虚構の菊

雨湯うゆ🐋𓈒𓏸

雨黙華菊という名の奇怪

自己同一性の葬送

鳴けよ鳴けよと、鵼鳥ぬえどりの、

うらなくのどえ、乙女草おとめぐさ

露の中継なかつぎ、朝霧の、

乱るる髪は、白薄縹しらうすはなだ


 誰が言い始めたか、

このような文句から始まる

雨黙華あめつむばなの きくという名の娘がいた。


一度その顔を見てしまえば、

雨の音すら聞こえぬほどに盲信してしまうのだとか。


別にそのことについて疑いを持っているなんてことは、ありやしない。

まったく、現に僕の友人は霧の中だ。


『詩的で宗教的な調べ』というピアノ曲集を知ってるだろうか?

フランツ・リストというオーストリアの男が描いた芸術品さ。

第七曲『Funérailles葬送

その作品群の中で最も有名な曲なんだとか。


強烈なオクターブを弔鐘に見立てた序奏が人々の心にも響くのだろう。

僕の心にもよく響いたよ。

ただ、故人に対して鳴らすものを模倣した音が、

今彼らの心に響いているというのは皮肉と捉えていいのだろうか。

甚だ人間のさがは矛盾しやすいものだね。


そういえば、

デリダが言うに、人間の性という自己同一性には差異が発生しているというじゃないか。

いや、うん。

それは科学的に見ても正しいだろう。

これはテセウスの船と酷似している。


鏡に映る自分は別人である。

これは有名な話だ。

鏡に自分の姿が反射して目に入り、それを認識するまでの小さい時間でも、

僕らは新陳代謝を繰り返しているわけだから、


僕らの体の中で、

鏡に僕らが映るまでの一瞬で、

原子の一粒が微動だにしないという場合を除いて僕らは常に非自己(元自己ともとれるだろうか?僕は詳しくないんだ。)を見ている。

というわけだ。


言い換えれば、

常に僕らは僕らの自己同一性を葬っている。

そうは考えられないかい?


僕らは時間が進むたびに変わる自己同一性へ弔鐘を鳴らしはしない。

だって僕らはその一瞬一瞬の自己同一性の死を、普遍的なものと見ているからね。


雨黙華菊、これからは菊と言うが、

菊はよく先の『葬送』を聞くんだ。

なんだって、それがいわば、彼女の去り行く自己同一性に対する、終油の秘蹟がわりらしい。


別に彼女はカトリックでもなんでもないよ。

ただ、その表現を彼女が一番好むんだ。

彼女、司祭への告解をしたことなんてないのにね。

君も、酷く教養のない例えだと思わない?

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