ハローマイライフ

魔法少女空間

第1話 ハローマイライフ

 その日は朝からなにもかもがおかしかった。夜はなんだかにやにやして眠れなかったし、食欲がなくてお母さんが作ってくれた出来立てのスクランブルエッグも残してしまう始末。こんなことは生まれて初めてのことだ。おかげで私はげっそりとした状態で家を出なければいけなかった。赤いリボンを結んで、日焼け止めを塗って、鏡に映った私は、まあそれなりに可愛いという評価をうけるだろうけどやっぱりなんだかやつれている気がする。『ばいばい、愛しい家族。また会う時まで』出掛ける際の挨拶は欠かさない。玄関のドアノブに手をかけたとき、生意気な弟の声がした。「姉ちゃん。そのスニーカー、踵潰れてるよ」

 真夏の熱気とどこかよそよそしい風が吹く中、私は河川敷を歩いた。早めに家を出ているから遅刻する心配はない。こう見えて私は遅刻をしたことがないのだ。用心に用心を重ねて、慎重を期した結果、遅れてしまいそうになったことはある。だが今日はのんびり歩いてたくさんのことを考えなければならなかった。目下の議題は昨日から続く謎のほてりと、高揚感について。あんたほどおめでたい人間はいないよ、なんて友人には言われたりもしたけど、普段からこんなふにゃふにゃの人間ではないのだ。そりゃもちろん毎回きちんと宿題を提出したり、スパゲッティーの茹で加減をぴったり計るほどの几帳面さを持ち合わせてないけど、学校生活にうまく対応していけるだけの几帳面さはあるはずだ。少なくとも私自身はそう考えている。自分にとっての自己を定義する。それになにか不都合なことがあるかしら。

階段を降りるとだだっ広い、広場に出た。ソフトボールの塁間を二つ足したくらいの広場。そこで私は何度も行ったり来たりを繰り返す。重要な問題を考える際には河川敷の長さではとても足りない。歩くよりもちょっと早いくらいの速度で、真理との距離を縮めていかなくてはならないのだ。そのためにはシューベルトのピアノソナタ第十七番ぐらいの長さと奥行きが必要になってくる、と私は考えている。もちろん感覚的な、立体的な思考の比喩表現として。一般的にこのピアノソナタは冗長と言われているそう。一般的には? まあそうかもしれない。それは私も認める。シューベルトが偉大なる音楽家の系譜であることと、多くの批評家の才能はシューベルトの何百分の一すら満たないであろうという事実を持ってして、私はそれを素直に認める。でもそれって今の私にはぴったりってことじゃないかしら。冗長な音楽ってことは理解のしにくい大きなまとまりってことだ。脈絡のなさと有機的なつながりは反芻をすることによってきつく結ばれる。それはまさしく、私の頭の中そっくりそのまま似ている。ふと目をやれば、日陰になっている橋の下では水溜まりに蜻蛉が浮いていた。にやにや、食欲、踵の潰れたスニーカー。これらにはなにか共通するものがあるような気がしたけど、特にびりびり電流は来ない。頭を振っても、水溜りの上をターンしても天啓がやってくるようなことはなかった。

 暑いので小休止。私は河川敷を上がり、白と赤の自販機に硬貨を入れた。私は決して妥協しない。それが三十円と六十円の違いであってもだ。『目が覚める、とびきりのものをお願い!』押して出てきたのはよく冷えた珈琲だった。もちろん無糖のやつ。プルタブを捻り、その冷たさと苦さに悶絶する。カフェインがゆっくりと染みわたっていく感覚があり、世界が煌めいて見える。水面はいつもより青く空を映していたし、遠くのビルの照り返しでさえもなんだか嬉しく思えた。まさか、珈琲にこんな効果があるとは。

 もちろん、違う。世界がきらきらして見えるのは昨日から続く症状のせいだ。やることなすこと一昨日までとは違うように感じる。これはこれで悪くはないけど、なんだか別の人格になってしまったようで落ち着かない。缶珈琲をゴミ箱に投げつけ、のっしのっしと歩いた。もしかしたら今ちょうど戦っているかもしれない、一昨日までの私と今の私との戦いを横目に見るように、そしてどちら側につくことになるのか、しっかり精査するように。

