濡れた感触。それを手で拭おうとしたノアは自分が床に横たわり、両腕を背後に回して拘束されているのに気づいた。身につけていた革鎧が脱がされている。綿のシャツとズボンだけの、心許ない姿。

 あたりを見回す。どこかの薄暗い部屋。隅に窯があり骸炭が煌々と燃えている。鍛冶場だろうか。そのせいで室内はやけにあたたかかった。


「目が覚めたか」


 誰かの声。ノアがそちらへ首を回すと、漆黒の生地に金糸の縫い取りがされたローブを着る大男が見えた。隣には空の木桶を持った強制収容所の警備隊員がひとり。気を失っていたノアは、そいつに桶の水を浴びせられて意識を取り戻したのだ。


「立たせろ」


 ローブを着た男が命じると、警備隊員はノアの見えないところまで歩いた。

 滑車の回る音。そして鎖がじゃらじゃらと鳴って、倒れているノアの腕が上へ持ちあがった。手枷に鎖が繋いであるのだ。関節が妙なほうへ曲がり、ノアは苦痛に呻く。肩が抜けそうだ。身を起こし、膝立ちの姿勢をとったがさらに腕は引きあげられ、とうとう彼はふらつきながら立位とならざるをえなくなった。


「おまえは何者だ」


 ローブの男がノアへ近寄り、顔を覗き込むようにして問うた。

 ノアは答えない。すると警備隊員がいきなり後ろから彼の右脇腹へ拳を叩き込んだ。二発。肝臓のあたりに激痛が走り、ノアはしばらく息ができなくなった。


「総督の質問に答えろ!」


 耳元で怒鳴られたノアは顔をしかめる。しかし彼は警備隊員のほうへは目もくれず、正面のローブの男へ向かって、


「あんたこそ誰だ」

「ほう、ずいぶんと肝が据わっているな」


 薄く笑ったローブの男はそう言って、部下へなにごとか目配せした。

 警備隊員は制服の上着を脱ぎ捨てると、てきぱきとした動作で指示に従った。鍛冶場の壁際にあった机を引きずってきてノアの前へ据え、つづいて地べたに置いていた大きな麻袋をその上に載せる。

 麻袋の口を開き、警備隊員がなかへ手を突っ込む。さまざまな道具がノアの目の前に並べられはじめた。数々の刃物やノコギリ、玄翁、針の束。それらはどれも古びて錆びていた。加えて、どす黒い汚れがべったり付着している。なにがはじまるのかはすぐにわかった。拷問だ。

 さしものノアも顔が青ざめる。そうして警備隊員が最後に麻袋より取り出し、机に置いたのは、妙な形をした金属製の棒だった。

 ノアがじっと見ている金属の棒をローブの男が取りあげ、彼の目の前へ突きつけた。


「これは猫の陰茎という。使い方を教えてやろう──」


 わずかに反った長さが二〇センチほどのそれは、先端が細く丸みを帯びており、持ち手のところ以外にびっしりと細かな棘が生えていた。


「こいつはきついぞ。まず、これをおまえの尻の穴へ挿し込む。ああ心配するな、挿れるときにはオリーブオイルをたっぷりと塗ってやる。それほど痛くはあるまい。しかしよく見てみろ、これには逆棘がたくさんついているだろう。よって抜くときには、その棘のひとつひとつがおまえの直腸を容赦なく切り裂いて、地獄の苦しみを味わわせるのだ。直腸の傷はなかなか癒えんぞ。そうなったら当分、糞も満足にひり出せない身体になってしまう。わたしの経験上、猫の陰茎に犯られた者は、どいつもいっそのこと殺してくれと泣いて懇願してくるんだ」


 悪趣味の極みだ。それが自分に使われるところを想像したノアは、気分が悪くなって凶悪な拷問道具から目を逸らせた。

 そんなノアをローブの男はたのしげに眺めている。抵抗できない者への優越感に浸り、醜悪に顔を歪ませる異常な加虐性愛者。

 ノアは眼前の男を歯がみしながら睨みつけた。さきほど、警備隊員は彼のことを総督と呼んだ。ではこいつがローゼンヴァッフェの言っていたランガー総督にちがいない。


「そう恐い顔をするな。おまえが協力すれば、痛い思いをしないですむ」


 ランガーは猫の陰茎を机に戻すと、やわらげた声でそう告げた。


「協力とは?」


 とノア。


「質問に答えるだけだ。なにをしにここへきた」

「……頼まれた」

「誰に?」

「イシュラーバードのドワーフだ。マッチムト鉱山で働いていた家族が、強制収容所に捕らえられているかもしれないと──」

「うそを言うな」


 ランガーがノアの顎を摑んだ。そして無理矢理に自分のほうを向かせると、じっとその目の奥を覗き込む。


「ならば、なぜ地下の作業場を探っていた? おまえの目的はハイリガーレイヒャーのはずだ」

「ハイリ……なんだ、それは」

「とぼけるな。言え、誰の命令でここへきたのだ。オーリアか、それとも魔術協会か」


 ノアは頭を振ってランガーの手から逃れた。頑ななノアだったが、ランガーは別段、その態度に腹を立てた様子もない。


「簡単にはしゃべらんか。それならそれでいい。こちらもせっかく手道具を用意したのだからな。いくつか体験してもらおうじゃないか。そうだな……最初は、これにするか」


 ランガーが拷問道具を並べてある机から取りあげたのは、先端部が小さな輪になって閉じる特殊な鉗子だった。ノアはそれに見覚えがあった。家畜を去勢するとき、睾丸を捻って引きちぎるための器具だ。

