街の正門横にある通用口を

 街の正門横にある通用口をくぐると、途端に猥雑な光景が広がった。

 薄汚れた帆布の天幕がずらりと並び、その隙間を人々が埋めていた。露店市場だ。そこで売られているのは食料、衣類、日用品、金物、工芸品──なんでもあった。

 人混みに分け入ると、肉を焼き、蔬菜を煮炊きする匂いがどこからか流れてきた。独特な香辛料の香りが鼻をつく。耳に入るのは共通語、帝国語、ドワーフ語とさまざま。店の呼び込みや値引き交渉が、ほうぼうでやかましく行われている。少し前まで無人の荒野をさまよっていたノアは、その異様な活気に圧倒された。

 大きな市場を横切ると土壁の建物が密集する街区となり、やっと喧噪から逃れることができた。

 イシュラーバードの街は画一的で素朴な作りの建築物によって構成されている。幅の広い通りが縦横に走ってはいたが、そこから外れると迷路のような路地である。長い年月をかけ、修繕と継ぎ足しとで膨らんだ街。ここでは主に人間とドワーフ族が、合わせて五〇〇〇人ほど住んでいる。

 日没が近い。ノアは埃っぽい街を徘徊し、〈夢の国〉亭という冗談みたいな名前の酒場を探した。そこである人物に会うのが、彼の当座の目的だった。

 相手の名はヨアヒム・ローゼンヴァッフェ。長ったらしくてへんな名前だとノアは思った。その男がハートレイ将軍の言っていた協力者であり、いまのところノアの唯一の頼れる味方だった。

 信用に足る人物なのかは、考えても仕方がない。会えばわかる。もうオーリアから遠く離れたハイランドまできてしまったのだ。腹をくくるしかなかった。

 何人かの通りすがりの者に尋ね、ようやく〈夢の国〉亭が見つかる。

 砂色の外観をした二階建ての店だった。なかに入ると一階は酒場と食堂が兼ねてあり、吹き抜けとなっている二階の回廊に宿泊用らしき個室の扉が並んでいた。見たところ部屋数は十に満たないため、宿としては小さいほうだ。店内では年老いた男性三人がテーブルを囲んでいるだけだった。まだ混む時間ではないのだろう。

 背負い袋を肩に引っかけたノアは、カウンター席の向こう側にいる亭主のところまで歩いた。


「すまない。ここにヨアヒム・ローゼンヴァッフェという男がいるはずだが」


 そう告げると、ひげ面をした亭主の表情があからさまに警戒するものに変わった。


「あんた、借金取りかい?」


 うろんな目でそう訊いてくる。


「なんのことだ。おれはローゼンヴァッフェと約束があってこの店にきただけだ」

「へえ……じゃあ、あいつに滞ってる宿賃を支払うように言っとくれよ。未払いのまま、ずっと長逗留されて迷惑してるんだ」

「わかった」


 亭主から二階の階段にいちばん近い部屋だと教えられ、ノアはそちらへ向かった。

 薄っぺらい木の扉の前に立ち、拳で何度か叩いた。が、応答らしきものはない。扉には鍵がついていなかった。ノアは迷うことなくそれを開けた。

 手狭な室内。視界がほの白く煙り、甘ったるい焼き菓子のような香りが充満している。寝台と衣装棚、書き物用の小卓──備品はそれしかない。察するに、いちばん安い個室にちがいなかった。だが私物とみられる書物が随所で高く積みあげられ、山となっている。

 寝台にはその上で寝そべって、古びた革表紙の本を読むのに没頭している男がひとり。彼は寝台の傍らに置いた水煙管の壺からのびる、細長い管の先を口にくわえていた。壺の上には火皿があり、糖蜜で固めたたばこの葉が炭で炙られている。室内の煙と香りはこのせいだ。

