旧体育館から出られない(璃子視点)

 期末試験最終日――。

 試験後すぐだというのに部活があると知ったときから璃子は憂鬱な気分だった。一つだけ救いがあるとすれば、夕方から雨だから室内練になるということ。

 室内練は軽く走ってアップしてから筋トレをするくらいで、太陽の下ずっと走り続ける外練に比べたら楽だ。先輩達の目があるからあからさまに手を抜くなんてことはできないけれど。

 女子マラソン部の室内練はいつも旧体育館で行われる。新体育館はバスケ部やバレー部、卓球部といった屋内競技の部活動が使っているから、陸上部のように臨時で屋内練習をしたい部活動は設備が古い旧体育館の方を使うしかないのだ。

 女子マラソン部の部室は部室棟にあった。部室棟の全部室にエアコンがついているのはさすが私立の財力といったところだろう。

 部室で着替えを済ませて、荷物を置いて出ていくとき、一年の部員がスマホを持って練習に行こうとしているのが璃子の目に入った。ポケットが四角く膨らむからすぐにわかる。


「良くないよ。バレたらまた怒られちゃう」

「大丈夫、上手くやるから」

「でも、この前だってメニューきつくされたばかりだし。千歌ちゃん、やめとこ、ね?」

「気にし過ぎなんだよ、璃子は。別にいいじゃん」


 彼女は璃子の説得を真剣に受け止めなかった。昔からそうだった。いつまで経っても子供っぽさが抜けないせいで、真面目な発言も冗談のように捉えられて取り合ってすらもらえない。


「ほら、千歌。璃子をいじめないで。璃子の言う通り、部活中のスマホ禁止はルールなんだから」

「はいはい、わかったって」


 助け舟を出してくれたのは、小野寺おのでら沙紀さきだった。黒髪を後ろで一つに結んだ彼女は、一年部員の中でリーダーのような立ち位置だった。

 中学時代に駅伝大会で準優勝したチームの主将を務めていた彼女は一年生なのに選抜メンバーになり、おまけに学校の成績も優秀。非の打ち所のない優秀さに加えて、性格も真面目で優しい。

 そんな完璧とも言える沙紀に璃子は同い年ながら、いつかあんな風になれたらと憧れていた。

 沙紀の心なしか顔色が優れないことに璃子はふと気づいた。


「もしかして、体調悪いんじゃ……?」

「ううん、なんてことないよ。心配してくれてありがとう」


 本人がそう言うのなら、大丈夫なのだろう。このときの璃子はそう思って、いつも通りタオルと水筒だけ持って旧体育館に向かった。

 旧体育館は校舎の西側で、部室棟と並んだ位置にある。旧体育館の出入り口は南北に二箇所あって、部室棟の各部屋の扉とは反対の外壁に面するのが北口にあたり、南口の方には校務員の休憩用プレハブがある。

 旧体育館を使用する生徒が使うのは北口だった。南口を使用しない理由は、いつも鍵がかかっていて武野先生に鍵を借りる必要があるからだ。北口の方は何か盗まれる設備もない旧体育館だからと、いつも解錠してあった。

 ただ、北口には一つ問題がある。サムターンの部分が緩く、勝手のわかっている人物が引き戸をガタガタと揺らすと施錠できてしまうという特徴があった。しかし、屋内側にサムターンがついているからそうなったらサムターンを回して解錠すればいいだけの話だ。

 北口から入り、目の前にあるステージに上がる階段ではなく、左手のドアを開き、広々とした空間へ。

 水筒とタオルをステージに置いて、練習が始まった。顧問の高戸たかど先生はステージ脇からパイプ椅子を引っ張ってきて、両膝をガバっと広げて腰掛けていた。開始数分で、すぐに旧体育館をあとにした。いつも通りの行動パターンだ。戻ってくるのは部活が終わるぎりぎりの時間だ。その間は、三年の日比ひびあかり部長が練習を監督する。

