香華カリューは噓をつく(一部完結)

@hori2

第1話 香華カリューは嘘をつく

 都会の闇を照らす人口の光。


 行きかう様々な人を照らすその光は赤、青、緑の3原色が交差し、きらきらと夜の世界を彩る。


 多くの人間がいる。会社帰りの男性の横を寒そうに両手をこすり合わせている高校生の女の子がすれ違う。彼らのように全くその人生にかかわりのない人々が肩のこすりあいそうなほどの距離を歩き、離れていく。


 ひとりひとりの人生やひとりひとりの感情は交差しない。人の波を構成する彼らには貴重な人生がある。


 それでも彼らの人生は関わりあうことはない。


 今日すれ違った人間など背景の一つに過ぎない。


 街の中を走る男がいる。白い息を吐き、ネクタイを片手でつかんで抑えている。スーツの上から羽織ったコート。彼はすれ違う人間の肩にぶつかりながら走る。表情はこわばり、唇を噛み、目は血走っている。


 路地に入る。その奥に雑居ビルの入居者の看板を照らすぱちぱちと切れかかった電灯がある。近くには地下に降りる階段があった。男はごくりと息をのむと階段を下りていく。降りた先には小さな木製のドア、隠れたバーがあった。


 男はそのドアを開けるとからんと鈴が鳴った。


 店内に入ると静かにジャズが流れている。カウンターの奥でバーテンダーが挨拶を言うが男には聞こえていなかった。


 それは、いた。


 店の奥。カウンターで一人座る女性。


 金髪で目元が隠れた彼女は黒のタートルネックに色の良いジーンズをはいている。細い体つきにそれは似合っていた。


「あ、あんたか」


 女性が振り返る。男を正面から見た。それだけで男はうっと一歩後ろに下がる。ただ美しかった。整った顔立ちと大きな瞳に射すくめられるように男は硬直した。しかし、彼女の一つの異質さが男に口を開かせた。


「あ、あんたその目」


 紅い瞳。女性はくすりとして言った。


「ああ、カラーコンタクトですよ。私に用ですか?」


 雪のような声だった。きれいで冷たいと男は思った。


「ともかく座りませんか?」


 女性は言った。



「私はこういう者です」


 女性は横に座った男に名刺をすっとだした。カウンターの上に一度おいてその細い指で男の前に滑らせる。その時女性の飲みかけのウイスキーのグラスの中で氷がからんと音をたてる。


 ――香華探偵事務所 香華カリュー


「こうげ……カリュー? あんた外国人なのか?」

「まさか。私の名前は指で書くと『歌颯』と書くのですよ。わからないでしょ? だからカリューって名乗っています。でも不思議ですね。私がここにいることはあまり知られてないはずですが」

「…………娘に聞いた。なんでもネットでは有名な探偵なんだろう? あんた」

「へー。そうなんですね、でもということは仕事の依頼ですか?」

「ああ。そうだ」


 カリューは流し目で男を見る。男はその瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。


「俺の家内が浮気をしている……のじゃないかと思っている。その調査をしてほしい」

「なるほど。では深く話を聞かせてください」


 カリューに促されるままに男は話始める。彼の名前は和田剛史(つよし)。37歳で結婚16年目である。最近1つ下の彼の伴侶である和田麗美(れいみ) の動きが怪しいと剛史は語った。