 壺の水をくぐったまろやかな煙を管から吸い込んだ男が、大量の紫煙を鼻と口から吐き出した。そして彼は開口一番、


「カネならないぞ」

「おれは集金人じゃない」


 言って、部屋のなかへ入ったノアは後ろ手に扉を閉じた。


「じゃあ誰だ」


 ようやく男が本から顔をあげ、ノアのほうを見る。くすんだ錆色のローブを着ている彼は、どうやら魔術師のようだ。背中までのびているであろう黒いくせ毛の長髪はぼさぼさ。肌は生っちろく、いかにも不健康そうだった。


「どんぐり」


 唐突にノアが言った。相手の男は怪訝に眉根を寄せたが、ややのあと、


「……あ~、アーメット」


 あらかじめ決めておいた合い言葉である。どんぐりと騎士の兜はオーリア王国の紋章だ。

 ノアはあらためてローゼンヴァッフェという男をまじまじと見つめた。


「あんたがローゼンヴァッフェか」

「そうだが、そっちは?」

「ノア・デイモン」

「デイモン? へんな名前だな」


 鼻を鳴らして笑ったローゼンヴァッフェは本を閉じ、寝台で身を起こした。


「まあいい。イシュラーバードへようこそ。突っ立ってないで座ったらどうだ」


 ノアは言われたとおりにした。背負い袋を床の空いた場所におろすと、小卓の椅子に積んであった本をどかしてそこへ座った。


「おれはなにも知らないままここへきた。まず話を聞こうか」

「そうあわてるなよ。──なんだ、もうこんな時間か」


 とローゼンヴァッフェ。部屋の窓の外では、空が残照でオレンジ色に染まっていた。


「デイモン、腹は?」

「減ってる」

「よし。じゃあ飯だ」


 ノアとローゼンヴァッフェは連れだって一階へ降りた。そして〈夢の国〉亭を出て、わざわざ少し離れた場所の食堂へと足を運んだ。ローゼンヴァッフェによれば、〈夢の国〉亭で出されるものは食えた代物じゃないとのこと。

 訪れた食堂は客で賑わっていた。ふたりは店の奥の、壁で仕切られ半個室となっているテーブルに着いた。勝手がわからぬノアはローゼンヴァッフェに注文を任せ、まもなく女ドワーフの給仕が料理を運んできた。根菜類のシチュー、なにかの穀粉を焼いた平べったいパン、マリネした肉の串焼きなどが、つぎつぎとテーブルに並べられる。

 まともな食事はひさしぶりだった。ノアは食欲に促されるまま料理にがっついた。

 早食いもいいところだ。テーブルをはさんだローゼンヴァッフェは、呆気にとられている。それにノアが気づいた。


「おれがめずらしいか?」

「いい食いっぷりだ」


 と、苦笑しつつローゼンヴァッフェ。


「ここへくる途中、飢え死にしかけたからな」

「味はどうだ。しょっぱいだろう」

「ああ。かなりな」

「鉱夫向けの味付けだ。おれはもう慣れたが」

「鉱夫って、人間のか?」

「人間とドワーフ、どっちもだ。イシュラーバードじゃまともな仕事といえば鉱夫しかない」


 串焼きの串に残ったソースを唇でこそげ取ったノアが、店内を見渡す。

 ほとんどの席が埋まっていた。しかし目につくのは人間ばかりだった。四角い体型のドワーフは、ちらほらとしか見えない。


「ここはドワーフの土地らしいが、人間のほうが多いんだな」


 とノア。


「棲み分けができてるのさ。人間はオーバーワールド地上、ドワーフはアンダーワールド地下という具合にだ」

「実際にはドワーフのほうが多いのか?」

「そうだな。地上に出ているドワーフは、ほとんど街の運営に携わる者たちだ。あと、地下で鉱石を掘るのに飽きた若いドワーフなんかが、たまに上へあがってくる」


 若いドワーフか。ノアは今日の昼に出会った四人のドワーフたちを思い出した。おそらく、あれがそうなのだろう。若い連中は古くさい生活様式に物足りず、変化を求めるものだ。


