ノアは早朝より行動を
ノアは早朝より行動を起こした。ローゼンヴァッフェに見送られて〈夢の国〉亭を出た彼は、まず馬の預かり所で自分の馬を引き取ってから、それに荷を積み、街の北側の門より外へ出てマッチムト鉱山がある火山を目指した。
イシュラーバードの北は回廊地帯である。そこは大昔、峡谷に大量の溶岩が流れ込んでできた奇跡的な平地だった。南北に渡る長さは約八〇キロほどで、幅は二五キロ足らず。最北はマグナスレーベン帝国の国境と接しており、南端にイシュラーバードがあった。
最小限の山越えで険しいハイランドの山脈を抜けられる、唯一の捷路。帝国が欲しがるのも無理はない。人間たちはそこをセイラム回廊と称したが、過去にマグナスレーベンとたびたび衝突していたドワーフ族からは帝国の墓場、もしくはクーデルの金床と呼ばれている。クーデルはデルトイド三柱神の末妹で運命を司る冥府の神である。たしかにセイラム回廊は鳥のように空を飛んで真上から見れば、巨大な金床の平らな部分に似た形をしていることだろう。
その日、火山は煙を噴いていなかった。天候は快晴。抜けるような青空だ。セイラム回廊を取り囲む山々を見あげると、はるか上の山嶺には雲がかかっていた。
イシュラーバードを発ったノアは回廊を縦断するように北上した。するとまもなく行く手を遮る川に差しかかった。流れる水は氷河が融けたものだ。わずかに濁っていて、川面に白いさざ波が立っている。水深は深くないと見えたものの、向こう岸までは二、三〇メートルはあるだろう。老朽化してあぶなげな人道橋がかけられている。そのまま橋を渡れば北のマグナスレーベン帝国へ、川に沿って東へ進めば、問題の火山へと至る分岐点だった。
ノアは橋の手前で馬の歩みを止めると考えに耽った。危険な任務へ身を投じるか、それともすべてを捨て去って新たな人生を求めるのか。いまならまだ間に合う。のるか反るか、ここが分かれ目だ。
しかしいくら考えても、なかなか踏ん切りがつかない。よって、ノアは自分の行く末を運に委ねることにした。
携えていたコイン袋に指を入れ、最初に触れた一枚をつまみ出す。それはオリオン金貨だった。きらめくコインには表にマントバーンの横顔、裏には鷲の刻印がなされている。
ノアは右手の親指で金貨を弾いた。空中でくるくると回転するそれをキャッチして、左手の甲へ押しつける。表が出れば火山へ向かう。裏が出たなら、ローゼンヴァッフェには悪いがこのままどこかへ姿をくらませる。
さあ、どっちだ。ゆっくりと伏せた手をあげる。すると現れたのは、オーリアに生息する猛禽類の姿だった。
決まった。ノアは思わず相好を崩した。マントバーンとの悪縁も、ようやくここで途切れたようだ。
そのときだった。突然、ノアの頭のなかに声が響いた。
『デイモン、聞こえるか』
ローゼンヴァッフェが念話石を通じてテレパシーを送ってきたのだ。
姿がなく、声も聞こえないのに誰かから話しかけられるという違和感に、ノアは戸惑った。馬上の彼は身体をひねると、馬の尻の上に置いていた荷物のなかから念話石を取り出した。使い方はローゼンヴァッフェにあらかじめ教えられていた。ただそれを手に持ち、念ずればよいのだ。そうすれば対となっている念話石を持っている相手と、テレパシーで会話ができる。
「聞こえるぞ。なんだ急に。おどろかせるなよ」
とノア。
『すまんな。いまどのあたりだ?』
「セイラム回廊にある川に着いたところだ」
『そうか。そこから川沿いに東へ進めばいいんだ。迷うなよ』
「だいたいの地形は頭に入れてある、心配するな」
声に出して言いながら、さすがにノアの心はちくりと痛んだ。いましがた役目を放り出して、とんずらすることを決めたばかりである。
「そんなことで念話石を使ったのか。こいつはエーテルが切れると使えなくなるんだろう?」
『ああ、実はおまえに言い忘れたことがあってな』
「なんだ?」