 汗を拭き、セーラー服の脇の部分が染みになっていないか確かめた。とはいえ、がっつり相対するようなはしたない真似はしない。ちらっと、意中の相手を見るようにそれとなく確かめるだけだ。

 そんな目の端でひとつの影があった。真夏の太陽は濃い影を作って、強い生命力を与えてくれている。黒い影はじりじりとした灼熱の上で踊るように私に近づいてきた。それは小さなチワワだった。ずんぐりむっくりで足だけが短いタイプのチワワ。

 私はチワワが大好きだけど(というより可愛いものはみんな好きだ。御多分に漏れず)チワワを見るとなんとなく不憫に思ってしまう。こんな短い脚でどうやって身体を支えているのだろう。灼熱のアスファルトや豪雪の雪の中をどうやって進むのだろう。あるいはその大きな瞳になにが見えているのだろう。だけど目の前のチワワはそんな思いはものともせず、私の周りをぐるぐると駆けた。まるで走り回るのが嬉しくて仕方がないというように。

 そうか、そうか、そんなに走るのが嬉しいのか。ならその小さな足もきっと不便ではないのだろう。誤解を恥じる。私は迫りくる物体を抱きかかえるように受け止め、そのまま飼い主の元へ運んで行ってあげた。チワワは想像よりもずっと軽かった。

「あら、ありがとうございます。この子私が目を離している隙にいつもどこかに行ってしまって」目を離している隙に、という言葉が引っかかる。それにリードはどこに行ったんだ? 「私はリードをつけませんの。愛しい子供のような存在にどうして首輪なんて欠けれるのでしょうか。この子も、茶色い子も、黒い子も、みんなリードは付けません。だから散歩は一回につき、一人。私は三週分同じコースをあるのですわ」

 それはそれは。なんというか判断をつけかねる出来事だ。とりあえず、留保としておくことにして私はもうひとつ、どうして犬に名前を付けていないのかを聞いた。

「名前は付けません。名前を付けるってことは性質を決定するか、それの所有物にするか、あるいはその両方の意味が含まれていますから。私には恐ろしくてとてもできません」

 なんだかどこかで聞いたことのあるような科白だな。名前……所有……、なんだっけ、思い出せない。まあいいや、いつか思い出すか、それとも忘れてしまっているだろう。私は去り際にチワワの目をしっかり見て、別れの挨拶をした。

『さよなら、同士よ。よくよく足は冷やしておくように』

 チワワはワン、と吠えた。もちろんミャアと鳴くよりかはましなのだけど、もうちょっとなんとかならなかったのだろうか。例えば、あう、とか。いえいえ、それはいくらなんでも。

 私は再び、自分の足で歩き始めた。粒子となっていた思考が集まり始める。さっき、珈琲を飲んだはずなのに、もう喉が渇いてしまっていた。それもこの暑さなら仕方あるまい。ちょうど木陰に隠れている水飲み場を見つけて水を飲んだ。蛇口から出る水もやっぱりきらきらしている。じっとしていられない気分だ。

 原因不明の病を治すため、この症状がいつごろ出てきたものなのかを考える。昨日の昼休み、鳶色のうぐいすパンを食べていたときはそうではなかった。五限と六限の授業もいっしょ。放課後は確か、図書室にいて本を返した後小説を読んでいたから……

 そうだった。あれは私がグレイス・ペリーの小説を読んでいたときだ。タイトルは『最後の瞬間のすごく大きな変化』小説は半分くらいのところまできていて、あとひとつ短編を読み終わったら、帰り支度をしようと思っていたところだった。さて、読み終わって、本を閉じて、立ち上がろうとするときに肘が鞄に当たった。それで中身を全部床の下へぶちまけてしまった。

 あーあ、と私は思う。放課後とはいえ、図書室にはまだ人がいたし、落としてしまった際に大きな音も出ていた。当然のごとく私は衆人環視の目に晒されて、一人で頬を赤らめていたわけだ。私にだってそれくらいの分別はある。

