第13話 夕焼けニャンニャンの陰から
理解者もいない,妨害者だらけの世の中。
私はそれを、勉強の合間に本を読むことで突破しようとした。
阪神が日本一になった翌1986年。
私は思い立って、ひたすら図書館にあるプロ野球関係の本を読んだ。
プロ野球関係者の本は、私に孤独に打ち克つ力を与えてくれた。
そして、養護施設という「サティアン」もどきの環境から飛び出すための心構えをしっかりと教わった。
青春ドラマで描かれるような、友情とか仲間とか、そんな言葉をかなぐり捨てる時が来たのだ。いつまでも「仲間ごっこ」などしていては人生を切り開けない。
私は、プロ野球関係者の本を読み進めるごとにその意識を強くした。
同時に、毎週水曜日と土曜日には岡山大学に行き、鉄研こと鉄道研究会の例会にも出席し、野球本だけでなく鉄道書も読んでいた。
そこには確かに、私の「居場所」があった。
私の読書力は、この時期に鍛えられた。
ただ、思いが即文章力につながるわけではない。文章を書くことは、30歳に近くになるまで全くと言っていいほど自信がなかった。
今でこそ文庫本程度の分量なら1週間程度もあれば書き切れるが、当時は、原稿用紙3枚程度のことも満足に書けなかった。
アルバイトも含め仕事はほとんどしておらず、朝から昼にかけての時間はふんだんにあったから、多くの本を読むことができたわけである。
しかし夕方ともなれば、いつも嫌な思いが頭をもたげた。
ちょうど、あのおニャン子クラブが出ていた夕焼けニャンニャンなる番組で、同世代の少女たちがブラウン管の向こうで底抜けに明るく歌う時間帯。
一方の私は、定時制高校に憂鬱な気持ちで向かう。
定時制高校には給食というものがあるので、食べに行く。これはもともと、勤労青少年の食生活をしっかりサポートする趣旨で設けられている制度である。
これは私にとって、実にありがたかった。
パンと牛乳程度のものしか出さない学校もなかにはあったようだが、烏城高校はそれなりの料理を提供していた。
授業は、出席日数に足りなくなるほどまでは休まない。
でも、適当に休みつつ、いろいろなことをしていた。
とにかく、自分の勉強が最優先。
その他は一切、眼中に入れるに及ばず。
・・・ ・・・ ・・・・・・・
そんな状況下、私の通っていた烏城高校に、小学校の同級生のひとりが訪ねてきてくれたという。
京都大学文学部に現役で合格し、卒業後NHKに入局して後に映画監督になった黒崎博氏がその人である。
彼は私が烏城高校にいたのと同じ時期、同じ敷地内にある岡山朝日高校に進学していた。彼とは中2の年の岡山大学祭の会場で、鉄道研究会の展示場から出て休憩していたときに会って以来40年近くにわたってお会いしていない。
幸いにも先日、電子メールによって約40年ぶりに彼と連絡が取れた。
彼の弁では、誰ともなく私が烏城高校に通っていると聞いて、陣中見舞? に来てくれていたそうだ。結局は会えなかったのだが、ひょっとそのときは、学校に来ずにどこかでぶらぶらしていたのかもしれない。
よつ葉園が丘の上に移転前の学区の小学校時代、黒崎君と同じクラスになる年も多かった。それだけでなく仲もよかったというのもある。今思えば、会えていればよかったかなとも思う反面、あの時はあれで仕方なかったのかなという気もする。
彼は数年前、「太陽の子」という日本の原爆開発に携わった教授とその研究室の学生たちを描いた映画の監督を務めた。
私は、映画の本編より先に特典映像を観た。若い俳優さんらに演技指導をしている映画監督・黒崎博氏は、間違いなくあの頃の黒崎博君と同一人物であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます