第三章 旧体育館から出られない
雨とシャワーと救急車
期末試験が終わった。
丹恋にとっては、二つの意味で。
リビングのソファーに制服のままだらしなく寝そべって、サバンナに生息する獰猛なカバが威嚇するときのような声を出す。
はじめから試験で得点することを諦め、全く準備をしなかったわけではない。ただ、中学生のときのワークを丸暗記すればいいと高を括った勉強法のままだった。そして、丸暗記などできるテスト範囲の広さでもなかったから、中途半端に暗記しただけになってしまった。
こんなことなら唄に教えを請うべきだった、という後悔は実のところ持っていない。当然、丹恋ははじめ唄に勉強を教わったのだ。
ぐでっと伸びたときのはずみで、ソファーからカーペットにずり落ちてしまった丹恋の頭に否応なくそのときの記憶が蘇る。
丹恋の家で勉強会をしようと思いつき、唄を誘うことにしたのだが、唄の了承を取り付けるだけでかなりの労力を要した。
というのも、唄は友達の家に招かれた経験も、招いた経験もなかった。たいていの人間が経験してきたであろう行為を通過してこなかった唄の中では、友達の家なるものがいつの間にか、誰かの悲鳴がこだまする魔王城のように思えていたらしい。他人の住む家をそんな禍々しい建築物と一緒にするな、と言いたかったが、それをぐっと堪えて、
『何も怖くないって。ただの社会人が買ったマンションだし』
と、地図アプリでマンションの位置と外観を見せながら、説明してようやく恐怖心が薄れてきたくらいだ。
丹恋がこれほどの労力をかけて唄を誘ったのは、勉強を教わるだけでなく、普通に唄と自分の部屋で楽しい時間を過ごしたいと思ったからだった。でなければ、この後の質問攻撃にも耐えられなかった。
唄にとっては茶道の作法のようなものが友人の家に上がるときにも存在していると思っている節があり、途轍もない長文で質問事項の羅列が送信されてきた。
そのときはさすがに丹恋も「うっ」と声を出してしまい、母親に何事かと訊かれたりもした。とはいえ、それも楽しかった。
唄はユニークで、新しいことにぶつかる度にユニークな反応が生まれる。
唄としか、こんな経験はできない。他の誰かでは駄目なのだ。
勉強会当日――。
インターホンに呼ばれ、液晶を見ると、休日なのに制服姿の唄が居心地悪そうに立っていた。敵のアジトに忍び込んだスパイが影から狙撃されることを警戒しているかのように落ち着きがない。
「ようこそ、唄。そのまま八階まで上がってきて」
ロック解除されたエントランスのドアを慎重に抜ける様子が映るのを見届けたあと、数分して二回目のチャイムが鳴った。
丹恋は弾む気持ちを抑えるために呼吸を整えてからドアを開けた。
「来てくれてありがと!」
「いっ、いえ。お招きいただきありがとうございます」
顔を横にぶんぶん振ったせいで、唄の髪の毛が荒ぶっている。
「何でそんな敬語?」
「ゲストとして恥ずかしくない振る舞いを、と。あ、これ、つまらないものですが」
唄が恭しく両手で差し出したのは、筆記体の英字が書かれた取っ手つきの紙箱だった。丹恋はその英字の意味に気づいてから紙箱を二度見した。
「これ、マカロンの超有名店じゃん。高かったでしょ?」
「そうなんですか? 父に今日のことを話したら、これを持っていくように言われまして」
「そうなんだ、お父さんにお礼言ってもらえる? あ、でも、次来るときは別に手土産とかいらないからね。もっと気軽に来てもらって大丈夫だし」
「なるほど、勉強になります」
ふむふむと頷いたあと、唄はまじまじと玄関の向こうを見つめた。
「どしたの?」
「あ、すみません。これが友達の家というものなんだな、と感慨深くなりまして」
照れながらにんまりする唄を見る限り、楽しみに来てくれたようだ。
手洗いうがいを済ましてもらった後、早速、丹恋は唄を自分の部屋に連れて行った。
「想像よりも、なんだかピンクです」
「そんな凝視しないでよ、恥ずかしいから」
「それは失敬しました」
「なにそれ、おじさんみたい」
なんて談笑しつつ、ベッド横のローテーブルを挟むように二人は床上のクッションに腰掛け、まずは国語のテキストを出した。
「早速、訊きたいとこあるんだけどいい?」
「どうぞ。私はそのために来たんですから」
