人間の味

月星 光

第1話 ある妖狐の夜


「なんと。妖狐のくせに、人の一人も喰ったことがないのか」

 兄の釣り上がった黄色い目が、暗闇の中で大きく見開かれた。

「人間などに興味はない」

 ふいと顔を背けると、兄は見下したように鼻を鳴らす。

「呆れたものだ。人間の味も知らぬままでは、格好がつかぬぞ」

「取るに足らないことさ」

 住み処である樫の木の下に身を落ち着け、私は兄と八尺二寸ばかりの巨体を向き合わせていた。

 夏の夜風が、さわさわと草木を鳴らし吹きすぎていく。その美しい音色に比べ、兄ときたら子犬のようにぎゃんぎゃんと。この山奥では尚更、その野蛮な声が嫌でも辺りに響き渡る。

「空腹を満たすばかりでない。妖狐としても、箔が付くというものだ」

 兄が口の端をにたりと持ち上げる。尖った牙が、いくつも顔を覗かせた。

「そういうものかね」

 とは言いながら、私は心の中で舌打ちした。興味がないと言うのに、くどい奴だ。

「そうだとも。弟のお前がそれでは、私まで笑い者だ。よいか、次に私が訪ねるまでに、喰っておくのだぞ」

 びゅっと激しい風が木の葉を舞き上げると共に、兄は姿を消した。

 私は深く溜め息をついた。突然尋ねて来たかと思えば、偉そうに。だが、しつこくされても面倒だ。気は進まないが、明日は人里に下りることにしよう。

 木の幹に身を預け、空を仰いだ。遥か遠い月が、薄く纏った雲をやんわりと月光色に染めている。目を閉じれば、風の音に虫の声。夜露に濡れた草の匂い。

 兄よ。やはり夜は、心静かに過ごすものだ。


 



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