第37話 幽霊屋敷の怪の話

 20☓☓年、5月。

 珍しく体調を崩して休んでいた。家には他に誰もいない。妻が用意してくれた作り置きのおかゆをチンして食べて、熱を測り、新しい冷えピタを額に貼って眠る。そういう一日を過ごしていた。


 ふと、誰かに呼ばれた気がして目を覚ます。

 時計は夕方を示していた。

 無論、誰も呼んでいない。

 そもそもこの家には自分だけだ。


 何だったんだろう。夢でもみたか。そう思っていると、外から呼ぶ声がした。


 体を起こし、怠さに抗いながら窓を開ける。


 下の道路を、息子と妻が歩いてくる。幼稚園の帰りだ。


「お父さん!」


 息子が手を振る。振り返す。

 妻は何やら怪訝な顔でこちらを見上げている。

 なんで休んでいないの? とでも言いたげだ。

 いやいや、今さっきまで休んでいたんだよと、説明したいところだが、まあそれは二人が入ってからで良い。


 やがて二人が家へ帰って来る。

 息子が階段を上がり廊下を走る賑やかな音。しかし扉の前で妻に呼び止められる。「パパは具合悪いから、休ませてあげてね」少し寂しいが、そうしてもらえると助かる。息子の気配が離れ、代わりに妻が部屋に入ってくる。


 彼女は辺りを見渡すと、クローゼットを開けた。ゴソゴソと覗き込んでいる。


「何してるの」

「いや……おかしいわね。他に隠れるところとかないんだけどな」

「なんだよ」

「……ねえ、あなたって一人っ子だよね」

「そうだけど」


「じゃあさっきあなたと一緒にいた、そっくりな人はだれ?」



 前述の通り、今日この家には、自分しかいない。

 そのはずだ。



 ──────────────────────



 19☓☓年、8月。

 幽霊屋敷と呼ばれている。街の外れにある。屋敷というほど大仰ではないが、確かにそこには出るのだという。


 首の折れた女が二階の窓から見下ろしていた。

 渡部が肝試しで入って以来様子がおかしくなっている。

 夜中になると玄関のドアが誘うように開いている。

 誰も住んでいない廃屋なのに、主婦らしき女性が買い物袋を持って入っていくのを見た。

 あの家の近辺だけ異様にセミがなかない。

 たまにじっとこちらを見ている気がする。何が? さぁ……。


 そういう噂話の大半は面白がって流されただけの捏造なのだが、中には事実に近いものもあり、以下に記すものがそれ。


 幽霊屋敷の五軒隣にアパートがあり、そこに部屋を借りた大学生の八瀬永太郎やせりょうたろうは真夜中、急遽カラオケに誘われ駅前へと繰り出していた。解散したのは夜中の一時で(ここまで来たら徹夜するべきだったかもしれないが、その場の全員が翌日一限からであった)、四辻を曲がる頃には一人だけになっていた。


 夜道なれど電灯の灯りは強力で、特に不安がることもなく、のんびりと歩いていた。


 そして家の前で曲り、門を潜り、飛び石を越えて、ドアノブを掴んで玄関ドアを開ける。

 玄関の電気はついていた。明るく暖かい雰囲気で、永太郎は靴を脱いで中へ踏み込む。ギィギィと軋むような音。

 廊下の、一番手前の曲がり角にはシャワールームがあり、『浄め処』と言う札がかけられている。永太郎はまずそこで体を清めなければと思い、中へ入る。左右と前方が鏡張りの空間は個室トイレめいた狭さでありながら合わせ鏡の効果でどこまでも続いているようだった。永太郎は服を脱いで中へ入り、シャワーで体を洗う。鏡のおかげで洗い残しなく全身を清浄にできるものの、頭の何処かに違和感を覚えていた。


 清めた後、廊下の奥を見ると、部屋の一つの灯りがひときわ煌々としている。永太郎が向かうと、そこはリビングのような空間だった。ソファが2つ、テーブルを挟むように並べられていて、薄くて大きなテレビがある。


 永太郎は突然強い疲労を覚えて、ソファに腰掛けた。


「もうしばらくです」


 対面するソファに座っているものが朗らかに言った。


「あと少しのところにいます」


 テレビ番組なのだろうか。トンネルめいた空間の映像が映し出されているのをぼんやりと見る。

 するとトンネルの奥に何か映る。それは膨らんだり縮んだりする何かで、形がよくわからないが、辛うじて二足歩行の存在だと見えた。


 それが一歩踏み出して近づいてくる。


 段々とこちらに寄ってくる。


 こちら。おかしい。こちらに来るからなんだと言うのか。カメラに近付くだけで、画面の向こう側になど来れるはずがない。


「来てくださいますよ」


 対面するソファに座っている黒いものが言う。


「あと少しです」


 おかしい。ここにきて永太郎の理性が覚醒する。

 永太郎はソファから立ち上がる。

 ここはどこだ。アパートじゃない。

 なんでこんなところにいる。

 逃げなくては。出なくては。帰らなくては。


 そんな彼の様子を察したように、画面の中のそれの様子が変わる。一歩一歩確かに踏み出していたのが、いきなり加速し走り出したのだ。物凄い速さで大きくなる。接近してくる。