「ありがとー。えっと、この選択問題なんだけど、主人公の母親の心情って『イ』だと思ってたのに、答えは『エ』なのが納得行かないんだよね」
「この文は読んでますよね?」
「あ、うん」
「なら、そういうことです」
「ん?」
「はい?」
「いや、読んでもわかんなかったんだけど……」
「どうして、わからないんでしょう?」
つぶらな瞳を濁らせることもなく、唄はただ純粋に不思議がっている様子だった。
「あ、じゃあ、数学教えて」
「はい。どこでしょう?」
「この場合の数の問題なんだけど」
「それはド・モルガンの法則等のルールに従えばいいんです」
「それはそうなんだろうけど、最初の取っ掛かりが見えなくて」
「どうして見えないんでしょう?」
「あー、うん」
これは、と丹恋は悟った。
「唄って、誰かに勉強を教えたことない?」
「そうですよ? 友人ゼロでやってきましたので」
そういうことか、と合点がいった。
初めて人に勉強を教えたので、自分より理解度が下のレベルまで下げることができないのだ。
推理披露のときは頭から爪先まで論理を整理してくれるから気づかなかったが、本来何かを教える行為は唄の不得意分野だったというわけか。
「よし、唄」
「はい?」
「マカロン食べるよ」
「早くないです?」
「大丈夫。今日はそのまま、遊びまくる」
「えっ、大丈夫ですか?」
「いいのいいの。せっかくだからさ」
宣言通りマカロンを堪能したあと、クローゼットに押し込めていたテレビゲームを久しぶりに取り出してきて、二人で遊んだ。ちなみに、丹恋の方が遊び慣れていたゲームだったのに、一度も唄に勝てなかった。
というわけで、唄には頼れなかった。
とはいえ、試験が壊滅的だったのは唄のせいだなんてことは丹恋は微塵も思っていない。高校の期末試験をナメていた自分が全て悪い。
しかし、丹恋が怠けていたかというと、そうではない。
母の真希は常に仕事に駆り出され、家事は丹恋の仕事だった。洗濯やら自炊やらしているうちに、時間は露と消えてしまう。成績が下がれば、真希が気にして刑事としてのキャリアを諦めることにも繋がりそうで不安だった。進学先のレベルよりも、丹恋にとってはそれを懸念した。
「次からはやり方変えないと。私立の学費、馬鹿にならないし」
溜息をついてから、とりあえずシャワーを浴びることにした。制服をハンガーにかけ、汗の染み込んだ下着を脱ぎ去った。最近ガタツキが現れるようになった浴室の扉を抜けて、給湯温度を四十一度に設定する。少し熱めに感じるくらいが、一日の汚れが取れる気がしていい。本当は肌を乾燥させるから良くないらしいが、気持ちがいいのだから仕方ない。
シャワーを浴びながら、マンションの他の住人を気にして高音域が特徴の男性バンドのヒット曲を小声で歌う。シャワーと自分の歌声に混ざって、雨音が聞こえてきた。マンションのバスルームに窓はない。それなのに聞こえるということは相当に降りが強いのだろう。
午後五時過ぎくらいだから、まだ部活動をしている生徒も多い時間だ。外で活動する運動部なんかはテスト明けで体力の低下した身体を雨に打たれる羽目になっているのだろうか。
――そうとも限らないか。
璃子は小動物のような見た目に反して女子マラソン部という軽い気持ちでは所属できない運動部に入っているのだが、璃子が今日は夕方から雨予報だから室内練になったと言っていた。璃子にとっては初夏の日差しを浴びたくないので吉報だったらしい。
曇天は続いていたが、雨が降るのは久しぶりだった。農家にとっては恵みの雨だろう。
丹恋の頭に、ハンガーが思い浮かんだ。
「きゃー!」
さっきの小声の歌は何だったのかと思うほど、大きな悲鳴を上げると、丹恋はバスタオルを巻きつけてベランダに向かった。
ベランダには、朝に干した洗濯物。
乾燥わかめならとんでもなく量が増えているくらい雨水を吸っている。
丹恋はゾンビよりも元気なく、バスルームに戻った。既に手遅れならこんな格好でベランダに出る必要もない。諦観して、あえて湯船に浸かってやろうじゃないか。そんな風に思って、ヒノキの香りのする入浴剤を入れておいたお湯に浸かってみたが、丹恋の頭には、怨念の宿っていそうな洗濯物達の姿が離れなかった。
そんなときだったという、桜日高校に救急車が急行したのは。
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