ゆるやかな起伏の丘陵に
ゆるやかな起伏の丘陵に見渡すかぎり麦畑が広がっている。
まるで緑の海原。その広大な農耕地を突っ切るように、一本の田舎道が走っていた。道の両側では腰ほどの高さにまで伸びた麦の茎が風になびき、そよいでいる。去年に撒かれた種子がすくすくと成長し、穂が実りつつあった。
「あの村か」
馬上のクリスピンが田舎道の先にある家々の集まりを見て言った。
「そのようですね」
クリスピンと馬を並べている若い従騎士は、遠くをよく見ようと鞍壺から尻を浮かせて中腰になった。
「まずは村長に会わねば。一軒だけ大きな家があります。あれが村長の屋敷でしょう」
まだ幼さを残す顔立ちの若者が、村の奥にある屋敷というには小さな家屋を指し示す。彼──ハーマンは、クリスピンに師事している従騎士だ。盾持ちになって二年足らず。ハーマンはこの日、オーリア国王騎士団のグリム団長に命じられ、ラクスフェルドの北東にある村へ使いに出されたのだった。
先頃、村に住むエルネストという農夫が亡くなった。さる所用でラクスフェルドへ出向いた帰りに、街の郊外で野盗に襲われたとのことだ。理不尽で痛ましい事件。ハーマンはそれに関した弔問の使者として遣わされたのだった。
エルネストが暮らしていた村は騎士領として管理される地域だったので、本来、遺族への弔問は領主のほうで取り計らえばよい事案である。しかしラクスフェルドのすぐ近くで起こった重犯罪ゆえ、このたびは特別に国王騎士が相手方を見舞うよう計らわれた。
なんにせよ、手の空いている者に回される雑事といえた。国王騎士団で百人隊長を任されるクリスピンが出向くほどの件ではない。ハーマンはそれを不思議に思っていたが、さらにわからないことがあった。
ちらりと背後を振り返る。すると、ハーマンたちから少し離れたところを一頭の青毛馬が歩いていた。乗っているのは黒いローブに身を包んだ者だ。馬も人も黒ずくめで、まるで影のようだった。
「気になるのか?」
クリスピンが前を向いたままハーマンに訊いた。
「ええ……あの者、なんだか不気味です」
「死霊術師は生きた人間に興味はない。取って食われたりはしないさ」
「あれもグリム団長の指示ですか?」
「いいや。彼はわたしが連れてきた。団長はなにもご存じない。わたしがここにいることもな」
「えっ、そうなんですか」
「団長には内緒にしておいてくれ」
「なにか、理由が?」
「ああ。少し調べたいことがあってな」
とクリスピン。
釈然としないハーマンは、もういちど後ろを振り返った。そうして彼は、
「ですが、死霊術師は背信者ですよ。あのような者と行動を共にしていては、マスターにとってよろしくないのでは……」
それを聞いてクリスピンは小さく笑った。
ハーマンは性根の真っ直ぐな若者だ。言い換えれば、世間知らずで簡明直截。いまほどの言葉も純粋にクリスピンの風評を案じ、また死霊術師という人の道から外れた存在を快く思っていないところから出たのだ。
人が死んだのち、外方次元界──いわゆる霊界──へゆくはずの魂が物質界に残留する場合がある。死霊術師はそれらと交信することができる。さらに魂の抜けた骸に偽りの命を宿らせ、アンデッドとして自身に隷属させたりもするという。死者の尊厳を無視した行為であり、死霊術は魔術のうちでも外法と見られていた。
倫理に背く死霊術師は好んで黒いローブをまとう。しかし世界中の魔術を統括する魔術協会は彼らの存在を認めておらず、公でも黒いローブは忌避されている。国によってはそれだけで追放されることもあるのだ。
「ハーマン、おまえは潔癖のきらいがあるな」
クリスピンが言った。
ハーマンはややむっとなった。師範とはいえ、面と向かって自分を決めつけられれば誰でもそうなろう。
「いけないことでしょうか」
「時と場合による」
「では今回、あの死霊術師を連れてきたのは、やむをえない場合だと?」
「そうだ」
「なにをなさるおつもりなんです?」
「夜になればわかる」
すげないクリスピンにハーマンは口をへの字に曲げ、それきり黙った。
