第27話 高校を降りるという選択肢

 高校を自らの意思で降りた若者たちの姿には現代社会における様々な問題が見え隠れしているが、そこには私たち一人一人がどう生きていくべきか考えるきっかけとしうる要素も多々含まれている。高校進学率が限りなく100%となり、義務教育的な位置づけになってもう半世紀以上。その間、高校という名の「義務教育」を拒み新たな道を開いてきた若者たちは一定数いたし、今もいる。

 その姿の変遷を追ってみよう。

 なお、ここでいう「高校」とは、全日制高校(単位制かどうかは問わない)と定時制高校でも単位制を採用していない高等学校を一般に指すものとする。


 この半世紀間、高校を舞台とした青春ドラマはいくつも描かれ、時にテレビドラマとして社会の注目を集め、ある時は主人公たちと同世代の若者たちを虜にし、ある時は大人たちに青春を回顧するきっかけを、ある時は子どもたちに未来への夢を紡いできた。

 そこは確かに先述の内山元高校教諭の言う「全人教育の場」であった。

 それは私も否定しない。

 一方、そんな「高校」に行くことを拒否し、あるいは諸般の事情のため不本意にも別ルートで大学や専門学校に進学した者も少なからずいる。


 かつて「中卒東大一直線」というドラマがあった。

 1984年、ちょうど私が中学生の頃。

 管理教育で悪名高かった愛知県のある学習塾経営者の一家が、子息をすべて高校に通わせず、大検という制度を活用して東大や京大に行かせたという話である。

 このドラマには、「もう高校はいらない」という言葉が副題としてつけられた。

 当時はまだ大検という存在自体が世間に広く知られておらず、高校進学率こそ9割を超えていたが、大学進学率はまだ3割台前後。

 出身高校の話題がいつまでも続くような地方に住む人にとって、大学はともかく大検という制度があってそれがどんなものかを知る人さえほとんどいなかった。

 そんな時代に、高校など無視して大学に進学することは奇想天外以外の何物でもなかった。そのようなルートが本格的に世間の知るところとなったのが大検こと大学入学資格検定、現在の高等学校卒業程度認定試験(高認)の前身である。

 大検にはじまり定時制・通信制高校の修業年限の短縮化、さらには大検と通信制高校の併用、そして、広域型の通信制高校(中には「大検予備校」として歴史あるものもある。ここでは、学校の本部とは別に、各地に拠点校と称する「校舎」をテナントの一角に構えて広域に展開している学校等を指す)の普及。その背景にあるのは高校中退の問題。

 彼らの受け皿をどこに作るかは、常に大きなテーマの一つとして存在している。


 高校進学率が高くなかった頃なら経済的な理由や健康上の理由ということで、かわいそうだけどまあ仕方ないなという程度でさほど問題にならなかったが、中退者のあまりの増加は、そんな牧歌的な見立てで済ませることを許さなくした。

 若干極端な例かもしれないが、「孤児院」的な要素がまだ残っていた半世紀前の養護施設なら、「施設の子どもたちに高校進学を」という言葉が意味を持ちえた。この頃はまだ高校進学を経済的な理由で断念する層が少なからずあったが、今時養護施設の子どもたちの高校進学でさえも普通になっている。

 ここには中退率が高い等の問題がないではない(私もそのような事例は多く目にした)が、本稿では触れない。

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