繋ぐ糸の色を教えて

錦魚葉椿

第1話

 誰のことを信じてもいけない。

 婚約者はそう言って、一点の曇りもない微笑みを湛えた。

「私の右後ろに立つ黒い髪の男。私がいないとき信じていいのはあの男だけだ」

 黒髪の男は一瞬だけ視線を上げ、そして伏せる。

 声が届くかどうかというような距離にいて、顔立ちすらもはっきりとわからないのに、ティネは自分の体からなにか影のようなものがまっすぐにその男に伸びていく、そんな感覚を覚えた。

 ほんの刹那、絡んだだけの視線。

 反射的に視線を引きちぎった。

 その激情は心臓の奥に手を突っ込んで引きずりだされるようだった。あるいは出会い頭に頬を張られるような。ティネはただうろたえることしかできなかった。

 そしてその感情を必死に隠した。

 引き合わされたその日よりも前に、出会った覚えはない。

 幼馴染の運命の再会などという美談にすることもできない。


 ティネはそれ以来一度も男をまっすぐに見ていない。




 婚約者は非の打ちどころのない血筋と才能と努力をもって、将来治めるべき領地のために奔走している。数年前不幸にも起こった天災による一時的な資金枯渇のために、いくらか身分が劣るものの裕福なティネの家との婚姻を望んだ。

 その婚約はつつがなく成った。

 両家は経済的に共存共栄を図り、穴埋め以上の効果があった。

 婚約者の家が立て直されるにつれて、周囲から反対の声が上がり始める。

 純粋に彼に恋する若い女性たち、やんごとない身分に相応しくない婚約相手を排除し、自分の娘を宛がおうとする者、両家の勢力増大を疎ましく思う者、もっと彼には相応しい者がいると熱烈な信仰者。

 ティネはあらゆる敵から狙われて、気鬱に暮らしていた。

 警備の行き届いた生家の屋敷からでることなく、嫁ぎ先に持参する花嫁道具への刺繍に勤しんでいた。

 彼女は淡い緑のアナベルの花にたとえられている。

 主に女性から、華のない容姿を嘲るために。

 彼女の婚約者はどんな花にも寄り添うティネの慎ましいありようを愛していた。

 相応しいとはいいがたい自分を尊重し深く慈しんでくれる人。もちろんティネも婚約者のことを深く尊敬し、憧れているのに。自分の心に突然存在するようになった激情のやりようがわからなくて、ただ暗く打ち沈んでいる。

 声の届く距離にいない。その声を聴いたこともない。

 どうしてそんな相手にこれほど惹かれているのかわからない。

 周りが言うように、ティネは自分が婚約者に相応しくないことをよくわかっている。

 立派な婚約者が、どうかその血筋に相応しい、そして彼を心から愛する人を見つけて、惨めなほど手痛く自分を捨ててくれないだろうかと、そんな都合のいい未来を想像して、自分の卑しさを恥じた。

 


 アイボリー色のテーブルクロスにいくつも咲く花。

 彼女の手から生み出される淡いレモン色の薔薇の刺繍は、表と裏の区別がつかないほど丁寧で美しい。

「あの者はノルドと言う名だそうでございますよ。姓などはないようでございます」

 侍女頭が父親に報告している言葉を聞かないふりをして聞く。

 婚約者が言うようにノルドは幾度もティネの窮地を救った。

 用心棒として素晴らしい剣の腕を持っていた。

 そして一昨日も、忍び込もうとした賊を彼は独りで五人斬った。

 ティネの両親も彼女のために何人も護衛を雇ったが、いずれも金や色に目が眩み外されていった。護衛を籠絡しようとする者が多いということは、それほどに彼女の身を害そうという勢力は多いということだ。

 ノルドは陰気で近寄りがたい無口な男だったが、彼は一度として彼の主君とその婚約者を裏切ることはなく、ティネの両親や侍女頭の信頼さえ勝ち得るようになった。

「妻と子がいるようです。子供は重い病で、妻は姿を消したそうです」

 ティネは縫い目の乱れたその部分の糸をほどかなかった。

 時折、その部分を指で撫でて、自分と彼との運命が決して交わらないことを、その時の打ちひしがれた気持ちを思い出す。

 自分と婚約者のイニシャルを何枚もの白ナプキンに刺繍しながら、この時間の終わりの瞬間を待つ。死刑執行の日は結婚式と呼ばれている。



 彼女は命を落とすことよりも、その身の内を焦がす本心を周囲に悟られることを畏れた。

 ノルドへの視線は必ず誰かに見とがめられるに違いなかった。

 婚約者のため、両親のため、領民のため、この婚姻は必ず成らなければならないことを彼女はよく理解していた。それは高貴な生まれの者が富と引き換えに受け入れるべき定めであった。ティネの周りにある富と幸福は彼女のものであるようで、どれひとつとして彼女に属すものでない。祖先や両親や婚約者の働きのために産み出されたそれを費消することを許されているだけ。

 美しい所作や家政の切り盛りや美しい刺繍などは今の身分であるから価値のあるものであって、ただひそやかに暮らしていくために金に変わるものではない。

 ノルドにとって役に立つものは何も持っていない。

 彼女の婚約者がノルドの子供の命をつなぐために出してやっている治療費は莫大で、それが打ち切られればその子供はすぐにでも死んでしまうことだろう。




 婚約者は時折訪ねてきて、別れ際に彼女の頬に親愛のくちづけを残していく。

 その間ノルドは少し離れたところで所在無げに佇み、星を数えるように夜空を見上げている。

 ふわりとノルドの視線が戻ってきた。

 優しく自分を抱きしめる婚約者の肩越しに、ノルドの黒い瞳を見つめた。

 

 その一瞬の永遠の時間にティナは自分の心臓から引きずり出されたこの感情が、まっすぐにノルドの魂に繋がっていて、彼も同じであることを知った。

 一生言葉を交わすことがなくても、彼が自分を守り抜いてくれるのは、何の代償でもなく愛であることを。


 ティナが無意識に差し伸べた右手を握ったのは婚約者だった。

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