 休憩もまとまった時間を与えられないから、皆、旧体育館の中で終わりまでいることになる。部員は全員で二十人。全員の熱が空間を満たしていく。窓は開けておいたが、湿度が高いから汗が蒸発していかずに、肌にまとわりつく。試験終わりでなまっている身体にはそれが辛かった。

 午後五時十分頃、幾人もの人が屋根の上で爪先で足踏みしているみたいな音がした。雨が降り始めた。雨によって気温が下がることもなく、屋根を跳ねる雨粒の無数の音が部員達の気を滅入らせるだけだった。

 必死にトレーニングメニューをこなしていると、いつの間にか水筒は空になっていた。あと、一時間近くトレーニングは続く。

 次の長めの休憩時間のうちに急いで水筒に水を汲んでこようと璃子は思った。旧体育館のトイレの手洗い場は全て錆びた水しか出ないせいで使用できないため、一度、外に出る必要があった。


「じゃ、五分間休憩入れます」


 北口に向かい、引き戸に手を掛けようとしたとき、サムターンが横になっているのに気づいた。誰が施錠したんだろう?

 サムターンをつまんで回転させようとしたとき、少し傾いただけでちっとも垂直にならない。がっちり固定されてしまっているような……。

 璃子は急いで皆の元へ戻った。


「鍵が、鍵が開かないんです!」

「春日さん、落ち着いて。どこの鍵が開かないの?」


 あかりが怪訝そうな表情で訊く。

 璃子は呼吸を整えて、答えた。


「あの、入ってきたところの鍵が閉まってて、開けようとしてもびくともしないんです」

「私も行く」


 あかりはごくりとつばを呑んで、璃子とともに北口に向かい、状況を把握した。あかりは引き戸をガタガタと揺らしてみたあと、枠とドアの隙間にボルトが見えることを確認した。


「もう一つの入り口って、屋内側も鍵穴がついてるよね?」

「は、はい」

「私達は鍵を持ってきてない。誰かに閉じ込められたんだよ、私達」

「そ、そんな……」


 璃子は視界が一瞬ホワイトアウトしてよろけてしまった。


「春日さん、大丈夫?」

「大丈夫です、少しくらっとしただけで」

「そっか。そうだ、スマホを内緒で持ってきてる部員がいれば」


 やはり部長という存在は頼りになる。不安な璃子の心を柔らかくするような光が差した。

 しかし、現実は容赦なかった。


「誰も、持ってきてない、か」


 女子マラソン部員には、部活中のスマホ使用禁止ルールがあった。いつから施行された決まりなのかはわからない。璃子が入部したときには既に決まっていたことだ。

 そして、テスト前の練習のとき、数人が隠れて使用しているのが見つかりこっぴどく叱られてから、さらに厳格になった。


「あかり、どうする? 先生が戻ってくるまで待ってる? 窓から叫んでも、近くに誰か来ない限り、気づくかどうかは五分五分だけど。旧体育館って、他の建物とちょっと距離あるし」


 加えて、一階の窓は人が通れるサイズではないし、二階の窓は位置が高すぎる。誰も脱出はできない。ひたすらに声を上げるしかないのだ。


「ひとまず、練習は中止するとして、そろそろ水が切れてくるタイミングだと思うから、脱水症状を起こす人が出る前に誰かに鍵を持ってきてもらわないと。もし、飲み物に余裕のある人がいたら、切れちゃった人に少しだけでも分けてあげて。体力が残ってる人は窓から声を」


 皆が頷き合って、それぞれができることを始めた。

 既に水を切らしていた璃子には何人かが少しずつ飲み物を分けてくれた。大会直前のような一体感が生まれたが、心の熱からではなく焦りや恐怖がそうさせていると思うと喜べなかった。