 警備隊員が背後からノアをがっちりと押さえつけた。つづいてランガーの手が、ノアのズボンの腰紐にかかる。


「やめろ!」


 必死で抵抗するノア。しかし両手を縛られた状態では身をよじるくらいしかできない。まもなくズボンを膝までずりおろされ、下半身が露わになる。そして冷たい去勢用鉗子が、ノアの股間に触れた──


「そこまでにしておきなさい、ランガー総督」


 声がしたのは鍛冶場の出入口のほうからだ。

 その場にいる三人ともが、ほぼ同時にそちらへ目をやった。すると黒いケープをはおった女が腕を組んで戸口にもたれて立っていた。

 女の姿を見た途端、娯しみを邪魔されたランガーは不興顔となる。


「ナーゲルか。なにをしにきた」

「若い男は貴重な働き手よ。あなたの趣味で潰すような真似は許しません。ただでさえ人員不足で工期が遅れているのに」

「こいつは密偵だ。どこの手の者か吐かせる必要がある」

「彼はノア・デイモン。オーリアの国王騎士よ」


 ナーゲルの言葉を受け、ランガーはあらためてノアを見た。


「なぜ知っている」

「昔、ちょっとね」


 そう言ってナーゲルは鍛冶場に足を踏み入れてきた。彼女は囚われの身となっているノアのところまでくると、つまらないものでも見るようにして、


「いずれにせよ、この男はもうわれわれの捕虜よ。拷問ならいつでもできる。いまはそれより、どこからハイリガーレイヒャーの情報が漏れたのかを調査するのが先決だわ。先日の収容所から脱走者を出した失態に加えて、機密漏洩となれば、あなたの総督としての責任が問われる事態になるわね」

「それは脅しか?」

「いいえ、とんでもない。だけど干渉されるのがいやなら、ただちに内通者を洗い出しなさい。そしてわたしに報告するのよ」


 舌打ちするランガー。そして彼は持っていた去勢用鉗子を床に投げ捨てた。


「特別扱いの〝黒〟とて、あまり調子に乗らんことだ。ここは本国ではない」

「言葉に気をつけなさい。わたしに命令できるのは皇帝陛下だけよ」


 興を削がれたランガーはナーゲルの横を素通りし、そのまま鍛冶場をあとにした。警備隊員もそれにつづく。

 ふたりきりになった。ノアは自分の近くにいる女へ複雑な目を向けた。

 ノアは、ランガーがナーゲルと呼んだ彼女を知っていた。出会ったのは三年前だ。神聖王国オーリアで神隷騎士団が叛乱を起こした当時、ナーゲルはクロエという名前でオーリア正教会へ潜入していた。修道女として身分を偽り。ノアはそのとき、神官王の世話係であるクロエに近づくようマントバーンから命ぜられたのだった。以後、彼らはそうと知らぬまま、騙し合うために互いを利用した。そして政変後、クロエは帝国へ戻り、ノアはオーリアを追われた。

 出会いの形からして報われないふたりだったといえる。ノアのほうはクロエに想いを寄せていたが、いまとなっては忘れかけた出来事だった。


「無様ね、ノア」


 とクロエ。


「ナーゲルだと──それがいまの名前か」

「さあ、どうかしら。それより、なぜあなたがこんなところへきたの」


 金色の髪。灰色の瞳。声さえも、クロエは三年前とほとんど変わりがなかった。ノアは記憶のなかから抜け出てきたような彼女をじっと見つめながら、


「拷問のつづきか?」

「ふざけないで。真面目に訊いてるのよ」

「おまえに会いにきた」


 それを聞いたクロエはあきれてノアから顔を背けた。


「冗談を口にする余裕はあるみたいね」

「これを外してくれないか。そうしたら話す」


 ノアは言いつつ、腰の後ろにある両手にはめられた枷を揺すった。しかし、


「だめよ」


 クロエは冷たく突き放す。そして彼女はノアに背を向けた。


「おい、助けてくれないのか」

「今日だけであなたを二度も助けたのよ。しばらくそうしてなさい」


 ひらひらと手を振り、歩み去るクロエ。ノアはあわてた。


「待て。せめてズボンくらい履かせてくれ」


 追いすがるような顔をしたノアが言い終わる前に、鍛冶場の扉は閉じた。

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