4-3. 無力感
朝食を食べ終えると、麗良は、気分転換に庭に出てみることにした。日はもう高く上がっていたが、曇っているようで少し肌寒い。
カーディガンを取って来ようかとも思ったが、面倒に思ったのでやめておいた。空気は、湿気を孕んでおり、もうすぐ梅雨の季節が訪れることを予感させている。
庭の紫陽花が咲き始めていた。もう少しすれば、クチナシやユリも咲くだろう。
縁側に胡蝶の姿はなかった。一日を自室で過ごす胡蝶の睡眠サイクルは不規則で、まだ寝ているのかもしれない。ほんの少しほっとする自分がいることに軽い嫌悪感を抱きながら、麗良は庭を歩いた。
植物に囲まれているだけで心が凪いでいくのを感じた。言葉を持たない彼らは、そこにいるだけでいつも麗良の心を癒してくれる。
池の周りをぐるりと半周したところで話し声が聞こえてきた。離れの方からだった。見ると、青葉とラムファが二人きりで何かを話している。
青葉は、部屋の中から段ボールを抱えて縁側に置くところだった。
「本当に家を出るつもりなのか」
「僕だって、この家を出るのは辛い……。
でも、大事だからこそ、これ以上ここに居るわけではいかないんです」
青葉は、縁側から下りて靴を履いた。
「胡蝶のことは、このまま何も言わないままで良いのか」
ラムファの問い掛けに、青葉は自嘲するように笑った後で、投げやりに答えた。
「花展は大失敗。それも僕の家の所為で。
それなのに、一体どんな顔をして彼女にプロポーズすれば良いって言うんですか」
〝プロポーズ〟という言葉に麗良の身体が固まる。さっと血の気が引いていく音がすぐ耳元で聞こえた。
「君の胡蝶への気持ちは、その程度のものだったのか」
声を抑えてはいるが、ラムファの口調からは青葉を煽るような責める気持ちが含まれていた。
青葉は、麗良が見たことのない怖い顔でラムファを睨んだ。
「あなたにそれを言われたくはない」
同じ屋根の下で暮らしていながら、ラムファが未だに胡蝶に会っていないことを青葉も察している。
事情は知らないものの、長い間胡蝶を一人きりにさせていたことも、青葉から見れば、ラムファは、ひどく身勝手な男にしか映らない。
それでも表面上は、師である良之と、娘である麗良の手前もあり、最低限の敬意を持って接してきた。
しかし、今ラムファが発した言葉は、青葉の逆鱗に触れたようだった。
青葉の瞳に怒りの色が見える。少なくとも麗良の前では一度だって声を荒げたり怒ったりしたことのない青葉が静かに怒っている。
「事情を知らない僕が口を出すべきではないと思っていましたが……これだけは言わせてもらいます」
青葉は、口にするのがやりきれないといった表情でラムファに向き直ると、真っすぐラムファの目を見据えて言った。
「胡蝶さんのことを本当に大事に想っているなら、あなたがすべきことは一つだ。
今すぐにでも彼女に会って、傍に居て……もう彼女を一人にしないでください」
青葉は、自分の言葉に自分で傷ついたかのような顔をして俯いた。何も言い返せないでいるラムファを横目に、縁側に置いていた段ボールを抱え、麗良の方へと歩いてくる。
咄嗟に身を隠せる場所を探したが、すぐに青葉に気付かれてしまった。
青葉は、麗良を見つけると、申し訳なさそうな表情を浮かべて足を止めた。
「こんなことになって、本当にごめん。
麗ちゃんを傷つけるつもりはなかったんだ」
麗良は、青葉が何のことを言っているのかすぐには分からなかったが、もう体調は大丈夫かと尋ねられて、展示場で自分が気を失ったことを言っているのだと分かった。
――あれは青葉の所為なんかじゃない。
そう伝えたかったのに、喉の奥に何か固いものが詰まって、うまく言葉が出ない。
「お父さんと仲良くね」
青葉は、ラムファに聞こえないよう少し屈んで麗良の耳元に囁くと、そのまま麗良の脇を通り過ぎて行った。
振り返り、待って、行かないで、とその背に縋り付きたかった。
でも、それができるほど麗良は幼い子供ではない。自分の気持ちすら伝えることができないのに、何と言って引き留めれば良いのか。
その時、麗良の頭に胡蝶の顔が浮かんだ。
今、彼を引き留められるのは、彼女くらいだろう。
麗良は、ぱっと踵を返すと、胡蝶の部屋へと足を向けた。彼女に事情を話して、青葉を引き留めてもらおうと思ったのだ。
しかし、後から追い掛けてきたラムファが麗良の腕を掴んで引き留めた。
「どこへ行くつもりだい」
「母さんのところ。青葉を引き留めてもらう」
間髪を入れずラムファの手を振り払おうとしたが、ラムファは、麗良の腕を握る手に力を込めた。
「彼が決めたことだ。悲しいだろうけど、行かせてやりなさい」
麗良は、ラムファを振り返ると声を荒げて言った。
「青葉が母さんにプロポーズをするつもりだって知ってたのね。
だから、あの時、あいつらを止めてくれなかったんだわ」
花展が駄目になれば、青葉は胡蝶にプロポーズできなくなる。そう思ったから、展示場で暴れる暴漢たちを見て見ぬふりをしたと麗良は思ったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます