第5話 母
「あっ……」
リビングに戻ると、久美さんが椅子に座っているのが目に入った。
「あれ、お父さんは?」
「仕事の人から電話がかかってきたらしいわ」
「あ、そうなんですね」
「ねえねえ、由衣ちゃん由衣ちゃん」
「はい?」
わたしは久美さんに手招きをされ、久美さんの近くまで歩く。
「これって由衣ちゃんが選んでるの?」
そう言って、久美さんが指さしたのは部屋の角にある机に置かれている花瓶だった。
その花瓶には鮮やかな黄色から甘い香りを放つフリージアが飾られている。
「はい。そうですよ」
「そうなんだ! わたしもね、お花大好きなんだよ」
「え、そうなんですか!? めっちゃ分かります! わたしも好きなんです!」
わたしの唯一の趣味らしいもの。それが花である。
好きが高じてお花屋さんでバイトするくらいには好きだ。
花を見ていると、自然と気分が和らぐし、部屋に飾ってあるだけで癒される。
それに花には花言葉なるものもあり、そんなことを考えたりするのも面白い。
「そうなんだ! なんのお花が一番好きなの?」
「そうですね……」
好きな花は本当に両手足では数えきれないほどたくさんある。
でもやっぱり……
「わたしは紫陽花が一番好きですかねー……」
雨が長く続くことによって、気分が憂鬱になって嫌われがちな梅雨に咲く代表的な花。
わたしは季節の中でこの時期が一番好きだ。
なぜなら紫陽花が咲くから。
昔から雨が降っているのに傘をさして、近くに咲いている紫陽花をよく見に行っているものだ。
紫陽花の魅力が何かと聞かれると、すごーく長くなってしまいそうな気がするので省略させていただこう。
「あー、わかるなあ。紫陽花っていいよね」
「久美さんは何が一番好きなんですか?」
「わたしはねえ、ちょっとベタかもしれないんだけど、バラ……かな」
「おお! いいですね!」
花と言えば誰もがイメージするであろう王道中の王道。
綺麗なバラには棘があるとよくいうものだ。
「由衣ちゃんとはすごく仲良くなれそうだね」
「……! わたしも思ってました!」
今まであんまりこんな話を身近な人とすることはアルバイトのとき以外ではなかったからものすごく嬉しい。
まさか姉妹よりも先に久美さんと仲良くなるとは。
趣味の力恐るべし。
「……その、由衣ちゃん。ちょっと話は変わるんだけどね」
「……? はい?」
「由衣ちゃんはわたしがお母さんになるってことに抵抗はない?」
「えっ……」
わたしは急に話の流れが変わったことに心をドキッとさせる。
「抵抗……ですか?」
「ほら、本当のお母さんじゃないのに……とか。わたしは由衣ちゃんの本物のお母さんにはどうやってもなれないから……」
「…………」
久美さん、やっぱりいろいろと考えてるんだなあ。
すごく優しい人なんだろう。
そんな人にあんまり嘘つくのも、かえって良くないかな。
「正直に言うと、抵抗ってよりかは不思議な気持ちですかね」
「不思議……?」
「はい。お母さんってずっとうちにはいない存在だったので」
わたしの本当のお母さんはわたしが三歳のときに病気で亡くなってしまった。
まだ幼かったのもあってか、わたしにはあまりお母さんの記憶はない。
ただすごく優しかったというふわっとした記憶だけがずっと残っている。
そんないないことが当たり前の存在が家にいるっていうのはすごく違和感のようなものがある。
だから嫌とか抵抗があるっていうわけではない。
だけどこの違和感の感情はどうしようもないことで、「徐々に慣れていくことしかないよね~」なんて、わたしはすごく気楽に考えていた。
それを久美さんはもっと深刻に捉えていたのかもしれない。
「久美さんに対して抵抗なんて一つもないですよ」
これがわたしの本当の本当の本心かはわからないけど、これがわたしの言ってあげたいこと。
あまり母という役割に縛られすぎないで欲しい。
「それに久美さんと話してると楽しいですし!」
「…………そっか。それなら良かった。これからあの子たちとも仲良くしてあげてね」
「はい、もちろんです!」
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