 あれが画面いっぱいにまでなるとまずい。そう直感した永太郎は慌ててリビングから飛び出した。


 廊下は真っ暗だった。入ってきた時の明るい雰囲気、暖かさの欠片も感じられない暗黒。

 左右どちらから来たのか思い出せない。後ろの画面から逃れ、家から出るためにはどちらに向かえばいい。


 その時、ぴちょんと水の滴る音が聞こえた。

 この家に入った時、シャワーを浴びたことを思い出す。思い出してゾッとする。玄関横の、鏡張りのシャワールームで体を洗う。それも知らない家で。そんなことを何の疑問も抱かずにしていたのかと。

 明らかな異様に鳥肌を感じつつも、同時に水滴の音は救いの糸だった。栓の締めが甘かったに違いない。永太郎はそちらの方に駆け出した。


 すると闇の中、開いている扉が見える。入ってきた扉であろう、その外には電灯と、向かいの家が見えた。


 その扉が閉まろうとしている。勝手に閉じようとしている。永太郎は走る速度を上げて、そして、閉じようとしている扉へと体当りしてこじ開けた。そのまま飛び石を蹴り、門の外に出る。


 何とか出られた。肩で息をしながら振り返る永太郎の目の前で、扉が閉まる。


 その扉の隙間から、みっしりと廊下に詰まっている人間の顔が見えた。


 扉が完全に閉まった。



 ここでようやく永太郎は、自分が疑問を抱かずに入った家が、幽霊屋敷と評判の家であることに気付く。



 抜けそうな腰を奮い立たせ、どうにか家に帰った永太郎は、それから三日間発熱した。

 以来、彼は深夜までの遊びを控えるようになり、仮に遅くまで過ごした場合は躊躇なく徹夜する学生生活を送ったという。


 だが果たして彼がその後も幽霊屋敷に誘われなかったのかどうかは、定かではない。


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 201☓年、9月。

 隣家があまりにうるさく騒いでおり、こんな夜中に出す音としては異常に思えたので、部屋を出て、家を出て、文句をつけに行く。

 隣の家の前に立つ。

 とんでもなく賑やかで、パーティーでもしているようだった。

 だがそこでふと冷静になる。


 明かりがまったくない。

 人の気配もない。動く音もしない。物音がしないのだ。


 だが声だけは聞こえてくる。

 その声も冷静になって聞いてみるとおかしい。日本語ではない。家族がハマっているドラマで聞き慣れた韓国、中国の言葉でもなく、むろん英語でもない。

 複数の人間の、まったく知らない言語の会話だけが、やたらと大きな音で聞こえる。


 その異常事態に、逆に冷静になっていく頭が、最後のピースを嵌める。



 この家に人は住んでいない。


 先月、一家心中していたじゃないか。



 慌てて我が家に戻り、鍵を閉めて、部屋へ戻る。


 家族が訝しげにこちらを見た。


「何してたの」

「いや、うるさかったから」

「何言ってるの。さっさと寝て」


 ああ、家族には聞こえていないんだなあと思い、となるとあれは本当に、異様なものだったのだと実感した。

 仏壇に手を合わせて、線香を立て、それから寝ることにした。祖父母が守ってくれる気がしたからだ。



 翌朝、見てみると、仏壇の写真の額にヒビが入っていた。

 新しい額に変えて、翌晩も線香を立てて手を合わせてから寝ると、その夜は何もなく、また、もう額が壊れていることもなかった。



 しばらくして引っ越すまで、寝る前の合掌はやめられなかった。



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 200☓年、3月。

 地鎮祭にしては大仰だなあと思った。

 営業のために歩いていた道の途中で見かけたそれには、神主・宮司らしき装束の男が五人ほどと、建設業関係者と見られる者が数人、更に……思わずぎょっとする。市長だ。市長までいる。


 何かのイベントだろうか、しかし縄を貼って、何かしている様子を見るに、地鎮祭としか思えない。

 これが市営の劇場ホールを作るためのものなら、市長がいるのも納得だ。けれど、ここは何の変哲もない住宅地。周りには家やアパートしかない。この空き地も、普通の家程度のサイズしかない。


 違和感があった。


 地鎮祭は粛々と進む。


 その中で一人。宮司の一人の隣にいる、黒いものが言った。


「またしばらくかかりますが、ちゃんときてくださいますよ」


 なんだか厭な予感がして、長く見ているべきではないと思って、その場を離れた。


 営業でいろんな街に出掛けると、意外な光景に出会うことも多い。

 けれどあれほど、何故か気味の悪い光景には、なかなか出会えないものだ。





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