 共働きだがある時から帰るのが遅くなり。スマートフォンにはロックをかけてなかったはずがかけるようになったなどだ。確信はないと彼は語った。


「確信があればこんなところにこない……いや……すまない。大事にはしたくないし勘違いであってほしいと思っている。だから秘密裏にしてほしい」

「わかりました。お仕事には10万でお受けしましょう」

「…………高いなぁ」


 カリューは笑う。


「格安ですよ。これほんと」


 剛史はそのカリューのあどけなさを感じさせる笑顔にどきりとした。一度つばを飲み込む。カリューはすぐに表情を戻した。


「それでは奥様の写真や勤め先、それに朝出る時間や住所などもろもろ教えてもらっていいですか? あ、もちろん剛史さんの連絡先もRhine(らいん)でいいですよ」


 剛史は聞かれるままに応えた。


 カリューはスマートフォンに一通りメモを取ると立ち上がる。


 近くにかけてあったコートを羽織り。帽子をかぶり、コートの胸元から丸サングラスをかける。


「それじゃあ、お金の振り込みを確認したら仕事を開始しますね。それと」


 サングラスとを少し固め向けてぱちりとウインクする。


「ここの会計もよろしくお願いしますね。10万は格安探偵ですから、それくらいは」


 カリューはそれだけ言うと店から出ていく。からんからんとベルが鳴る。


 剛史は席であっけにとられつつも、バーテンダーにウイスキーを頼む。彼はカリューと書かれたスマートフォンの画面を見ながら口元をゆがめた。



 和田麗美はあっけなく浮気をしていた。


 相手は会社の上司の黒田という男性だった。背が高く顔立ちの良い男だった。


 カリューは和田夫妻の住んでいるマンションから麗美が会社に出社する道のりと退社するまでに狙いを絞って尾行をすることにした。


「あらら」


 物陰に隠れて会社の入り口を見張っていたカリューは拍子抜けした。初日から麗美は男と出てきたのだ。そのまま夜の歓楽街に行き。「様々な店」に入っていくことをカリューは手元のスマートフォンで撮った。


 後で調べたところ黒田は妻子持ちの男性であった。家を調べてみれば立派な一軒家に子供3人と奥さんの5人家族だった。


 カリューは調べた情報をまとめて剛史に送った。憤慨するRhineが帰ってきたが、それをなだめて冷静にすることを送った。


 ――娘さんがいるんですからまずは冷静に。


 カリューがそうメッセージを送ると剛史は幾分か落ち着いたようだった。娘はカリューの情報を剛史に伝えたと聞いていたから落ち着かせるために言った。カリューはRhineから電話に切り替えて剛史にかけた。すぐに出た。


「あのふざけた女が」

「まーまー落ち着いて」


 カリューは背中を路地の壁につけて話す。剛史からその表情は見えない。


「それで剛史さんはどうされたいんですか?」

「もちろん離婚だ。もうやっていけない。あんたから送られてきた写真は十分に証拠になるはずだ!!」

「うんうん。それもいいでしょう。ですがもう少し時間をかけてはどうですか? そうですね、どうせなら慰謝料がっぽりもらえるくらい証拠を集めたほうがいいですよ」


 カリューは軽くアドバイスをする。電話の向こうの男は声を発せずに嗤った。


 しばらく時間がたった。


 カリューは和田麗美と黒田の情事を尾行してしっかりと証拠を集め、剛史にそれを提供した。剛史は復讐に顔を楽しそうにゆがめている。そんな彼をカリューはにこにことした表情を向けていた。


「そうそう、剛史さん。復讐をするなら大きくやりましょう。黒田さんもちゃんと制裁をしてあげるといいですよ」

「……くそ男か」

「そうですねー。かわいい子供が3人もいる幸せな家庭を持った男性ですよ。この人からも慰謝料とっちゃいましょう」


 それを聞くと剛史は笑った。愉しんでいる笑いだった。


 ある日剛史とカリューは待ち合わせをして麗美たちの浮気現場に乗り込んだ。麗美は「違う、違うの」と暴れたが剛史が取り押さえ、逃げようとした黒田の足を何食わぬ顔でカリューがひっかけて倒した。


「麗美さん、黒田さんお話がございますので私の行きつけのバーまで行きましょう」


 絶望の表情をした麗美と黒田と口角をゆがめた剛史。そしてニコニコとしているカリュー。彼らはあの路地裏のバーまで歩いた。

 バーの中ではジャズが流れている。他に客はいない。カリューはふかふかのソファーのあるテーブル席を指さした。間に小さな机がある。


 カリューを除く3人はそこに座った。


「さてさて皆様お忙しい中お集まりいただきありがとうございます」


 テーブル席は暗い。立ったまま彼らを見下ろすカリューの表情はカウンターの逆光で見えない。ただ赤い口だけが見えた。彼女はまずは言った。それからすっと空いた席に座る。


「私は探偵の香華カリューと申します。麗美さんと黒田さんのことはお調べさせていただきました」


 カリューは分厚い封筒を3つ机に置いた。


「あ、これはいろんな不貞行為をプリントアウトしたものとその生データが入ったUSBが入っています。手は触れないでくださいね」


 麗美は青ざめた顔でそれを見ていた。30台の半ばにしてもかなり美人だが、目を見開いてはあはあと息をしている。黒田の顔も青ざめている。


 ただ剛史だけは顔が紅潮している。昂奮しているのだろう、ゆがんだ口元は今からの断罪を楽しんでいるようにも見えた。彼はカリューに目配せした。証拠を見せつけてやれと合図をしたのだ。カリューは頷く。


