第22話 人とのつながりをどう作ればいいか?
私は確かに烏城高校という学校自体をあてにも頼りにもしていなかった。
誰だって、普通はあてにも頼りにもされたいもの。
それなのに、頼りどころかあてにもされない方としては無視だか敵視だかされているようで面白くもないかもしれない。
どう見てもこいつはこの学校を「足場」にしているぞとなれば、なおのこと。
周囲には、これでだめなら次はこの手と、「説教ごかし」のわかったようなことを言う人もいる。彼(彼女)らは、なまじ「ためを思って」言って来るだけに、性質が悪かった。
だが、学校という「機関」は自分自身の人生を築いていく上で「利用する」ものである。必要のあることはとことん利用するが、必要ないことはいっさい利用しない。そんなことは、社会で生きていく上で誰もが当然行っていることである。
それが学校の話となるとやおら情緒論や仲間意識を強調しだす人たちは、昔も今もいる。情緒論が悪いとか、仲間意識は無駄だなどというつもりはない。
だが、そんなものは後からついてくるものに過ぎない。
幸い、私には自分の話を真剣に聞いてくれる人が2人いた。一人は岡山大学の鉄道研究会の先輩、もう一人は、中1のときの担任だった先生だ。それに加え、烏城高校という「足場」があったわけで、そこの先生方と話をするだけでも、精神的に煮詰まらないようにするには大きな効果があった。
ある意味、プロ野球関係者のような考え方である。
だが、あてにも頼りにもしなかったからこそ、先生方はむしろ力になってくださったし、今に至るまで卒業生として扱ってくださっているわけだ。
私が高校時代に学んだことで一番大きな財産は、まさにそのことだった。
今でこそここまで文章にできる能力が身についたが、大学生の頃はまだ高校時代の爪痕を抱えていて、ここまで述べるだけの力がついていなかった。
正直、人生を30年近く無駄に生きたような気がしてならない。
まだこれからがあるじゃないかという向きもあろうが、そういう問題ではない。
そんなものは私に言わせれば、気休めにもならない詭弁でしかない。
だが、この世にいるうちに気づいただけでも、「よし」としなければなるまい。
大体、「友だち」がどうとか「恩師」がどうとか愛校心がどうとか母校愛がどうとか、それらは、その過程で後からついてくるものに過ぎない。「金は後からついてくる」というが、お金についてはその反面「先立つもの」という要素もまたついて回る。しかし、友人とか恩師とか愛校心とか母校愛とか、それらに共通しているのは「先立つもの」の要素がほとんどないことだ。
そんなものを追うヒマがあれば、自分自身と向き合い、目標に向けてひたすら進むことのほうが肝要ではないか。
何より大事なことは、自分自身としっかり向き合って情報を得て目標を打立て、次のステップへと必死で努力していくことだ。
それが、私が高校を降りて様々な経験をして得た「結論」である。
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