第35話 川の話


 ああ、窓に! 窓に!


 ───H・P・ラヴクラフト『ダゴン』


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 夏場、足を布団から出して寝るのが怖かった。

 それは東京で一人暮らしをしてからも変わらない。

 理由は無論ひとつで、掴まれそうだったからだ。


 何に?


 掴むような何かなどいない。当たり前だ。部屋には鍵をかけているし、ベッドの下やクローゼットの中に潜むものなどいない。


 けれど、だ。

 寝ている時の足は無防備だ。無論、寝ている時は全身が無防備である。けれど特に、足はそれを強く覚える。布団の外に出すのは、無防備以外の何ものでもない。


 まるで自分から差し出しているかの如くである。

 掴んでくださいと宣言しているようなものではないか。


 何に?

 何に対して宣言しているのか。


 私以外この部屋にいない。

 部屋の扉には鍵を掛けることができるし、二階にあるから窓からの侵入も不可能で、その窓にも当然鍵を閉めている。他に部屋への出入り口はない。

 そのうえで、私一人しかいないのだ。

 掴んでくださいなどと宣言する相手は、存在しないのだ。

 にも関わらず、私は恐れている。


 何を?

 本当に疑問だ。私は、いったい何を恐れている?


 掘り下げるなと心の何処かが言っている。けれど私は思い出す。何があって、何が怖いのか。




 すると聴こえてきたものがある。ざあざあざあざあ、雨音か、いいやこれはもっと違う、雨音よりも更に厚い音だ、ああこれは、ばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃ、きっと。





 確かいつかの夏休み。私は、川に遊んでいた。川遊びは危険だからするなと言われていたが、しかしそんな警句は子供の心のスリルを煽る効果しかない。

 その日川にやって来たのは五人。タケシ、ナツオ、私、ヨシダ、タケシB。川は膝小僧までの深さしかなく、私達はそれを眺めるところから始めた。やがてタケシBが水切りを始めたのでそれにつられて全員が熱中し、それにも飽きた頃、水の中に入り始めた。


 ひんやりとした冷たさに鳥肌が立つ。その後、岩の滑る感じにヒヤヒヤしながらも、暑さが冷たさに溶けていく感覚に魅了される。私達は互いに水を掛け合って遊んだ。やってて良かった、川遊び! そんな勢いだった。


 ふと気が付くと、本家のタケシがいない。そう、本家のタケシ。タケシは二人いたのだが、片方は後から引っ越してきたタケシで、だから先にいた方を本家のタケシ、後からきた方をタケシBと分けていたのだ。その、Bではない、本家のタケシがいなかった。


 どこに行ったのだろう。もしかして先に帰ったのか。そう思って辺りを見渡していると、あっと声を上げたのはナツオである。彼は目を見張りながら、指差した。その先を見て皆、ナツオが何に驚いたのか瞬時に理解する。


 川のしばらく先に、水面が荒れているところがある。ばしゃばしゃと荒れているところがある。水面から手が突き出ていた。手は左右に、前後に、大きく振り回されている。まるで、助けを求めているように。


 タケシが溺れている。そう理解して、慌てた。


 私は、慌てて走った。タケシの方にかけていく。川の中だ。足元は不安定だ。ばしゃばしゃと走る。思うように早くならない。夢の中で走っているみたい。本来、溺れている人間のもとに直接助けに行くのは専門家でも危険なのだが、その時私は、全く思考が足りていなかった。とにかく焦って、タケシの元へ、急いで。


 ふと、思う。

 川の深さは膝より下だ。

 人はこれだけの深さでも溺れると聞いたことがある。流されることだってあるだろう。

 だが───


 タケシの手の突き出ているところまで、あと2m程度のところで思う。


 溺れることもある。流されることもある。手を突き出して、ばしゃばしゃと動き、助けを求めもするだろう。

 それなら、手以外の身体も水面から出ていいはずだ。


 なのに、タケシの手しか出ていないのは、いったい



 のびた


 手が伸びた。ぐにーっと伸びて、ああ、ゴム人間


 伸びる?



 人の手ではないことに気付いた時には、足首を氷のような冷たさが包んでいた。


 わあと声を上げた瞬間、その手に力が籠り、そして。



 弾かれた。

 何かが腕に当たり、白い長い手は足から離れる。



 こっちだーっ。と声が聞こえた。

 見れば、タケシBが腕を振りかぶって何かを投げた。それは水面を跳ねながら、なおも蠢く白い腕に直撃した、平たい石である。

 水切りだ。


 はやくこーいっ。叫んでいたのはナツオか、ヨシダか。とにかく私は、走り出す。


 自分のばしゃばしゃという音。その後ろから、ばしゃばしゃという音が増えている。増えていく。増えていた。

 とにかく後ろから、右後ろ、左後ろ、真後ろ、そこからとにかく沢山、ばしゃばしゃ、ばしゃばしゃ、ばしゃばしゃばしゃばしゃっ、音が連続するのは、何故だろう、振り向けない、走るのが精一杯だ。タケシらしき何かの元に急いだ時以上にまともに走れていない。


 石が脇を抜けていく。ナツオとヨシダも長い木の枝を構えている。思ったより近い。岸はあと少しだ。


 背中。濡れて冷えた服が重い、その体の、その背中に、ふっと風が当たる。まるで何かが上下に運動して、それが起こした風が当たったように。


 私を掴もうとして振るわれた腕が偶然空振って、それに憧れた風がひんやりと。


 走る。とにかく走る。音は増える。だんだんと横からも聞こえてくるみたいで。増えていく。増えていく。何が?


 わあーっという声とともに両脇を横切る木の枝。

 二人が何かを押し返そうと突き出したようで。


 そこでようやくあと一歩もないところまで来たことを悟る。私は最後の一歩を踏み込んで、川から飛び出た。そのまま砂利の並ぶ岸に転がり込む。


 ナツオとヨシダは? タケシBは?


 慌てて立ち上がり、見る。


 三人は肩で息をしていた。彼らの先には、何もなかったように流れるだけの川があった。



 おい、見ろよでけーザリガニいた!

 そう言ってタケシが上流から歩いてくるまで、私達は油断なく、川を睨んでいた。


 ただ、ナツオたちが私の後ろに何を見たのかだけは、ついぞ聞けなかったが。




 それと。

 私の足には、赤いアザがしばらく残った。足首のところに、掴まれたような跡が、残った。




 以来、私は、足を掴まれるのが、怖い。

 そうだ。私はが足を出して眠れないのは、この怪事から来たトラウマで。




 なら……それなら、確かに納得はするが。



 しかし……恐怖の対象が川にいるなら、今、この部屋の中で掴まれる心配はないはずだ。川は遠く、部屋は密閉されている。



 やめろ。止めろ。思考するな。それ以上探れば、碌なことには。



 東京は、古くは湿地で、場所によっては海の底。

 現在は、建造物の中を水道管が走る都市。


 つまり───地面の中にも、壁の中にも、川は、水の流れは、あって。



 ああ。

 ああ。


 いる。いる。

 ばしゃばしゃ。ばしゃばしゃ。


 ばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃ。


 もう駄目だ。今は私一人だけ。


 ばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃ!!



 ああ!! ばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃ!!

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