 彼女は封筒を1つとってそこから写真を取り出す。


「はい。それではこれが和田剛史さんが浮気していた現場の写真になります」


 そこには若い女性とキスをする剛史の写真があった。


 悲鳴のような、怒号のような声が上がった。剛史が叫んだのだ。


「あ? は? おまえ?? 何してんだ!?」

「あ、剛史さん。お相手は田中さんですよね。この人も既婚者ですね。お盛んですねー」

「ふざけんなてめ」


 いう前に剛史の頬を麗美がたたいた。


「裏切者!!!」

「は? お前が何を言ってやがるんだ!!!」


 麗美と剛史はすさまじい声で罵り合った。ありとあらゆる生活の不満から性格まで罵倒し、侮辱した。カリューは両手の人差し指を耳に入れていた。


「はははは!」


 黒田が笑った。和田夫妻とカリューが彼を見る。黒田は低い声で笑い。にやりとする。


「なんだ、旦那も浮気してんじゃないか。じゃあ、この話は終わり、終わりだ。俺は帰るぞ」

「なんだとてめぇ」

「偉そうに言うなよ、確かに俺はあんたの奥さんを奪ってやったけど、お前だって浮気してたんだろ? あいこだよ」


 カリューはニコニコして封筒を取る。


「黒田さん、お子さんはかわいいですか?」

「……かわいいに決まっている」

「たしか学生さんでしたよね」

「プライバシーの侵害で訴えるぞ。もういいだろ俺は」

「そうですかー。じゃあ、麗美さんとは別の2人目の浮気相手さんとの話とか興味があると思うんですけどね」

「は?」


 カリューが封筒から出した写真には別の写真があった。麗美とは別の女性と手をつないでいる。黒田の目が見ひらかれた。がたがたと震えている。


「麗美さんと同じ日に別のコと浮気するのはやばいですよね」


 その時黒田の頬がたたかれた。


「裏切者!!」


 麗美が黒田のほほをたたいたのだった。


「し、尻軽女のくせに」


 その黒田の言葉で麗美はさらにヒートアップした。3人の大人がそれぞれを指さして叫ぶ。醜い争いの中でカリューは梅酒のソーダ割を頼む。


 ゆっくりと梅酒を飲んでからカリューは手をぱぁんとたたいた。和田夫妻と黒田は彼女を振り返った。


「もういいでしょう? 皆さん。思い出してください。あなたたちにはそれぞれ守るべき家族がいて、守るべき子供がいるはずです。それぞれが間違いを犯した。そしてそれぞれが十分に罵り合ったはずです」


 彼女は言う。


「ここは平和的に穏便な解決方法を見つけるべきです」


 しんと静まり返る。しばらくして剛史が言った。


「なかったことにしろって……ことか?」

「剛史さん素晴らしいですね! そのとおりです」

「そんなこと!」


 麗美が叫んだ。


「私が、こんな馬鹿どもに弄ばれたのよ!? 許せるわけないじゃないの!!」

「尻軽」


 黒田がぼそりといった言葉に麗美が鬼のような形相でにらんだ。カリューは続けた。


「でも、このまま不倫が『あったこと』になると大変なことになりますよ、皆さん」

「大変なこと?」


 麗美がきょとんとした顔をする。カリューはにこっと麗美を指さした。


「まず麗美さん、あなたは黒田さんの奥さんに訴えられて数百万の慰謝料をとられるでしょう。そして黒田さんは同じ会社の上司さん、つまり職場も首、です」


 カリューは親指で首を切るようなジェスチャーをする。


「そして黒田さん、貴方はまずこの剛史さんからの慰謝料請求と、奥さんからの慰謝料請求、そしてもう一人の浮気相手さんも既婚者なのでその伴侶さんからの慰謝料請求。離婚、子供さんの親権もなーし。借金はいくらですかねー」


 黒田の顔が再度青ざめていく。


 そして剛史を指さす。


「はい、剛史さん。言うまでもありませんね。そういうことで皆さん、今回は手打ちといきましょう。これでなかったことにしてこれからは真面目にいきるのです。もちろん別の不倫相手さんともお別れください」