『おまえ、オーリアのラクスフェルドに家族がいるそうだな。親父さんは元気でやっているから心配するなと、おれの雇い主から言伝を頼まれた』
それを聞いたノアの目が、すっと細くなった。
「……どういう意味だ」
『待て待て、落ち着け。おれはただ、おまえにそう伝えろと指示されただけだ』
ローゼンヴァッフェの言うオーリアの雇い主とは、誰だ。マントバーンか、ハートレイ将軍か。いや、誰でもいい。それよりもなぜいま、わざわざ父親の安否などを知らせてくるのだ。
ノアの心がざわついた。これは警告だ。妙な気を起こして逃げ出したりすれば、ラクスフェルドの父親に危害が及ぶという。
ノアは姿の見えない誰かに逐一監視されているような不気味さを感じた。同時に、汚いやり方で人を屈服させるオーリアへ怒りを募らせた。
『なあ、悪いことは言わん。ここはおとなしく従っておけ。──にしてもデイモン、おまえ、ほんとうになにも知らなかったんだな。よく聞け、おまえをここへよこしたのは、一〇人委員会の調査室だ。使い捨ての要員を雇って他国の情勢を探ったり、汚れ仕事をさせるオーリアの秘密機関だ。いいか、よく考えてみろ。そんな連中に逆らっても無駄だぞ。命がいくつあっても足りやしない』
黙ったままのノアを案じたのか、ローゼンヴァッフェがテレパシーを送ってきた。ノアには相手の顔は見えなかったが、こちらを哀れむような心情が汲み取れた。
「わかった。あんたの雇い主とやらに伝えておけ、言われたことはやるとな」
『それがいい。では、またあとで連絡する』
頭のなかの声が途絶えた。
ノアは手に持っていた念話石をひとしきり見つめてから、それを地面に叩きつけようと腕を振りかぶらせた。が、寸前で思いとどまる。そんなことをしてどうなる。念話石がなくなれば、ローゼンヴァッフェと連絡が取れなくなる。困難な任務がより一層、達成から遠のくだけだ。
残念ながらノアの目論見はご破算になった。挫折感に苛まれながら、彼は仕方なく馬を東に向かわせた。
とぼとぼと歩むノアと馬の上空では、一羽の大きな鳥が旋回していた。イシュラーバードを出たあたりから、ずっとついてきている鳥だ。腐肉食の鳥。こちらを餌だと思っているのかもしれない。
食われてたまるか。おれはまだ死んじゃいない──
屈辱、悔恨、疑心暗鬼。ノアは胸中に渦巻く負の感情を噛みしめながら、否応なしで難局へと突き進む。必ず帰る。そして安全な場所から自分を操っている連中に、相応の代償を払わせてやると、それだけを考えながら。
セイラム回廊を東より抜け出ると、急に道が険しくなった。そこからはローゼンヴァッフェにもらった地図に頼った。地図には溶岩隧道までの道のりが詳細に描かれてある。しかしそれでも山岳の道筋をゆくのは骨が折れた。火山礫の積もった斜面がほとんどで、平坦な道はなかったからだ。
マッチムト鉱山がある火山の麓へたどり着いたのは、太陽が中天に差しかかろうとするころだった。そこではごつごつした黒っぽい岩ばかりの風景が果てしなく広がる。有機物の堆積がほとんどないため、たまに目に入る植物といえば苔くらいだ。生命の繁茂が許されない自然界の辺土。その北東にある火山へ向かって緩く傾斜する斜面の途中に、ぽつんと塚のような岩の盛り上がりがあった。溶岩流の内部から、ガスとともに溶岩が地表へ噴き出した跡だ。それが溶岩隧道の入口だった。
基部にぽっかりと穴が口を開けている。馬を降りたノアがそのそばに立つと、穴は人が出入りするのに十分な大きさである。覗き込んだが、陽の光が奥まで射さないため、なかは暗くてよく見えなかった。底はおよそ三メートルほど下だろう。
ノアは馬の馬具を外しにかかった。こいつはもう用なしだ。裸馬にしてやってから尻を叩くと、馬は何度かノアのほうを振り向きながらどこかへ歩み去った。帰りは徒歩になるが、仕方がない。