「おまえ、イシュラーバードが初めてなら、この街にオーリア王国の大使館があるのも知るまい」


 ローゼンヴァッフェに言われたノアは素直に肯いた。


「イシュラーバードは国なのか? オーリアと国交があるとは聞いたことがないぞ」

「正式な国じゃない。しかしオーリアは、ここに形ばかりの大使館を置いている。おなじくマグナスレーベンも、本国から弁務官を派遣して総督府を構えてる」

「どういうことだ」


 ノアはシチューの皿を拭ったパン切れを口に放り込んだ。その彼へ、ローゼンヴァッフェは立てた人差し指を揺らしながら、わけ知り顔で話しはじめた。


「要するに、イシュラーバードは微妙な立場の地域というわけだ。いってみれば北のマグナスレーベン帝国と、南のオーリア王国との緩衝地帯だな。帝国は南方への足がかりとしてハイランドのセイラム回廊を欲してる。反対にオーリアはそれを防ぎたい。したがって、両国はどちらもこのイシュラーバードで優位性を確保したいんだ。大使館や総督府を置くのは、相手国への牽制といえる。が、大昔から先住してるドワーフ族にとっちゃどうでもいいことだ。年がら年中アンダーワールドで穴を掘ってるあいつらは、オーバーワールドのことにほとんど興味がないからな。とはいえ自分たちの頭の上を通る者からはちゃっかり通行税を徴収し、軍隊が押し寄せれば追い返す。だから始末が悪い」


 ローゼンヴァッフェはそこで手を挙げ、給仕を呼んだ。


「ササラ、酒の精に会いたい。杯はふたつだ」


 やってきた女ドワーフは、それを聞くと胸の前で腕を組んで顔をしかめた。


「ヨアヒム、あんたカネはあるんだろうね。ツケがたまってるんだよ」

「心配するな。今日はこいつが払う」


 ローゼンヴァッフェが手で示したのはノアである。

 自分で飯に誘っておきながら、なんて図々しい奴だ。そう思いながらも、ノアは懐から財布を出してササラという給仕に見せた。懐疑的な彼女はノアの財布を開いてなかを覗き込み、


「オーリア通貨か……つぎからはドドルで払ってもらうよ」


 言い捨て、ササラは注文の酒を取りに店の奥へ姿を消した。

 どうやらローゼンヴァッフェという男は、素寒貧で世を渡っている与太者のようだ。


「おっと、どこまで話した? ──ああ、イシュラーバードの情勢についてだったな」

「あんたのローゼンヴァッフェという名前、帝国系だな」


 ノアはローゼンヴァッフェの話を遮るように言った。すると相手は両の眉を吊りあげ、皮肉めいた笑みを顔に浮かべた。


「そのとおり。おれの出身はマグナスレーベンの東部だ」

「それがなぜオーリアの手助けをしている?」

「カネで雇われたんだよ。ほかに理由があるか。だがそのへんは明日、くわしく話す。さすがにここではな」


 ローゼンヴァッフェは混み合う店内を目配せで示した。そうして彼は、


「そっちの身の上も聞かせろよ。おまえ、オーリアでなにかやらかしたな?」

「なにもやってない」

「じゃあ、どうしてこんな地の果てにやってきたんだ」

「最初に会ったときに言ったろう。おれは事情を知らないまま、ここへいけと命令された」

「ほう、命令ね。ならオーリア軍の所属か」

「そんなところだ」


 ローゼンヴァッフェはそれ以上、深く追求しなかった。もちろんノアも。腹を探られたくないのは、どちらも同じのようだった。

 ササラが陶製の卓上瓶と酒杯をテーブルへ運んできた。ドラゴンを象った卓上瓶の中身は香草を漬け込んだ混成酒だ。ローゼンヴァッフェがふたつの小さな杯に酒を注ぎ、片方をノアに手渡す。