 まずは床に散らかった筆記用具類を手に取ろうと腰をかがめると、文字通りそこに『顔』があった。私はさっと、ボールペンの先を相手側に向けると激しい口調で言った。どうしてあんたが、そんなところにいるのよ。

「どうしてって言われても」そいつは頭を掻いた。「一人で疲労よりも二人で拾った方が速いだろ」

 その理論は一見隙がなくて正しいようにも聞こえるけど、信用はならない。どこか絶対に決定的な間違いが含まれているはず。だってあいつの言うことなんて全部ひん曲がっているに違いないんだから。

 とはいえ、いきなり突き飛ばすなんてことは出来ないし、手を動かすことぐらいしかやることはなかった。二人で黙々と作業を終えて、全ての荷物が私の鞄に元通りに収まると私はそいつを見た。確かに二人でやった方がおそらく四割ほど早く出来た。

『ときには正しい選択をするじゃない。でもそれっきり。椅子は片付けておいてね』

「おい、ちょっと待てよ」そいつが言う。なに、お礼ならもう言ったじゃない。私はわざと嫌そうな顔をしてみせる。

「たまには一緒に帰らない?」そんなことをそいつは言った。まあ、確かに、私とあんたは昔からの仲だし、ずいぶんと幼いころは一緒に帰った記憶もある。でも最近はそんなことはまったくなかったし、それに入学以来ほとんど話しかけてこなかったじゃないの。なにを今更になって、一緒に帰ろうだなんて。突然過ぎて、気味が悪いって言うか、なにか良からぬことを企んでんじゃないかとか、私は身構えるわけ。もちろんあんたのことが昨日風呂場で見かけた蜘蛛よりも嫌いってわけじゃないけど、なんにせよ突然過ぎる。そう、詰まるところ突然過ぎるのよ。そういうのはちゃんと昨日のうちから、遅くとも午前中くらいには通達をしておいて、周囲が不自然に思わないようにそれとなく校門を出るものじゃない。もしかしたら、この後友達とカラオケに行く用事があるのかもしれないし、本屋に寄ろうと思っていた可能性とかちょっとは考慮しないわけ? 

『靴箱から靴を取り出して、恭しく持ってきてくれるようじゃなきゃ嫌。図書室って言うのはとても静謐な場所なのよ』

 私が言い切ると、そいつはばつが悪そうに言った。

「それは俺が悪かったよ。でも仕方ないだろ。そんなふうに思ってるだなんて知らなかったんだよ」

 それはそうでしょうね。と私は思う。これまで私はあなたのことを知ろうとしてこなかったし、あなたは私のことを知ろうとしなかった。ただ、それだけのことなの。

 黙って昇降口まで行くと、後ろからあいつも付いてきた。なにか言ってくるけど、聞こえないふりをした。学校を出ると西日が綺麗に見えた。通学路には私たち以外誰もいなかった。バックミラーの中で何度か視線が合う。たまらず私はコンビニエンスストアでなにか買っていこうと提案をした。「それはいいな」とあいつが言った。私たちは並んでアイスを食べ、同じゴミ箱に食べ終わったプラスチック容器を捨てた。あいつの頬っぺたにはまだ白いクリームの跡がついていた。

 思うに、私がおかしくなったのはそれからのことではなかろうか。

 私は今、学校前の十字路に来ている。この時間ではまだ、向かいの理髪店も工具屋もまだ開かれていない。母親に手を連れられていた園児が楽しそうに唄を歌っていた。

 そこでささやかな奇跡が起こった。前を歩いていた園児の黄色い帽子が風に舞って、ふわりと回転をして、あいつの前に落ちたのだ。空中で受け止めようとした私の腕は空を切って、角の壁に手をついている。

『ごきげんよう、我が人生』

 私の挨拶は妙に上擦った声になってしまった。心臓がぽろりと落ちてしまいそうだ。

園児が帽子を拾いに来ると、あいつは小声でなにか呟き、私の気も知らないで笑って見せた。母親にもなにか返す。まったく、ここまで来て世間話? 自分が自分ではないようなこんな衝動を憶えたのは生まれて初めてだ。私が訳も分からず、奥歯を噛みしめて、力いっぱいあいつの背中をどつく。そんな未来を描いたのはそれから三秒後のことだった。

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