つづいて荷物からロープを取り出したノアは、それを岩の塚の周囲にぐるりと二周させたあと、端をきつく結んで外れないよう固定した。もう一方のロープの端は荷物を入れた背嚢にくくりつける。その背嚢を先に下へ降ろし、そして垂れたロープを頼りに自分も穴に入った。
溶岩隧道の内部はノアが想像していたよりもずっと広かった。側面の壁には、溶岩の流れた跡が筋になって残っているのがわかった。上を仰ぐといま自分が降りてきた穴が見える。ロープがなければ登れないほどの高さである。その周辺の天井には高熱で溶解した玄武岩が、おびただしい数の溶岩鍾乳となって垂れさがっている。まるで黒いつららだ。
洞窟内にはなんの気配もなかった。ひんやりとした空気。革鎧の上に外套をはおっていた軽装備のノアは、思わず身震いした。左右の幅は四、五メートルといったところ。ローゼンヴァッフェの話によると、溶岩隧道の大きさは溶岩の素となっている岩石の種類と、その粘度で変わってくるらしい。ノアはしばらく、いま自分のいる地下トンネルが自然にできたものだという事実に感心していたが、やがてロープを解いた荷物のなかから角灯を取り出して火を点けると、奥へと進みはじめた。
溶岩隧道の出口は火山の中腹にあり、そこまでの距離は概算で一キロ強と踏んでいた。だがトンネルは終いまでいまの広さとは限らない。その予想どおり、隧道内の幅はノアが進むにつれて狭まってきた。かと思えば、急に天井が足下から十数メートルはあろうかという巨大な空間が現れたりと、内部の様子は一様ではない。
この状況でこわいのは方向感覚を失って迷うことだ。慎重を期すノアは分かれ道に差しかかるたび、自分がきた方向の地面に石を積んで目印とした。しかしそれでも暗闇のなかで長時間を過ごしていると、不安に駆られはじめる。
これまででいちばん狭く、這って進まなければならないほどの区間を過ぎたあと、ノアは小休止を取った。水分を補給し、果物の乾物で小腹を満たす。もうどちらの方角へ進んでいるのかは完全にわからなくなっていた。だがそれでも進むしかない。ノアは重い腰をあげ、ふたたび足を動かした。
このあたりは天井が高く、立って歩けるほどだった。と、なにか音が鳴った。立ち止まったノアは手に持つ角灯を足下へ向けた。ブーツを履いた足をどかして、地面を見る。すると、小さな動物の骨があった。それを踏んだのだ。骨は大きさからしてウサギか、それに近い小動物のものだろう。
その場で立ち尽くしたノアは、真っ先にローゼンヴァッフェの言っていたトロールのことを思い出した。緊張し、耳をそばだてる。
なにも聞こえなかった。しかし、ほんのかすかに生臭い匂いがするのに気がついた。
ノアは角灯と背嚢を地面に置くと、そこから夜目の魔術スクロールを取り出した。結い紐を解いてから、丸めてあった紙を広げる。そして目を閉じて念ずる。スクロールを持つ手に、エーテルが励起するちりちりした感触。スクロールに封じてあった呪文が発動した。つぎにノアが目を開けたとき、彼は暗闇を見通せる〝夜目〟の能力を得ているはずだ。
ノアはやおら目を開けた。そうして、彼は息をのんだ。
そこはいびつに拡がった場所だった。一面に数えきれないほどの骨が散らばっている。先ほど見たような小さな骨のほかに、山羊かなにかと思われる頭蓋骨もあった。まちがいない。ここはトロールの食餌場所だ。
ぽきりと、木の枝が折れたような音が背後で鳴った。骨を踏み砕いた音だ。さっとそちらへ振り向くノア。夜目の能力を得ているあいだは、視界が灰色のモノクロームに見える。ちょっとした広場になっているここは、ノアが入ってきたのとは別にもう一本の道筋と合流していた。そこに、トロールがいた。骨の散らばる地面に蹲っている。四つの目──いまのノアには白い光点に見える──が、こちらを見つめていた。
二匹のトロール。いや、ちがう。身体はひとつだ。胴体の上にふたつの頭が並んでいるのだ。溶岩隧道に住み着いていたのは、双頭のトロールだった。