村の近くまできた。村長宅へ向かう前、クリスピンは死霊術師に村の外で待つよう伝えた。さすがに黒いローブを着た者が堂々と姿を見せては、村人たちが怯えて騒動になるかもしれない。
小さい村はなにもかもが貧相だった。それでも礼を尽くしてもてなそうとする村長の申し出を断り、クリスピンとハーマンはすぐにエルネストの家へと向かった。
麦畑の真ん中にあるこぢんまりとした一軒家。エルネストの細君は国王騎士の急な訪問に戸惑っていた。彼女は夫を亡くしてまだ日が浅い。いくらか憔悴しているように見えたのも当然だったろう。
「これは国王陛下よりの弔慰金である。収めるがよい」
月並みな追悼の言葉を述べたあと、ハーマンから革のコイン袋が手渡される。不行儀な未亡人はその場でなかをたしかめ、たくさんのオーリア金貨を見て目を丸くした。
ふたりが辞して去る間際、クリスピンは家の陰からこちらを見ている子供たちに気づいた。年長の姉とその弟。もうひとりの末子はまだ幼い少女だった。靴を履いていない素足の彼女が、無邪気な顔でクリスピンへ笑いかけていた。
三人の子を抱えて女手ひとつか。クリスピンはこの一家の行く末を案じて気が重くなった。
村を出たあと、クリスピンとハーマンは死霊術師と落ち合い、北へと向かった。
麦畑が途切れ、やがて三人は木立へと入った。しばらく小径を進むと開けた場所に出る。そこには先日までノームの魔術師が住んでいた庵があったはずだが、いまは燃え落ちて炭化した柱が数本、焦げた地面から突き出ているのみである。
ヘイル・アインロールという地域魔術師のことは、村長もよく知らなかったようだ。人づきあいが悪く、彼と懇意だったのは村でエルネストだけだった。そのアインロールがまず火事で亡くなり、彼の遺言らしき手紙を届けにラクスフェルドへきたエルネストも、また殺された。それらには関連性があるとも、ないともいえなかった。しかし王宮魔術師であるネリー・ゴールデントゥイッグにアインロールよりの手紙が届いた直後から、王宮があわただしくなったのだ。特に魔術院では何人かの官吏が国外へ派遣され、ゴールデントゥイッグがなんらかの思惑のもとに動いたのは確かだろう。それとほぼ同時に、遍歴に出ていたノア・デイモンがオーリアへ呼び戻された。そしてノアは理由もわからぬまま、ハイランドへゆくようになかば強要された。今回の一連でクリスピンが知っているのは、そこまでだった。
すべてが偶然に重なったのだろうか──
クリスピンにはそうは思えなかった。
気になるのはアインロールがゴールデントゥイッグに宛てた手紙の内容である。ゴールデントゥイッグは王宮の重臣だ。仮に目通りしたとて、彼女が一介の騎士であるクリスピンに詳細を明かすことはあるまい。では、どうするか?
アインロール本人に直接、訊けばよいのだ。死んだアインロールの霊魂を呼び出し、彼の口から語ってもらう。
陽が落ちようとしていた。クリスピンとハーマンが見守るなか、死霊術師は霊魂を呼び出す儀式の準備をしている。いま彼が庵の焼け跡に撒いているのは、鮮やかな色をした顔料の粉末だった。それで魔術陣を描いているのだ。円形の魔術陣には随所に蝋燭を立て、中心には触媒らしき品々が集められた。ルーン文字が彫られた石、動物の骨、なにかの血液、等々。見ていて気持ちのよいものではなかった。
「儀式は夜でないとだめなのか?」
手持ち無沙汰のクリスピンが死霊術師へと訊いた。
「はい。夜は生者が眠る時間です。さまよう霊魂は粛然を好みますので」
そう言われては従うしかない。三人は暗くなるのを待った。
そしてあたりが夜闇に包まれたころ、交霊の儀式がはじまった。三人は魔術陣の内側に立ち、死霊術師がその場を取り仕切った。
「わたしが霊を呼び出すあいだ、ここから出ぬようお願いいたします」
「わかった」
とクリスピン。
「銀の武器は?」
「用意してある」
クリスピンが腰の剣帯に吊った小ぶりな銀剣を手で示した。死霊術師は満足げに肯き、
「もしものときは、それで身をお護りください」
「も、もしものときって?」
訊いたのはハーマンだった。
「物質界に怨みや執着を残す霊魂は、悪霊化している場合があります。そのときはわたしでも制御できないかもしれません」
