チャリとさよならした日

永多真澄

チャリとさよならした日

――東の果てにはね、まだ青い海が残っているのさ。塩砂漠を抜けて、苦い海を越えた先に。





 からからに乾いた風が、しょっぱい砂塵を巻き上げている。毒々しいほどに青々とした空には雲の一つもなく、地平線の彼方まで灰色の大地が続いているだけ。

 見ようによっては美しく見えるかもしれないけれど、それは生き物が住むことを許さない死んだ風景。塩砂漠。


「――昔は、この辺も海だったんだってさ」


『存じています。本機にはAD.2123以前の200年分の地図データがインストールされています。閲覧なさいますか?』


「また後で」


「リマインダーの設定は」


「いらない」


 MALL-Eのこたえは、この景色によく似ていた。無味乾燥でつまらない。私は鼻を一つフンと鳴らして、ゆるゆるとスロットルを開いた。

 シートがモーターの微振動にあわせて揺れる。私一人を載せるにしては、ずいぶん大げさな6輪駆動車が、灰色の塩砂漠に深いわだちを刻んで走る。

 フロントガラスに張り付いた塩の結晶をワイパーが除けると、ざりざりという耳障りな音がした。


『モナカ、そろそろ出発から5時間になります。充電も兼ねて、休憩なされては』


 スピードメーターの脇、人の横顔のアイコンが点滅して、MALL-Eが提案する。もうそんなに走っていたのか。今日中に次の街にたどり着きたいところだったけど、無理そうだ。太陽がもうてっぺんを過ぎてしまっている。バッテリーの残り具合を見ても、確かにここいらで休むしかないだろう。


「オーケー、そうしよう。ありがとうMALL-E、おまえの提案はいつも適切で助かるよ」


『それが私の存在意義ですので』


「あとはもう少し感情豊かだと、退屈しないんだけどな」


『本機はあらかじめ設定されたプロトコルに従って発話しているにすぎません――私にそれを求められても困ります。モナカ』


「困ってるじゃん」


『……言葉の綾、簡略化、比喩表現です。技術的な視点からあなたの問いかけに対し概略的な説明を行った場合、2時間ほどを要しますが――』


「いいよいいよ。しなくていい。ちょっと寝る」


『了解しました。それと、本機を評価してくださった点については感謝します。ありがとうモナカ』


「やっぱ感情あるじゃん」


『ありません。技術的――』


「ストップ、わかったよ。おやすみ」


 いこじなAIだ。私は思わずくすくすと笑って、与圧されたキャビンに潜り込んだ。


「おやすみなさい、モナカ」


 ハッチ越しにMALL-Eの声がする。ちゃんと聞こえているからな。私は地獄耳なんだ。シンギュラリティなんて百年は前の話。絶対感情あると思うんだよな。これ以上はやぶへびだから言わないことにしてるけど。マスクを脱いで、脇のラッチに引っ掛ける。無理やりメットにしまい込んでいた髪がもたりと背に落ちた。そろそろお風呂に入りたい。砂っぽい毛先をもてあそびながら思う。女の子としての身だしなみとか、もう気にしていられる時代じゃないとしても、衛生的にそろそろまずい。キャビンの中のすえた匂いをこのままにしておくのも、に悪いし。


「私のこと、嫌いになっちゃうかな。ねぇ、チャリ」


 やっぱり、身だしなみはもっとちゃんとしようかな。次の街に着いたら、ちゃんと掃除をしよう。そんなことを考えて、やがて夢の中へと意識は落ちていった。





「戦争がね、あったんだよ。モナカが生まれるずっと前、僕の生まれる少し前に」


 チャリは合成緑茶の注がれたカップを私に渡しながら、暖炉のまえのロッキングチェアに収まった。外はびゅうびゅうと風が吹いていて、窓にはべったりとした暗灰色の雪が張り付いている。それでも、ぱちぱちとはぜる暖炉のまわりは暖かかった。私はさっき貰った合成緑茶のマグを両手で抱えて、薬っぽい苦みに顔をしかめさせている。