強力な再生能力を持つトロールは、まれに異形のものがいる。このトロールも本来は通常の外形だったのだろう。しかし餓えて共食いでもしたのか、二体のトロールによる殺し合いの末、どちらかの頭部がもう一方の身体にくっついてしまったにちがいない。トロールは身体の一部分が切断されても、その部位はしばらく生きつづける。もしそれが同じトロールの因子を持つ肉体の傷口に触れれば、即座に癒着してしまうのだ。
異常な生命力を持つトロールとの遭遇。最悪の状況に陥ったノアはどうするべきか迷った。
戦って勝てる見込みはない。では逃げるか。しかしそうするにしても、なにか足止めの方法があるかもしれない。ノアの背嚢のなかには盲目、透明化、そして酸の矢の魔術スクロールがある。ローゼンヴァッフェが見繕ったものだったが、いずれかを使えば逃走の成功率は格段にあがる。
いまノアから六メートルほど離れたところにいるトロールには動きがなかった。こちらに気づいていないということはあるまい。トロールには生得的に暗視能力がある。おそらく相手も、ふいに現れたノアに戸惑っているのだ。
睨み合いの状態。ノアはゆっくりと、背嚢にある魔術スクロールへと手をのばした。が、それが両者の均衡を崩してしまう。
トロールのふたつの頭が同時に咆哮をあげた。立ちあがると、そいつはノアの二倍ほどの背丈があった。牙が並んだ口を大きく開け、威嚇しつつノアへと走り寄ってくる。
ノアは足下に置いてあった背嚢の負い紐を摑むと、身をひるがえして駆け出した。そうするしかなかった。この食餌場所の奥には、もうひとつ道筋が分かれている。ノアはなにも考えずにそちらを目指した。
地面に散らばった骨に足を取られ、走りにくい。巨体のトロールは見てくれに反して俊敏だった。徐々に足音が背後に迫ってくる。ほぼ一本道のトンネルで、いつまで逃げられるか。
こちらへきたのは失敗だった。やってきた道を引き返し、大柄なトロールが入り込めない隧道の狭いところへ逃げればよかったのだ。走りながらノアは後悔するが、もう遅い。しかし、運は彼に味方した。
果てがないと思われた行く手に、光が見えた。出口にちがいない。
いきなりノアの首が締まった。トロールが背後から彼の外套を摑んだのだ。ノアは羊毛の貫頭衣からあわてて頭を抜いた。トンネルの出口は登り坂だ。死に物狂いでそこを駆けあがる。あと少し。なんとか野外の広い場所に出ることができれば、状況が変わるかもしれない。
もはや無我夢中で駆けるノア。後ろを見る余裕などなかったものの、トロールが間近にいるのはわかった。相手の息づかいと、獣じみた匂いさえもが感じられる。
外へ出た。そこは溶岩隧道の入口があった場所と似たような黒い岩の荒野だった。左手が急斜面になっている。ノアは迷わず岩肌に跳びつくと、手と足を使ってよじ登りはじめる。図体のでかいトロールは身が重い。うまくすれば逃げ切れるはずだ。
だが登りはじめてすぐ、ノアは自分の命運が尽きたのを悟った。左の足をトロールに摑まれた。鉤爪がブーツの革を裂き、足首に激痛が走る。
顔を歪めたノアが下を見おろすと、醜悪なトロールと目があった。ノアは右手と右足で身体を保持しつつ、左手で腰間に吊ったショートソードを抜く。溶岩隧道のなかでは長物が不利だろうとして持ってきた武器だったが、それが災いした。短い刃渡りなため、この状況では下にいるトロールに剣先が届かない。
トロールが力を込めてノアの足を引っぱりはじめた。ノアは斜面の岩肌に全身をへばりつかせたが、それもむなしい抵抗だった。まもなく彼が足をかけているもろい多孔質の岩が、割れて崩れた。
落ちる。瞬間、恐怖によりノアは冷水を浴びたような心地を味わった。その下では、腹を空かせた双頭のトロールが彼を待ちかまえていた。
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