第33話 お返し
「ごめん、楓ちゃん。ちょっといい?」
夜も十時。晩ご飯もとっくに食べ終わり、家族の各々が自由な時間を過ごしている時間帯。
わたしは楓ちゃんの部屋の二回ノックして、確認をした上で扉を開ける。
部屋を覗くと、机に向かって勉強していた楓ちゃんが何の用かと不思議そうな顔でこちらを見つめていた。
「どうしても分からない問題があって…… ほんとちょっとだけでいいから教えて欲しいんだけど……」
もうテストまで残り二週間を切った。テスト範囲も発表され、周りの空気も真剣ムード。今日みたいに、放課後に紫陽花を見に行けるのもテストが終わるころまでないだろう。
「いいですよ。どれですか?」
楓ちゃんは勉強机から離れ、部屋の中央にある中くらいの机の前で正座する。わたしも楓ちゃんの隣に座り、手に持っていた問題集を広げる。
「ここなんだけどね……」
楓ちゃんも自分の勉強があって大変なのに、わたしのせいで時間をとらせてしまうことは申し訳なく思う。ただ、どうしても化学が苦手なもので、自分一人の力ではどうにもならないのだ。
モルとかいう謎の単位を使って物質量を求める問題……らしい。
できるだけ考えてみたけど分からないし、答えを見ても分からない。
というか、そもそも答えに解答の手順を詳細に書いてくれていないのが悪い。計算式を省かれているのだ。もうちょいしっかり教えてくれよとツッコミを入れずにはいられない。
「あー、なるほど。これはですね……」
「あ、うんうん」
わたしは変な邪念を捨てて、楓ちゃんの言葉にしっかりと耳を傾ける。
「これとこれとこれを足して……」
「うん」
「これで式を作ると1:2になって……」
「うんうん」
「それで計算すると…… ……はい。これで答えあってますよね?」
「あ、え、ほんとだ、すごい!」
答え合ってる! 天才じゃん! あれだけ考えても分かんなかったのに!
わたしが答えを見ても分からなかった問題を楓ちゃんはあっという間にこなしたのだ。しかも、問題を確認してから計算をし始めるまでに時間はほとんどなかった。
わたしは今、改めて楓ちゃんの凄さを身に染みて実感していた。
「ちょっと待って! もう一回自分でやってみる!」
わたしはもう一度問題文を読み直し、ペンを握ってノートに計算式を書いていく。
うわっ、ほんとだ出来た…… そっか…… これを足してなかったから…… あ、ここも間違えてたのか…… ここに関しては凡ミスだな…… もうちょっと考えてたら……
「──さん」
「…………」
「由衣さん」
「……………………え、あ、はい! 何!?」
問題に集中していたからか、楓ちゃんの声が遅れてやってきた。
「これをどうぞ」
「…………え!? 何、どうしたのこれ!?」
どこから現れたのか、楓ちゃんの手にあったのは小さな花瓶だった。その花瓶の中には花瓶に合わせて茎を短く切られた青い紫陽花が可愛く咲いている。
わたしは驚きつつも、とりあえず楓ちゃんから花瓶を受け取って、机の上に置く。
透明な花瓶の中では水がゆらゆらと揺れていた。
「由衣さんと一緒に帰ってきた後、一度出て買いに行ってきました。由衣さんが喜ぶかと思って。日頃の感謝です」
「ええ!? 誕生日でもないのに!? いいの!?」
「はい。お部屋にでも飾ってください」
「え、すごい嬉しいんだけど!」
こんななんでもない日にプレゼントを貰うことは初めてだ。誕生日にプレゼントを貰うのも、もちろん嬉しいけど、今は驚きと嬉しさが混ざっているからか、さらに嬉しいような気がする。
しかも紫陽花。本当にわたしのためにと思って選んでくれた楓ちゃんの気持ちも嬉しい。
わたしは机の上に置いた紫陽花をもう一度眺める。
花瓶の中の水はすでに波紋一つもなくなっていた。
うわあ、可愛い…… いいなあ、これが自分の部屋にあるって。絶対和むだろうなあ……
「楓ちゃん、ほんとありがとう!」
わたしは楓ちゃんの手を握ってぶんぶんと上下に振った後、楓ちゃんに抱きつき、最大級の嬉しさを表現した。
本当に嬉しいときはちゃんと嬉しいなりの表現をした方がいい。
「あ、そうだ。何かお返しができたらいいんだけど……」
そう言いながら、楓ちゃんから離れる。
なんせ急なことで何も用意はない。
明日雑貨屋さんに行って何か買って来ようかな。テストが近いからとか、そんなことを言っている場合ではないよね。
「それなら一つ欲しいものがあります」
「欲しいもの? 何何? 今、お金あるから何でも大丈夫だよ!」
「……これですよ」
わたしは楓ちゃんに体を引き寄せられ、少し前に前傾した。……と、同時に何かがわたしの唇を塞ぐ。
「…………え?」
何が起きたのか分からない。わたしは頭を働かせて、とりあえずは現状を紐解いていく。
体は楓ちゃんの方へ引き寄せられ、唇には柔らかい何かが触れている。目の前には長い睫毛が見え、お腹の辺りをギュッと締め付けられている。
これって……
何が起きたのか。わたしはしばらくしてようやく現状を理解して、目を見開く。
「んんん!? んー!!」
唇を塞がれていて喋ることができない。楓ちゃんの押す力が強く、首に力を入れていないと倒れてしまいそうだ。
ふと目に入った花瓶の中で、水が小さく波紋を広げている。
押し返すこともできず、楓ちゃんの肩を叩いてみるけれど、離れていく気配もない。
なんだか体が熱い。目が潤む。思考が完全にショートしそうだ。わたしは混乱しながら、そんなことを考えていることしかできなかった。
この状態がしばらく続き、呼吸が苦しくなってきた頃。ようやく唇から柔らかい感触が失われていく。
「か、楓ちゃ……!? き、ききき……!?」
言葉を発せられるようになったものの、上手く呂律が回らない。
わたしはもっと回らない頭でもう一度考えてみる。もう一回。さらにもう一回。最後にもう一回。しかし、何度考えてみても考えは変わらず、今の行為はキスというものに他ならなかった。
「…………これ、結構…………ヤバいです……ね」
楓ちゃんが自分の唇に手を当てて言う。
わたしは何をどう話していいか分からず、楓ちゃんを見つめていることが精一杯だった。
「……あの、由衣さん。わたし、今日はもう寝ることにするので、部屋に戻ってもらってもいいですか?」
「あ、え……!?」
「おやすみなさい」
「え、おやすみ!?」
バタンと大きな音をたてて扉が閉まる。
わたしは頭がこんがらがったまま、閉め出されるように、楓ちゃんの部屋から出て行くことになってしまった。
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