「よし、今宵は仕事の話は抜きだ。うまい酒で親交を深めようではないか」


 吹き溜まりに流れ着いたおれたちの出会いに──ノアとローゼンヴァッフェは酒杯を掲げ、乾杯した。

 料理で腹が満たされ、酒で心が癒やされた。店を出たときにはもう夜だった。高地では空気が澄んで、驚くほど星がよく見える。月が足下を照らしていた。

 ふたりが〈夢の国〉亭へ戻るべく店の横手に回り込んだとき、細い悲鳴が聞こえた。

 どちらともなく顔を見合わせ、ノアとローゼンヴァッフェは声のした店の裏を覗き込んだ。揉み合っているとおぼしき人影が見えた。全部で三人か四人。ひとりが地面に組み敷かれている。助けを求めているのは女の声だ。

 ノアの横にいるローゼンヴァッフェが舌打ちした。


「マグナスレーベンの連中だ」

「そろいの制服のようだ。なんで帝国兵がここにいる?」


 暗がりで蠢いている者らの身なりを見て、ノアが言う。


「兵士じゃない。警備隊だ。あいつら、この街にある総督府の──」


 ローゼンヴァッフェの言葉を終いまで聞かぬうち、ノアが店の裏にある路地へと入っていった。


「おいおい、よせよ」


 ローゼンヴァッフェが小声で呼びかけたが、ノアはかまわず歩きつづける。

 路地の奥にいる男たちがノアの足音に気づき、顔をあげた。彼らに近づくと、地べたに仰向けとなって寝かされているのはササラだとわかった。服が乱れ、殴られでもしたのか頬が腫れている。

 ドワーフの女を襲うとは、特殊な性癖でも持っているのか。それともおもしろ半分なのか。


「放してやれ」


 ノアが言った。一瞬ひるんだ様子を見せた男たちは、相手がひとりだと見てすぐに気を取り直した。


「消えな、兄さん」


 ササラにのしかかっている男がすごんだ。しかし、ノアはその場を動かなかった。


「耳が遠いのか?」


 別のひとりがノアへと歩み寄り、その胸ぐらに手をのばした。ノアは無言のまま、男の膝めがけてすばやく蹴りつけた。木の枝が折れたような乾いた音が鳴り、男の脚は妙な方向へくの字に曲がった。ノアは悲鳴をあげつつ自分のほうへ倒れ込んできたそいつの頭を手で払い、脇へ押しのけた。酒臭い息を浴び、顔をしかめる。

 ササラの上にいた男が立ちあがろうとした。ノアは彼の頭髪を両手で摑むと、容赦なく顔面に膝を叩き込む。ノアの膝頭とキスした相手は、血とよだれと折れた前歯の欠片を口から垂れ流しながら、数歩後退って尻もちをついた。

 あっさり先手を取られたふたりは、完全に戦意喪失だ。残ったひとりも棒立ちとなり、恐怖と困惑を湛えた目でノアを見つめている。


「ふたりとも飲み過ぎたようだな。おまえが連れて帰ってやれ」


 男は何度も肯いて、速やかにノアの言うことに従った。

 男たちが去ると、倒れていたササラが衣服の乱れを整え、ゆっくりと身を起こした。差し出されたノアの手を拒み、彼女はなにも言わずに勝手口から店のなかへ姿を消した。

 ノアが表通りへ戻ってきた。土壁にもたれて彼を待っていたローゼンヴァッフェは、あきれた顔を向けた。一部始終を離れたところから見ていたローゼンヴァッフェは、


「おまえ、ずいぶんと血の気が多いな……。知らんぞ、厄介なことになっても」

「暗かったから顔は見られてない」

「だといいが」


 ローゼンヴァッフェと〈夢の国〉亭へ帰ったノアは、自分用に部屋をひとつ取った。

 今日はいろんなことがありすぎた。ノアは朝までぐっすり眠った。ここは夢の国らしいが、夢を見ることはなかった。

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