顔を歪ませ、ごくりと唾を飲み込むハーマン。
月と星々が静かに三人を見おろしていた。火事で焼けた庵のそばでは、まだかすかに苦い匂いが漂っている。
死霊術師が呪文のようなものをつぶやきはじめた。すると、まもなく木の枝に手綱を巻きつけておいた馬たちが耳を動かし、鼻を鳴らした。なにか動物的な勘で異変を感じ取ったのだろう。
ふと自分の周囲がひんやりするのにクリスピンは気づいた。これは寒気なのか、実際に気温が下がっているのか。
暗闇にまぎれて煙のようなものが見えた。空気中に漂う、うっすらとした靄。動いている。だが、風は吹いていない。
「しかとご覧ください。あれです」
死霊術師に耳打ちされ、クリスピンは魔術陣の外に目を凝らした。彼の前で浮遊する靄には濃淡があり、それが気のせいか人の顔を描いているように見えなくはない。
「ヘイル・アインロール殿か?」
返事がない。しかし気を取り直し、クリスピンはかまわず虚空に向かって語りかけた。
「このような手段で呼び立てたことをご容赦願いたい。あなたに尋ねたいことがある。生前、ここより近くの村に住んでいるエルネストという農夫に、手紙を託したな? オーリアの王宮魔術師であるネリー・ゴールデントゥイッグ殿に宛てた手紙だ」
なんの変化も起こらなかった。
傍から見れば、さぞ滑稽な様だったろう。どうやらペテン師に一杯食わされたようだ。クリスピンが、前払いで依頼料を支払った死霊術師を問いただそうとした、そのとき、
「届いたのか?」
死者の声にぎくりとするクリスピン。ハーマンがその彼の腕にしがみつき、ひいっと小さな声をあげた。
「……申し遅れた。わたしはウイリアム・クリスピン。オーリアの国王騎士だ。手紙はたしかにゴールデントゥイッグ殿が受け取った。しかし、あれを届けたエルネストは死んだ。ラクスフェルドから村へ帰る途中、賊に襲われたのだ」
「エルネストが? そうか……彼には気の毒なことをした」
「残った妻と子供たちには手厚い弔慰が施されたゆえ、心配なきよう」
「温情、痛み入る」
「そうお考えなら、どうかあの手紙になにがしたためてあったのか、教えていただきたい。わたしがここへきたのは、エルネストの死について調査しているからだ。あなたには話す義務が、こちらには知る権利があると思うが?」
沈黙の帳がおりた。
さあ、話せ。クリスピンは心のなかでそう急かした。でないと、ここで行き詰まり打つ手がなくなる。
「わたしの犯した罪……あの手紙には、それを記した」
「なんの罪だ?」
「魔術を弄び、世の平和を脅かすに至るであろう愚行」
クリスピンは眉をひそめた。
「要を得ないな。いったい──」
「ハイリガーレイヒャーを止めてくれ……あんなものが存在してはいけない。すべてが滅んでしまう……」
聞き慣れない言葉だった。ハイリガーレイヒャー──北方、マグナスレーベン帝国の言葉だ。そのままの意味であれば、聖なる復讐者となる。
「なんのことでしょう?」
ハーマンが横から口を出した。クリスピンは唇に指をあてて彼を制した。アインロールの霊がまだなにか告げようとしていた。
「わたしは帝国にそそのかされ、魔術の使い道を誤ってしまった。気づいたときには遅かった……それで、逃げたのだ。しかし、報いは受けた……ナーゲルによって……」
「ナーゲル?」
クリスピンがおうむ返しにつぶやく。また帝国の言葉だった。しかし今度のは単語だ。釘。なにかの暗号か符丁かもしれない。
「そうだ。奴はハイランドから、逃げたわたしをここまで追ってきた。あの、おそろしい女……マグナスレーベンの黒騎士……」
アインロールの声が喉を絞るようなものに変わった。取り戻せぬ過去を顧みて、後悔しているかのごとく。
「オーリアの騎士よ、ネリーに伝えてくれまいか。愛しいネリー……カラソスできみと過ごした日々はわたしの宝物だ。片時も忘れたことがない。許してくれ、許してくれ……」
最後のほうは懇願となった言葉を残し、アインロールは消えた。
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