 窓から助けを呼ぶ声に気づいてくれる人は一向に現れなかった。

 旧体育館から声がしても、練習中の掛け声だと思われているのかもしれない。

 ――私が、スマホを持っていくのを注意しなかったら。

 あのとき、子供じみた正義感でした選択が今になって心を縮ませていく。

 璃子の肩に手が置かれた。


「璃子は正しいことをしたんだよ。何も気にすることない。璃子が早く気づいたから、部長が指示を早く出せてるんだし、褒められるべきだよ」

「小野寺さん……」


 こんな状況で、人の心を気遣うなんて本当に凄い人だ。

 しかし、沙紀の顔が赤かった。璃子の父が調子に乗って日本酒を呑みすぎたときのように。


「暑いの?」

「うん、ちょっと。でも、大丈夫だから」


 そう言って踵を返す沙紀を不安な気持ちで見ていると、沙紀がまっすぐ歩けていないことに気づいた。


「やっぱりおかしい。どこかに座ろ」


 壁に背をもたれることができるように沙紀を座らせ首を触ると、体温が高くなってることに気づいた。

 ――熱中症だ。


「ちょっと待ってて。体温下げないと」


 璃子は部員に声をかけて、余っている水を沙紀に飲ませ、タオルで沙紀に風を当て続けた。団扇になるようなクリアファイルもないし、こうするしかなかった。

 ――私のせいだ。

 泣いてしまいそうなのを何とか堪えて、璃子を含めた三人がかりで送風を続けた。

 どんなに腕が疲れてもやめてはいけない。

 辛そうな沙紀の表情が心臓をぎゅっと締めつける。

 もしものことがあったら、どうしたらいいのだろう。責任が取れるのだろうか。こんなことになるなら、自分が苦しんだ方が良かった。

 誰か、来て。

 窓から声を出している部員と一緒になって、心は叫んでいた。


「何だ、君ら? そんな大きな声出して」


 雨音の向こうに聞いたことのある声が聞こえてきた。


「校務員さん! 鍵が開けられなくてここから出られないんです! 南側の入り口の鍵を借りてきてください!」

「わかった! ちょっと待ってな!」


 姿は見えなかったが、目尻に優しそうな皺の刻まれた校務員の顔が思い浮かんで、急にほっとした。


「小野寺さん、あとちょっとの辛抱だからね」

「ありがとう、みんな。今度、ジュース奢るから」

「沙紀、そんなのいいんだよ」

「そうそう。助け合いだよ」


 沙紀はふっと笑うと、そのまま寝てしまった。

 校務員が鍵を借りてきて南口を解錠してくれたおかげで、璃子達はようやく旧体育館から脱出することができた。

 沙紀の身体を水で冷やすと、辛そうな顔が少し和らいだ。保健室の神野先生に診てもらってすぐに命の危険がある状況ではないとわかったが、念のため救急車で搬送することになった。

 同乗した高戸先生とともに搬送される沙紀を見送ったあと、ほっとした部員達の目からは涙が溢れた。


「良かった」

「うん、良かった」


 涙声が連鎖していく中で、あかりが言った。


「何も良くない。誰が鍵を開けられないようにしたのか、調べないと。私、北側に回ってみる」


 傘もささずに、あかりが走って北側に向かい、数分後に戻ってきた。スマホの写真を見せて、


「鍵穴に接着剤がたっぷり流し込まれてた。それじゃ、鍵が開くわけない。あと、犯人も絞り込めた。これ、見て。旧体育館の入り口から部室棟の非常口まで往復する足跡が泥濘に残ってるでしょ。部室棟の防犯カメラを見れば犯人がわかるはずだよ」

「あかり、探偵みたい!」

「そんなんじゃないって。あとは、副顧問の宮城先生と調べてみるよ」


 三年の先輩達がそんなやり取りをしている間も、璃子は上の空だった。

 ――沙紀を苦しめたのは、私。

 犯人が見つかったとしても、呪いのように胸を蝕む思いは消えない気がした。

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