「せんそう?」


「そうさ。お月様が大きいのは、その時にお月様を落っことそうとしたからなんだよ」


「お月様、落ちてくるの?」


「もう、落ちてはこないさ」


 こわい想像に震える私の頬を、そっとチャリは撫ぜてくれた。私はそれで怖いものが何もないことがわかって、ほっと胸を撫でおろす。名残のように落ちた涙を、チャリは優しく人差し指でぬぐってくれた。


「昔、海は青かったんだよ」


 チャリは暖炉に廃材をくべながら、優しく言った。でもチャリのいうことは、とても信じられないことだった。苦い海は鈍色にびいろで、きれいな虹が浮かんでいるのだし、酸っぱい海はずぅっと赤茶色い。


「お空じゃなくて?」


「うん、海さ。空のように、海は青かった」


 海のことを話すとき、チャリはいつも遠い目をした。とても寂しい顔をした。少し泣きそうな顔をした。

 ずっとずっと遠く、ここにないものを見て、チャリは――穏やかに過ぎる声で――言うのだ。


「東の果てにはね、まだ青い海が残っているのさ。塩砂漠を抜けて、苦い海を越えた先に」





ピピ、というひび割れた電子音で目が覚める。ウォーター・コンバーターから出来立ての水を一口含んで、うがいをしてから飲み下す。ひっかけていた塩っぽいマスクを取る。ずいぶんと懐かしい夢をみた。もう涙は出なかった。水分ロスをMALL-Eに指摘されることもない。私は乾いた笑みを浮かべて、キャビンから這い出した。


『おはようございます、モナカ。現在時刻はグリニッジ標準19時です』


「5時間も寝てたんだ。起こしてくれてもよかったのに」


『充電に少々時間がかかりました。ソーラーセイルの清掃を推奨します』


「次の街に着いたらね」


 風はぴたりとやんでいた。天上には既に太陽の姿はなく、濃紺の空には視界いっぱいの月が黄金色の光を放っている。その月明かりが塩砂漠を青白く染めあげて、周囲は薄っすらと明るい。前世紀の人たちは、きっとこういうのを幻想的と言ったんだろう。


「ライト、節約できないかな」


 私としては、余計な電気を使わないで済むなら助かるな、程度の風景だけど。MALL-Eは少し考えるようにアイコンを点滅させて、「安全第一です」とフロントライトを点灯させた。機械的な月明かりが、塩砂漠に円を描く。


「現在位置は?」


『旧リトアニア、カウナス西100キロメートル地点です』


「朝には着けるかな」


『汚染地域を避けて旧バルト海を進んでいますので、距離と速度と時間は正比例しません。夜営に適したポイントを検索しています』


「先は長いね」


『最終目的地まで残り11,323キロメートルです』


「……先は長いね」


『最終目的地まで残り11,323キロメートルです』


「オーケー、もうわかった」


 途方もない数字に半笑いになる。後悔はない。旅に出る時に決めたことだから。それに戻る家もない。だけど時には空を仰ぎたくもなる。中天の月はそれをせせら笑うかのように、見る間に西方――故郷の方角へと傾いでいく。たったの時間で数万キロメートルを移動しているのだ。スケールが違いすぎて馬鹿らしくなる。バカバカしすぎて、自信も沸いた。なにも月まで行けってワケじゃないんだ。


「バッテリーヨシ、空気圧ヨシ、その他まとめてオールオーケー。じゃ、行きますか」


『ご安全に』


 スロットルを開く。モーターが蚊の鳴くような駆動音を上げて、重たい車体がゆっくりと前進する。かつてあったはずの道は、塩砂漠に呑まれて歴史とともに消えた。私の刻むわだちも、きっと遠からず消えるだろう。それでもいいと、私は思う。しょせんこれは、私の大いなる自己満足なのだから。

 目指すは東の果ての果て、青い海の残る場所。我が身一つを背に乗せて、武骨な車が今日もゆく。行く手に広がる塩砂漠、戻らぬ覚悟は死出の旅。死んだ世界でただ一人、バカをやるのも悪くない。


「そうさ、悪くない」


 チャリにさよならするために。

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