第38話 おとなりの話
そろそろ寝るかと思って電気を消した。
しばらくして、声が聞こえてくる。どこからか。隣の部屋だと直ぐに思い至る。女の啜り泣く声だ。
隣人の姿を見たことがない。まあ、当たり前だ。この時代、学生アパートならわざわざ挨拶に行くこともほとんどない。隣人の姿など、たまに外へ出た時に鉢合わせして会釈するぐらいしか、知る余地がない。
そういう会い方すら、隣人とはしていないのだった。
とにかく、隣室の住人が女性であることすらその時初めて知る。
何故泣いているのだろう。考えたところで答えなどわからない。だが、一度泣いていることに気付いてしまうと、無視して眠ることも難しい。耳元で飛ぶ蚊、入り込んできたカマドウマ、そういう厭さを覚える。
そこでふと、違う気がした。
これは泣き声ではないのではないか。啜り泣きと思えた声は、それとは違う別のものなのではなかろうか。
声の調子をよく聞くと、甲高い音色ではあるものの、何処か弾むような楽しげな雰囲気が入り込んでいる。
啜り泣きではない。
クスクスと笑う声だ。
隣室の女は笑っているのだ。
なんだか全てが下だらなく思えてきた。泣いていると思えた時はその理由を思い浮かべたが、笑っているならもはや何も考える必要がない。
眠ろう。今度こそ眠るのだ。
異音が気になるなんて今更だろう。
さっさと眠ってしまうが吉である。
この心情の急変に色んなものが表れている気がしたものの、寝る直前にそんな人間心理の問題だのあるべき姿だの考えるのも馬鹿らしいと思い、やめて、目をつむり。
いや、やはり何かおかしいぞ。
クスクス笑っているにしては妙にリズミカルだ。声も変に高い。これはなんだろう。どうなのだろう。
より耳を済まして、そしてようやくわかった。
あー、これ、ヤッてんだ。
啜り泣く声でも笑う声でもなく、喘ぎ声だ。
はー、つまらん。終わり終わり。解散でーす。
壁を一発殴って寝た。
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翌朝、起きて、講義のために部屋を出ると、隣室の扉も開いた。
出てきたのは、男である。
こいつが昨日の……と思うも、別に実害があったわけでもない。
とはいえなんだかむしゃくしゃしたので、声をかけた。
「あの」
「はい」
「声でかいって伝えてくれません?」
「はぁ……なんのことでしょう?」
とぼけるんじゃあない、嫌味か! と声を荒げそうになるも、男の本気できょとんとした雰囲気に毒気を抜かれる。
そこでちょっと何があったか説明しようとした。
「昨日の夜なんですけど、声聞こえてきたんですよ」
「僕の部屋からですか?」
「はい」
すると男は目に見えてぎょっとした様子で、狼狽していた。
「いやそれはおかしい」
「なんでですか」
「昨日僕カラオケ行ってて、帰ってきたの今朝ですよ。…………警備会社に確認してみますか?」
アパートには警備のシステムが入っていて、自分の部屋が開いたかどうか確認できた。
そんなことを持ち出してきたのだ。雰囲気的にも、嘘をついているようには思えなかった。
「じゃあ、俺の聞き間違えかもです。すみません」
「いえいえ。ありがとうございます。僕の方も心配なので、後で確認してみようと思います」
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講義から戻ってくると、家の前に人だかりができていた。なんだなんだと思う。近づいて行くと、隣室に警官が何人も入っている。スーツもいれば制服もいる。
「何があったんですか。俺は隣の部屋の住民です」
そう主張していると、スーツの警官がやって来た。そして、人だかりから離れた場所へ移動して。
「実はですが……」
隣室から女性の死体が発見されたのだと言う。
驚くとともに、疑問が繋がるように思えた。そうか、じゃあ昨日の声は本当に、女性のものだったのか。
そこで、警官に昨夜の話をする。証拠となる記憶で有難がられるかと思ったのだが、警官は何やら迷惑そうな嫌そうな顔をして、そして、冗談を言っていい状況と、そうでない状況がある、と口にした。
「見つかったのは、白骨死体だ。君が入居する前には既に死んでた計算になる。昨日声を上げるなんて不可能だよ」
「じゃあ、俺が聞いたのは」
「シンプルに幻聴か夢だよ。犯人と思われる住民も、昨日はいなかったんだから」
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そんなことがあったのが、昨年の話。
あれからアパートの住民は減った。殺人犯が住んでいたアパートなど嫌だろう。
自分は引っ越しを手間に感じていたし、そんなお金もないから、残留していた。
帰宅しながら、アパートの背面、並ぶ窓を見る。夜見ると、三件程度しか明かりがない。もうほとんど幽霊アパートだ。そんなことを思いながら笑って、ふと、違和感。
隣室に電気がついている。
まさに殺人犯の部屋だ。そこに住む人などいないはず。いたら引っ越し時に気付くだろう。そう思っていると、窓が開く。
女性が出てきた。
彼女と目が合う。
「いぬ」
すぐ後ろから囁き声が聞こえた。
慌てて振り返るが、なにもない。
前を向き直すも、品質の窓は閉まっており、灯りもついていない。それはそうだ。この部屋はもう随分空なのだから。では、今の声は。今見えたものは。なんなのか。
わからないことだらけである。
隣人が何をしていたのかさえ、わからなかったのだ。これ以上わからないことが増えたところで、もうどうしようもないと、そう、思う。
解散。解散。南無阿弥陀仏。
家に帰ることにした。
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