 カリューは足を組んで蠱惑的に微笑む。足を抱え込むように座る姿、紅い瞳。


「平和にいきましょう。ね? 3人とも離婚もせずそのままの生活をしましょう」


 口元をゆがめる。


「破滅するよりはましでしょう?」


 カリューの前の3人は頷かざるを得なかった。カリューも満足げに頷く。


「さ、これにて一件落着です。とりあえずこの証拠品は封筒一つ200万で売りますよ」

「っは?」

「は?」

「は!?」

「リーズナブルな良心的値段設定です。封筒は3つで、黒田さんと麗美さんの不倫、黒田さんの別の不倫、剛史さんの不倫のデータです。あらちょうど3つですから、おひとり200万で平等に平和に解決できますね!


剛史が立ち上がった。

「ふ、ふふふ、ふざけんじゃねー!! てめぇ、最初からそれが目的か!!! そ、それに俺の依頼料10万持ち逃げか!」

「あ、そうですね。剛史さんは190万でいいですよ」

「だ、誰が払うか!」

「もちろんいいですよー。不倫相手の田中さんの旦那さんに売りますから。格安でね」

「!!」


 剛史はカリューの胸ぐらをつかんだ。


「こ、殺すぞ」


 紅い瞳が目の前にある。


「いいですよ。殺してください」

「……!」

「さあ、破滅を自ら選んでください。私の封筒を買わないならこれからの人生はすべて消えていくでしょう」


 黒田が叫んだ。


「そ、そのデータがオリジナルではないかもしれないじゃないか! ただのコピーなら何度でも恫喝できるだろう!?」

「あ、それは安心してください」


 カリューは両手を広げる。胸ぐらをつかまれたまま。


「ここにあるものはすべて本物です」

「しょ、証拠はあるのか」


 黒田の声。


「証拠はありません。でも信じてください。人を信じることこそ人生で重要なことです。だって――」


 カリューは嗤う。


「私を信じないと皆さんは崩れ落ちていくだけでしょう? さ、信頼してください」


 信頼。カリューを信じるしかないことを3人は悟った。カリューが嘘をついているかどうかなど確認のしようがない。剛史は彼女の胸ぐらから手を外し、両手で顔を覆って座り込んだ。


「ああ、ああああああああああああ、ああああああ」


 カリューはその様子を見下ろしている。



 数日後に懐が温まった香華カリューはバーで一人ウイスキーを飲んでいた。丸いサングラスをかけた麗しい女性。それが今の彼女だった。


 ジャズが流れている。


 からんと音がした。


 カリューがちらりと見るとそこには高校生の制服を着た女の子が立っていた。


「あ、あの。父と母があれからすごく優しくなりました」

「そうですか。不自然でしょう? それ、演技ですよ。和田さん」

「そ、そうですよね。そうです……よね」


 和田と呼ばれた女の子はうつむいた。カリューは振り返らない。


「あなたの依頼通りに両親それぞれの不倫はやめさせることができましたから報酬だけおいていってください。それ以上この話に突っ込む気はないですよ」


 和田は歩み寄るとカリューの横に封筒を置いた。


「10万入ってます……」

「はい、ありがとうございます。それじゃあこれあげます」


 カリューは和田にさらに熱い封筒を渡す。


「お父さんの不倫の写真が売れましたから提供者のあなたにと思いましてね。190万入ってます」

「え?」

「まあ、取っておいてください。仕事の協力をもらいましたからね」


 剛史の不倫を調べたのはカリューではなかった。和田は封筒を掴んでぺこりと頭を下げる。その瞳からは大粒の涙が落ちていく。


「私は……私は、お父さんにも、お母さんにも、昔みたいに仲良くしてもらいたかった……そ、それだけなんです。でも……あれ、演技なんですよね……」

「ええ、そうでしょう。ぎこちなく、張り付けた演技でしょうね」

「こんな……お金なんていらない……ねえ、探偵さんあの頃を返してって依頼をしたらしてくれる……?」


 カリューは振り返る。サングラスを取り、紅い瞳に彼女を映す。


「私に嘘をついてほしいんですか?」


 和田はその言葉に泣き顔のままカリューを見た。袖で涙をごしごしと拭いて、頭を下げて店から出ていく。


 カリューは一人ジャズに耳を澄ませた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る