底の底から変化するとき・させるとき

第19話 定時制高校の変貌

 この頃から定時制高校は単に「全日制高校に合格しえない生徒の受け皿」ばかりでなく、「不登校生の受け皿」としての要素も持ち始めた。


 後に高文研という出版社から「あかね色の空を見たよ」という本が出版された。

 著者の堂野博之氏は、小学生から中学生の時期にかけて今でいう不登校を経験した後烏城高校に通い、卒業後は学校職員をされている。

 堂野氏は私より1期下になるが、この頃はまだ不登校は「登校拒否」と呼ばれ、学校関係者にも無理解が蔓延していた。

 彼が烏城高校を卒業して数年後、文部省も「不登校」は誰にでも起こり得ることと認め対策が練られるようになったが、堂野氏はその「走り」の時期に小中学校にいたが故に辛い思いをされた。

 だが彼の存在は今なお、不登校を余儀なくされた生徒たちの対策の「礎」になっているのではなかろうか。


 1985年から1988年3月まで、私が烏城高校に在籍していたこの時期は、その後の定時制高校に限らず、通信制高校や大検、そして現在の高認といった「高校を降りた」若者たちのその後の方向性を社会全体に明確に示す「兆候」が明白に見え始めた時期だった。

 本来「勤労学生」の学びの場が、全日制の「高等学校」に様々な事情で「なじまない」生徒たちの学びと救済の場へと大きく変貌を遂げたわけだが、その兆候は1980年代を通じて水面下からはっきりと表れていた。


 社会の変化はたいていの場合、弱者や下位層を大きく揺さぶる。

 学校で言えば、上位の学力の生徒が集う学校よりも「底辺」と呼ばれる学校のほうに現れるのは必然である。

 当時の烏城高校は、旧制岡山一中で新制の岡山朝日高校と同じ敷地内にあった。

 岡山朝日高校は旧制中学以来一貫して「高学力層の中等教育」を担う立場で一貫している。大学進学率の上昇で、進学校としての要素がますます強まった程度に過ぎない。1999年の公立普通科高校の「総合選抜制」廃止後さらに進学実績を上げ、5教科中3教科は独自入試問題を課すようになった。総合選抜制度を廃止して「名門校復活」を遂げたと見る向きもあり、確かにその通りではあるが、それとて根本的な役割が変わったというほどの変化ではない。


 一方烏城高校という定時制高校は、勤労学生のための場所から中退・不合格を問わず全日制高校を「降りた」生徒たちの受け皿を経て、不登校生などの全日制の学校になじめない生徒たちの受け皿としての役割も加え、この1世紀近くの間その時代に翻弄されつつも、役目を少しずつ変えて存続している。

 まさに、孤児院の要素の強かった養護施設が、虐待などの家庭の事情からやむなく施設に預けざるを得なくなった子供たちの受け皿へと変貌を遂げたのとよく似た動きである。


 烏城高校は後に岡山市北区の生涯学習センターの敷地内に移転したが、単位制の定時制高校として3年で卒業できる過程が組まれている。

 移転した先は、今時の「鉄筋建ての冷暖房完備のきれいな建物」である。

 だが、あの木造2階建ての冷房もない校舎、今となっては懐かしい。

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